1-4 現実の直視
現実を直視するという事は意外と難しい。
なぜなら、現実の直視にはどうしても無駄な恥やプライドが介入してしまう。感情というものは、理性と切っても切り離せない厄介なものだ。
しかし、今の俺は無駄な恥やプライドが無いのにも関わらず、起きている現実を直視できていない。
『人の顔』が空を覆っているという、度し難い現実を。
「……いやいやいやいや!!!」
現実の直視ができない。
空の上には巨大な『人の顔』がある。
しかも、その顔は真っ白に染まっているくせに、目や鼻の穴、半開きの口は真っ黒に染まっている。
シンプルにキモい!!
いやその前にあり得ない!なんなんだよアレ!?
「暁理くん?どうしたの?」
呆然と立ち尽くす俺に、声を掛けた人間がいた。
そこにいたのは長い黒髪と白衣が似合う、美人として有名な養護教諭の先生だった。
「えっいやっ、あのっ」
彼女に声をかけられた事で初めて気がつく。
氷のように冷たい汗が濁流のように流れている。
それなのに、心臓の奥からは湧き出た焦燥や恐怖や困惑が熱を持ち、身体中を駆け巡る。流れる汗は冷たいのに、身体の奥は燃えるように熱い。言葉が上手く出ない。どうすればいいのか分からない。
身体中がバグを起こしていた。
「大丈夫?体調悪いの?」
養護教諭の先生は、心配そうに俺の様子を伺う。
……いやいやいや!!それより外見ろ!!
なんでこの人は外の異常に気づいていないんだ!? 外に『人の口』があるんだぞ!!気づけよ!!
「せっ先生!!あのっ……外!!」
俺は養護教諭に縋るように、窓の外を指差す。
「外?外になにが───」
養護教諭の先生は、疑問を抱きながら窓の向こうへ顔を向ける。
それが、最後の言葉になるなんて思いもしなかった。
───ドゴオオオオオン!!!!
壁が爆音とともに破裂し、瓦礫とガラスと粉塵が四方に吹き飛んだ。
「えっ───」
起きた現実を純粋に瞬時に受け止めて、ただただ驚愕が漏れた。
瓦礫もガラスも粉塵も一切の情もなく、ただただそこに存在するだけ。そして、その瓦礫の下からは赤黒い液体が床へ無機質に流れている。
その事実だけで、数秒前まで目の前にいた養護教諭が、どうなったかを理解した。理解してしまった。
「ゔっ……」
無意識に口を塞いでしまう。
物理的にも精神的にも、何かが口から溢れ落ちそうだった。これを溢してしまったら、二度と立ち上がれない程の何かを、溢してしまいそうだった。
「おっ、いるじゃん」
崩壊した壁の向こうから、低い男性の声が聞こえた。
俺は無意識に、その声から成人男性の姿を連想する。
しかし、その連想は無情にも打ち砕かれる。
粉塵の中から現れたのは人間だった。
翼を生やした、爬虫類の鱗を纏った人間だった。
「……なんだお前、人を化け物みたいに見やがって」
翼を生やした爬虫類の鱗を纏った人型の生物は、生を奪う為だけに存在するような牙を鈍く輝かせ、他生物を殺す為だけに存在するような鋭い爪を見せつけながら、不満を隠そうとせずにこちらへ敵意を向ける。
「……」
声が出ない。目の水晶体に映ったこの人間を見て理解してしまった。
こいつは『本物』だ。
この鱗も牙も爪も翼も、全て本物。
つまり、こいつは本当のトカゲ人間だ……いや、本当に『トカゲ』か……?こいつはまるで……『龍』のような───
「おい、お前『デザイア』知らないか?」
翼を生やしたトカゲ人間は敵意を隠さず、しかし軽快な口調で尋ねてくる。
その眼は、明らかに俺を見下していた。下等種族だと蔑んでいた。
「『デザイア』……?」
俺はつい、トカゲ人間が発した言葉をそのまま零す。
奴の口から出た『デザイア』という言葉……『Desire』?『願望』『欲望』の意味を持つ英単語のこと?
そもそもなんでこのトカゲ男、日本語喋ってんだ?いや『デザイア』は英語だけどさ。
「ああ。この世界に『デザイア』の所有者がいる。お前が知ってるなら、特別に生かしてやる」
トカゲ人間は先程と同じく軽快な口調を弾ませる。
しかし、その『生かしてやる』という言葉には、確かな悪意が滲んでいた。
俺は目の前のトカゲ人間と出会って1分も経っていない。
それでも、分かる。
こいつの『生かしてやる』という言葉は『嘘』だという事を。
俺は『デザイア』を知らない。
でも、知っている。分かっている。
俺は目の前のこいつに、殺されることに。
「……その顔だと知らないっぽいな」
トカゲ人間は軽快な口調から一転して、冷血な声色が彼の喉から出力される。その声色の変化に恐怖を覚える暇もなく、トカゲ男は翼を羽ばたかせる。
そして、たった一瞬。
まるで瞬間移動かのように、その羽ばたきで俺の目の前まで距離を詰める。
「死ね」
その言葉と同時に、鋭い爪を俺の眼前まで迫らせる。
「あ───」
殺される。
それは、確信だった。
トカゲ人間は今からこの鋭い爪で俺を殺す。
槍のような形をした爪で顔面を抉り取るのだろうか。
脳みそをほじくり出すのだろうか。
眼球を刺し潰すのだろうか。
普通の人間なら、そんな事を考えて恐怖するのだろう。
しかし、俺は恐怖するよりも先に、脳内をある感情が先行してしまった。
言葉にするにはあまりにも弱く、小さく、朧げな感情。
それを理解するよりも先に、間違いなくこの爪が俺を殺す。
だけど、確かにその感情は言葉として脳内を閃光のように駆け巡った。
『あいつ』を置いて、死ぬのは───
ザシュッ───
───ボトッ
「えっ」
反射的に驚愕が口から零れる。
腕が、落ちた。
トカゲ人間の爪は俺の顔面に到達する事は無く、俺の命を奪う事も無く、無機質な音と共に落ちた。
「ガァッ……!!」
トカゲ男は何が起きたのかを理解出来ず、血の気の引いた顔で無くなった腕を見つめる。
俺も何が起きているのかを正確に理解する事は出来ない。
けれど、目の前の現実を羅列する事はできる。
俺の目の前には『黒い鎌を持った少女』がいる。
音よりも光よりも早く、トカゲ人間の爪が俺の顔面へ到達するよりも早く俺の前に現れ、その大きすぎる黒い鎌でトカゲ人間の腕を斬り落とした少女がいる。
少女はトカゲ人間の方向を向きながら、一言も言葉を発する事なく鎌を構えている。
「ッ……!!」
トカゲ人間は苦痛を溢し、腕の断面付近を掴む。
腕の断面は皮と肉と骨が綺麗に分かれており、断面を隠すように緑色の血が流れ落ちている。
トカゲ人間は恐怖と苦痛を剥き出しにしながら、精一杯の悪意を吐き出す。
「テメェかッ……デ───」
ザシュッ───
トカゲ男は言葉の途中で断頭された。
「あー……最悪だぁ……」
目の前に存在している、緑の血を滴らせた黒い鎌を持つ彼女は、ため息混じりにそう零しながら頭を抱える。
俺はその少女に見覚えがある。
いや違う。
何度も見た。飽きるほど見た。
目に焼きついて離れないほど見た。
そこにいたのは、白色のセーラー服に青色のリボン、紺色のチェックのスカートに茶色のローファーという弊校指定の制服を完璧に着こなし、ロングヘアの黒髪を携えた、一歳上の俺の幼馴染。
───安藤零奈が黒い鎌を持ち、目の前に立っていた。
「零奈……?」
無意識に零れたその言葉に反射するように、彼女はゆっくりと壊れた機械のように振り返る。
「……せーかい、でーす……」
零奈は悪事がバレた子供のように、ぎこちなく笑った。
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