07
「…何であんなバカ息子に育ったんだと言ったら妻に〝あなたが仕事ばかりで家庭を顧みないからよ〟と言われて…」
中年の男性がぐずぐずと泣いている。
「そう言われても…家に帰るのもままならぬというのに…」
「実際に現場で働いている者でないと大変さは分かりませんからねえ」
そう答えながら、イザベラは相手の前にあるお酒の入ったグラスをそっと水のグラスへとすり替えた。
このぐずぐず言っている男はこの国の宰相である。
王弟メイナードがイザベラの居場所を教えたらしく、クリストファーと息子オリバーの所業について謝罪に来たのだ。
そこまではいいのだが、何故かそれ以降、時折客としてこのオーキッドハウスに現れ、イザベラを指名しては家庭や仕事の愚痴をこぼして帰っていくのだ。
(お客様だし…お金も多めに払ってくれるから来るのは全然いいんだけれど…)
家族の愚痴を言うのはいい。
ただし問題は仕事の愚痴だ。
宰相という立場上、国家機密を多く知っている。
それらをイザベラの前でぽろぽろ漏らしていくのだ。
もちろんイザベラはそれらを他の者に言う気はない。
だが、あまりにも際どい事を聞いてしまうと心臓に悪いのだ。
(それにしても…家に帰るのもままならない割にはここへはよく来るような)
まあ、前世のお偉いさん方もそんな感じだった気がする。
国王の次に偉い立場である宰相には、なかなか愚痴をこぼせる場所もないのだろう。
今夜も宰相はひとしきり愚痴るとスッキリした顔で帰っていった。
「ベラちゃんお疲れさまー」
宰相を見送り戻ってきたイザベラに先輩娼婦達が声をかけた。
「お疲れさまです」
「今日も宰相様が来てたの」
「よく来るわねえ。今まで一度もこのハウスに来たことなんてなかったのに」
「そうなんですか…」
「ねえベラちゃん、宰相様に〝パトロン〟になってもらえばいいんじゃない?」
一人が言った。
「え…」
「そうよ、お金も地位もあれだけある人はいないわよ」
「奥様以外の女性もいないのでしょう」
「いえでも…宰相とはそういう感じでは…」
イザベラはふるふると首を横に振った。
このオーキッドハウスには、娼婦として客を取る時に独自の決まりがある。
その娼婦の初めての客は「パトロン」と呼ばれ、継続的に金銭的な援助を行う。
そして最優先で娼婦を呼べるだけでなく、他の客に口出しする事もできるのだ。
お金を積めば、パトロン以外の客を取る事を拒否する事もできるという。
つまり娼婦を自分だけの愛人にできるのだ。
パトロンになるには経済力だけでなく、社会的地位や高い人格も求められる。
オーキッドハウスのパトロンというのは男にとって最高のステータスシンボルの一つなのだ。
娼婦にとっても、誰がパトロンとなるかでその後の身の振り方が変わってくる。
ゆくゆくは愛人や後妻として引き取られたり、資金援助を受けて自分の店を持つ事も可能だ。
確かに宰相という肩書は、パトロンとして申し分ないのだろう。
(でも本当に…宰相とは全く男女の雰囲気ではないからなあ…)
今のイザベラが行なっているのは身体の関係を認めていない接客とはいえ、手を握ったり、甘い言葉を囁かれたり…とそれなりの駆け引きはあるものだ。
だが宰相はイザベラに触れる事は全くなく、ただひたすら酒を飲みながら愚痴をこぼしていくだけなのだ。
宰相にとって、イザベラは単なる愚痴聞き係なのだろう。
「ベラさん、王弟殿下がお見えです。明日の事で至急確認したい事があると」
オーナーのハロルドが姿を見せた。
「あ、はい。それでは失礼します」
先輩達に頭を下げるとイザベラはハロルドの後について去っていった。
「———どうしてベラちゃんにパトロンの話を聞かないのかしらね」
イザベラ達の後ろ姿を見送って一人が呟いた。
「ほんと、あの子だったらすぐ相手が見つかりそうなのに」
他の者達も同調する。
イザベラがこのオーキッドハウスに来ると聞かされた当初、彼女達は警戒していた。
貴族令嬢が何らかの理由で娼館に来る事はそう珍しい事ではない。
だが気位の高い令嬢達は娼婦を見下したり己の落ちぶれようを嘆き続け、娼婦として使えるようになるまでが大変なのだ。
だが侯爵令嬢、しかも第一王子の婚約者という、貴族令嬢としてトップクラスの立場であったはずのイザベラは他の者達と全く異なっていた。
娼婦を職業として尊重し、先輩として立て、素直に教えを請う。
そして入るなり他国からの賓客の接待という大仕事を任されながらもそつなくこなし、成功を収めたのだ。
高い能力、そして貴族として生まれ持った気品と美貌。
それらを兼ね備えるイザベラならばパトロンの申し込みが殺到するはずだ。
日頃からパトロンになりたいと願っている者は多く、新人娼婦が入ってくればすぐに争奪戦となる。
イザベラがこのオーキッドハウスにやってきて約四ヶ月。
彼女の噂を聞きつけ、やってくる客は多くいるのだが、未だパトロンの話は聞こえてこなかった。