2-4 きっと、これが
彼女の帰りを待って、何時間経っただろう。
檻の壁の上部には小さな窓がある。
そこから差し込む小さな光が、だんだんとオレンジに染まり、やがて白色を纏った黒に変わっていった。
恐らく今は夜。俺が起きたのが朝なのか昼なのかは分からないが、6時間以上は起きていそうだ。
時間が過ぎるだけ。ただただ時間が過ぎるだけ。
何も出来ないし、何もしない時間が過ぎる。
ガチャ……と、遠くから家畜部屋のドアが開く音がする。
俺はその音に素早く反応して、トイレの小部屋に再び隠れる。
その数秒後に俺のいる檻の扉が開くと、本来の檻の主である白髪の彼女が憔悴しきった顔で檻の中に入る。
檻のドアが「ガチャン!」と力任せに閉められ、鍵がかけられると、今度は家畜部屋ドアが閉まる音がした。
「……」
彼女は何も言わず、無機質な鉄の壁にもたれかかる。
そして、そのまま崩れるように両膝を立てて座り込み、顔を膝に埋めたまま、動かなくなってしまった。
ここにはもう、彼女と俺しかいない。それはドアの開閉回数で分かる。
しかし、俺は声をかけることができなかった。『おかえり』など気の利いた言葉を発することが出来なかった。
一瞬見えた顔にも、手にも、足にも傷は一つも無かった。
しかし、彼女が纏う外套には新しい血がいくつもこびりついていた。この悲惨な格好で、新しい服に着替えたとは思えない。恐らく、彼女が着ているのは、この牢屋を出ていく時と同じ外套だろう。
何より痛ましかったのは、彼女の顔だ。
牢屋に入る時に見えた彼女の顔は酷く憔悴しきっており、生気がどこにも感じられない。死人のように顔が青白かった。
そんな彼女を見て、先程の牛の搾取を思い出す。
この家畜部屋にいる牛は何度も何度も肉体を削られていた。同じく家畜部屋にいる彼女が何をされたのかは、想像に容易くなかった。どうしてこの檻の中でそれを行わなかったのか、という疑問は残るが。
「……」
どうすればいいのか分からなかった。
彼女を励ますべきなのか、放っておくべきなのか。
どちらが彼女にとって一番良いのか。分からない。
「はぁ……」
少しの沈黙後、無意識にため息が漏れる。
気がついてしまったから。思い出してしまったから。
――――――――――――――――――――――――
「暁理、あの子泣いてる」
いつだったか忘れたが、零奈とショッピングモールに映画を観に行った時、迷子の子供を見つけた事を思い出す。
「んー……そうだな」
正直、俺はめんどくさかった。
というのも、あの時は映画があと15分で始まる状況だった。あの子供を迷子センターへ連れていくと、映画に間に合うか分からないぐらいギリギリだったのだ。
「暁理、行くよ」
しかし、零奈は一切迷う事なく、俺の手を握りながら迷子の子供の所へ向かおうとした。
「えっ、なんで」
俺はつい、無意識に最低な反論を漏らしてしまう。
それに対して、零奈は少し呆れたような顔をしながら諭す。
「もー、なんでじゃないでしょ?迷子の子は助けてあげなきゃ」
「……映画は?」
「映画はいつでも観れるでしょ?」
「……そっすね」
「よし!じゃあいくよ!」
零奈は太陽のような笑顔で俺の手を引き、迷子の子供の元へ向かった。
そのままあの子を迷子センターへ連れて行き、結局、親がくるまでの2時間以上待ってあげたっけ。
零奈はずっと迷子の子供の隣にいてあげていた。そのおかげで、あの子の悲しみは少し和らいでいた気がする。その後、遊び相手になったのは何故か懐かれた俺だがな。クソが。
結局、映画は観れなかったし、最悪だった。
けれど、あの日の帰り道。
「暁理、あの子に懐かれてたね」
「……うるさい」
「きっと、暁理といるとほっとするんだよ」
「そうか?」
「うん」
「嬉しくないなー……」
「そう?私は嬉しいよ?」
「なんでだよ」
オレンジに染まる夕暮れの中、零奈はゆっくりと言葉を零した。
「だって、暁理はこれからもたくさんの人に愛されるんだろうなって思うから」
「……それ言ってて恥ずかしくないの」
「……少し恥ずかしい、かな」
零奈は頬を赤らめ、はにかみながら笑った。
そんな事を思い出してしまった。
――――――――――――――――――――――――
本音を言えば、あの子供よりも零奈との映画の方が圧倒的に大切だった。
けれど、俺は結局、零奈と共にあの子供を助ける事をしてしまった。なぜから、それが正しいと思ってしまったから。
そして、今のこの状況。きっと零奈ならこうするだろうと、気がついてしまった。
きっと、これが正しいと思ってしまったから。
「ふーっ……」
小さな覚悟を決める為、俺は深呼吸をした後にゆっくりと彼女の近くに寄る。
「……大丈夫か」
その言葉と同時に、彼女の肩が大きく揺れる。そして数秒後、ゆっくりと少しだけ顔を上げた後に言葉が吐き出される。
「……はい」
なけなしの気力を振り絞ったような声を発した彼女の表情は意外なものだった。
彼女は笑っていたのだ。
苦しそうに。痛そうに。泣きそうに。
その時、ふと気がついた。
俺は今、初めて彼女の笑った顔を見た。
「……」
何故だろう。
彼女は今日、初めて出会った人。
別に大切でも大事でもない。所詮はただの他人。
でも、何故か放っておけない。何故か見捨てられない。
そう思ってしまった。
「……はぁ」
俺はため息を吐きながら、彼女の隣に座る。
「……えっ」
彼女は少し驚いたような顔を浮かべる。
俺は彼女の顔は見ず、檻の向こうにいる牛達を眺めながら口を開く。
「大丈夫じゃないだろ」
彼女は困惑を浮かべながら、次に出力する言葉を探しているようだった。しかし、俺はそれよりも先に言葉を発した。
「……別に何があったかは聞かない」
彼女は何も答えない。
「でも、俺に何か出来る事があるなら言ってくれ」
俺の言葉を聞いた彼女は、理解を拒むような顔をこちらに向け、疑問を投げかける。
「……どうして」
『あり得ない』という顔をしていた。
『意味が分からない』という顔をしていた。
でも、俺はその顔に明確な答えは出せない。
「理由がないとダメか?」
その言葉に、彼女は驚きを浮かべていた。
しかし、本当に大した理由なんて無い。
これが正しいと思っただけで、大義も意義もない。
ただ放っておけない。それだけだから。
「……いえ……」
彼女は体育座りのまま、視線を床に落とす。
俺はそんな彼女の隣で、ただただ檻の向こうを眺めていた。
檻の向こうでは露悪的に肥やされた牛や豚、見たことのない生き物達が相変わらず惰眠を貪っている。
そんなクソみたいな景色を眺めながら、ただ彼女の隣にいる。
それで救われる訳がない。それで救われるのなら、宗教や哲学が存在する訳がない。
それでも、きっとなにかが和らぐはずだ。
かつて、零奈が迷子の子供にしてあげたように。
俺はただ、彼女の隣にいた。
「……」
ガサッ……と床の藁が擦れる音が小さく鳴る。
「……ん?」
同時に、小さな温もりが俺の右手に触れる。右手に視線を落とすと、俺の右手は彼女の左手に握られていた。
「……だめ……ですか?」
彼女は膝に顔を埋めて、こちらの顔を見ないまま、弱々しくすがるように俺に願う。
「……いいよ」
そう言うと、彼女は少しだけ小さな力で握り直した。
「……名前はなんて言うの?」
俺がそう問いかけると、彼女は少しだけ顔を上げて、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「……『シロア』です」
あまりにも弱々しく、細々く、何かに怯えたように名乗る。
そんな彼女に疑問を持ちつつも、俺は彼女の名乗りに名乗りで返す。
「シロアか……俺は暁理」
彼女はゆっくりと顔を上げて、こちらの顔を伺う。
そして、淡々と、しかしどこか力強さを感じるような声色を発する。
「……暁理さん……ですね」
再び、手が握られる。
「……ありがとう、ございます……」
その言葉を最後に、俺たちは手を握りながら眠りに落ちた。小さく細い月明かりが差し込む小さな檻の中で、俺たちは夢に堕ちた。
きっと良い夢なんて見れる筈がない。
それでも、明日を生きる為に眠るしかなかった。
お読みいただきありがとうございます。
そんなことよりピング◯ングが終わってしまった。
金曜日になってもダメージがあります。辛い。




