表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/43

第十三話 探し続けた理由

 国境沿いの夜は、静かだった。


 静かすぎて、耳が慣れるまで時間がかかる。

 遠くで風が動き、草が擦れる。

 それ以外の音は、意識しなければ聞こえない。


 敵国の野営地は、霧の向こうに沈んでいる。

 焚き火は最小限。

 光は地面に落とされ、空に漏れない。


 見張りは三重。

 間隔は均等で、死角も少ない。

 交代の動きも無駄がない。


 正規兵だと、遠目でも分かる。


 練度がある。

 油断していない。


 だからこそ、

 ここを通る必要があった。


 リナは丘の陰で呼吸を整えた。


 深く吸い、吐く。

 音を立てない。

 鼓動を、身体の奥へ沈める。


 数を数える必要はなかった。

 配置も、動線も、すでに頭に入っている。


 この距離。

 この風向き。

 霧の濃さ。


 判断は終わっていた。


 剣は抜かない。

 抜く理由がない。


 踏み出す瞬間、

 迷いはなかった。


 足音は、地面に吸われる。

 一歩。

 二歩。

 三歩。


 最初の兵が倒れるまで、三歩。


 音は出ない。

 喉を狙わない。

 顎を砕く。


 息が詰まり、

 身体が崩れる前に、

 肩を支えて地面に寝かせる。


 倒れる音を出さないための動作。

 考える必要はない。


 二人目は異変に気づいたが、遅い。


 視線が走る。

 足運びが重い。


 訓練は受けている。

 だが、実戦が足りない。


 間合いに入る。


 刃を避ける必要はない。

 刃が届く前に、

 体が崩れる。


 三人目が号令をかけようとした瞬間、

 柄頭が喉元に入る。


 声は出ない。

 音も残らない。


 残りが距離を取る。

 退却判断が早い。


 それでいい。


 追わない。

 敵を殲滅する必要はない。


 進路を通すだけだ。


 戦闘は終わった。


 霧の中に、音が戻る。


 虫の羽音。

 風。

 遠くの焚き火のはぜる音。


 世界が、元の速度に戻る。


 リナは剣を拭き、鞘に戻した。


 呼吸は乱れていない。

 鼓動も、いつも通りだ。


 戦場で、こうして立ち続けてきた。


 英雄と呼ばれる理由があるとすれば、

 それは勝ったからでも、

 強かったからでもない。


 生き残り続けた。

 それだけだ。


 その瞬間、

 思考が自然に、別の場所へ滑った。


――今、彼は何をしているだろう。


 違和感はなかった。


 敵国の正規兵を退けた直後でも、

 その考えは、

 息をするように浮かぶ。


 不思議だとは思わなかった。


 血と鉄の匂いの中で、

 ふと、

 薬草の匂いを思い出す。


 乾いた布。

 消された血の痕跡。

 静かな足音。


「脈はある」


 あの声。


 感情を含まない。

 期待もしない。

 ただ、事実だけを置く声。


 命が切れかけていたあの瞬間、

 彼は英雄を見ていなかった。


 若い兵士でもない。

 功績のある存在でもない。


 ただの患者。


 だから、

 リナは生き残った。


 戻るかどうかは、自分で決めろ。


 そう言われた。


 命を救われたことよりも、

 その言葉の方が、

 ずっと深く残っていた。


 剣しかなかった人生で、

 初めて、

 剣を握らない選択を渡された。


 その意味を、

 当時は分かっていなかった。


 だから探した。


 最初は、理由などなかった。


 ただ、

 あの医務室が、

 どこかにある気がした。


 彼が、

 どこかで、

 同じ距離で立っている気がした。


 戦線を移動するたびに、

 街に寄った。


 医者の噂を集めた。


「安心できる凄腕の医者を、知らない?」


 その言葉を口にするとき、

 いつも少しだけ、胸が締まった。


 凄腕の医者は、どこにでもいる。


 だが、

 安心できる、という言葉で、

 皆、首を傾げる。


 説明しようとすると、

 言葉が足りない。


 優しい、では違う。

 厳しい、でもない。


 彼は、

 何も足さなかった。


 だから、

 こちらも何も足さなくてよかった。


 戦場では、

 常に何かを背負わされる。


 役割。

 期待。

 成果。


 だが、

 あの医務室では、

 それが一つもなかった。


 リナは、

 その違いを、

 最初は「楽だ」としか思っていなかった。


 安心だと気づくまで、

 時間がかかった。


 そして、

 それが自分にとって、

 どれほど特別なことかに気づくまで、

 さらに時間が必要だった。


 探しながら、

 戦い続けた。


 英雄として。


 誰かに守られることなく、

 誰かに委ねることなく。


 それでも、

 進む方向は、

 少しずつ変わっていった。


 勝つための戦いではなく、

 帰るための戦いになった。


 帰る場所。


 その言葉が、

 頭に浮かんだ夜がある。


 焚き火の前で、

 剣を整えながら。


 戦場で進路を選ぶときと、

 同じ感覚だった。


 逃げ道ではない。

 有利な場所でもない。


 自分が立ちたい場所。


 その場所に、

 彼がいる気がした。


 ある晩、

 戦闘の後で、

 ふと考えた。


 もし、

 今、彼が目の前にいたら。


 自分は、

 何を言うのだろう。


 ありがとう、だろうか。

 探していました、だろうか。


 どちらも違う。


 もっと、

 弱くて、

 個人的で、

 戦場には持ち込めない言葉。


 胸の奥が、

 静かに熱を持つ。


 その感覚を、

 もう無視できなかった。


 命を救われた。

 それだけじゃない。


 救われたあと、

 彼がそこにいた。


 淡々と。

 同じ距離で。

 同じ声で。


 英雄でも、

 兵士でもない場所で。


 その時間が、

 どれほど大きかったのか。


 戦場で、

 何度も死線を越えた今なら、

 はっきり分かる。


――これは、恋だ。


 戦闘しかなかった人生で、

 初めて生まれた感情。


 命の恩人であり、

 初めて「戻りたい」と思った人。


 初恋だった。


 リナは立ち上がる。


 英雄であることと、

 恋を選ぶことは、

 矛盾しない。


 どちらも、

 自分で選ぶ道だからだ。


 探し続けた理由は、

 もう明確だった。


 彼のいる場所へ行く。

 それだけ。


 レオンは、

 まだ何も知らない。


 それでいい。


 リナは、

 英雄のまま、

 恋を抱いたまま、

 歩き出す。


 自分が選んだ道を、

 疑わずに。




――――――――――――――――――

この物語が少しでも面白い、続きが気になると感じましたら

↓★★★★★で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ