暗がりで待つ
それから一週間のあいだは、特に何事もなく日々が過ぎていった。例の声も聞こえず、不信感を抱いていることを空木に気取られることもなく、そして氷雨が転入してきた日に話しかけてきた女子生徒からのアプローチも、あれから全くなかった。
しかし、翌週の金曜日。雪乃が氷雨と共に下校しようと支度していると、休日前に件の女子生徒たちが、突然ふたりを取り囲んだ。彼女らは右手を後ろ手に隠した格好のまま、不自然な笑みを張り付けてにじり寄ってくる。
「え……な、なに……?」
「百々梅さん、髪切ってあげる」
雪乃の正面に立っているボブカットの少女が、口角をつり上げながらゆっくりと背後に隠していた右手を掲げて見せた。手には銀色に光る鋏が握られており、少女たちの顔こそ笑みを作っているものの、その目は僅かも笑っていない。
「そんな長い髪してたら襲われちゃうよ?」
「もうみんな短くしてるんだから、百々梅さんだけ長いのも変じゃん」
「じっとしててよ、ねっ!」
「きゃあ!?」
髪どころか顔めがけて鋏を突き出され、雪乃は反射的に頭を庇ってしゃがみ込んだ。
「動くなよ!」
「お前ばっかり長く伸ばしやがって!」
「切れ! ズタズタにしてやる!」
視線を上げると、雪乃の髪を掴もうと手が伸びてきていた。――が、次の瞬間、眼前に迫っていた手が、吹き飛ぶ勢いで視界から消えた。
「ぎゃっ!?」
獣のような悲鳴と机の倒れる大きな音が視界の外から聞こえ、雪乃は怖々立ち上がって視線を巡らせた。見れば、雪乃に鋏を突き出してきた女子が机を巻き込んで倒れていて、そして、雪乃を庇うようにして少女たちのあいだに氷雨が立ち塞がっていた。
「だめよ。雪乃は髪のひとすじさえも全て私のものなの」
「うるさイ!」
「邪魔をすルな!」
「そのアバズレを庇うなラ、お前モ切ッてやる!!」
背後に庇われているため雪乃からは見えないが、氷雨はいまきっと艶めく微笑でもって彼女らを威嚇しているのだろうと確信していた。だが彼女らも正気でないらしく、氷雨を認識しているのかも怪しい叫び声を上げている。
時折誰かの声が重なっているような、不自然な発声で叫びながら、鋏を振り回す。だがそれも氷雨にとっては猫じゃらしにもならない様子で容易くかわし、鋏を握っている手を背後に捻り上げたかと思うと背中を蹴り飛ばして、容赦なく壁に叩きつけた。
「うわ……!?」
教室内にドンッという大きな音が響いたのとほぼ同時に、男性の驚く声を伴って、教室前方の扉が開かれた。
「お、お前たち、なにを騒いでいるんだ」
担任の空木が、教室を見回しながら困惑の表情でそう言ったとき、狂気に取り込まれていた少女たちがふと我に返り、自身の手にしている鋏を見て怪訝そうな顔をした。しかしすぐに今し方の出来事を思い出したらしく、その場に鋏を投げ捨てた。
「沖野さんたちが、雪乃と私に髪を切るように迫ってきたんです」
「な……それは本当か?」
空木が沖野というボブカットの女子生徒に向き直りながら問うと、沖野は目を逸らして黙秘した。だがそれは肯定も同然の態度で、空木は「馬鹿な真似を」と嘆息した。
「二度とこんなことはするな」
「……行こ」
沖野は友人たちに一言そう呟くと、放り出した鋏はそのままに、鞄を引っかけて逃げるようにして教室を去って行った。
「全く……お化けだか何だか知らないが、馬鹿馬鹿しい」
その背を呆れて見送りながら言うと、空木はどこか熱のこもった目でふたりを、綺麗に真っ直ぐ伸びた艶やかな黒髪を見た。
「せっかく綺麗なんだ、馬鹿げた噂なんかに惑わされて切ることないからな」
そう囁き、俯いたままの雪乃の髪に触れようと手を伸ばす。
「……あのときも、そう言ってくれたよね」
触れる直前で、空木はビクリと怯えたように手を止めた。雪乃から聞こえた声は雪乃のものとは似ても似つかない別人のもので、空木の体が目に見えて震え始める。
「わたし、うれしくて……毎日手入れしたの。わたしを抱くときも髪を褒めてくれて……これさえあれば、あなたは傍にいてくれると思ってた」
「ひっ……!」
ゆっくりと顔を上げた雪乃の顔は、夕陽の陰りなどでは誤魔化しきれないくらい別人になっていた。真っ直ぐに空木を見つめ、伸ばされた手をそっと掴む。が、弾かれたように振り払われ、行き場を失った手が宙で所在なげに佇んだ。
「どうして……」
空木が後退った足が、机に当たって音を立てる。自分が立てた音にもいちいち驚いては辺りを見回し、逃げ場を探して視線を彷徨わせた。
「わたしもあなたを愛していたし、あなたもわたしを愛してくれた……そう信じてた……だから、喜んでくれると思って……なのに……」
「やめろ!!」
右手を振り上げ、雪乃めがけて振り下ろそうとしたときだった。
――――きゃあああああっ!!
あの甲高い悲鳴が教室中に響き渡り、糸が切れた人形のように雪乃の体が崩れた。
「あ……あぁ…………」
空木の目に、階段を落下していく少女の体が映る。長い黒髪が踊り場に散って、夕陽を染め返すほどの強く濃い赤が広がっていく。
突き落とすつもりはなかった。殺そうなんて思ってもいなかった。ただ、うれしそうに妊娠したと報告してくる彼女が煩わしくて、こちらの気も知らずに、脳天気に将来の話を持ちかけてくる彼女が鬱陶しくて、つい手が出てしまっただけだった。
お互い高校生でどうして子供なんか産めると思ったのか理解出来なかった。結婚なんて考えていなかったし、学生時代の恋愛なんて誰も遊びだと思っていた。だから、ちょっと痛い目を見れば嫌気が差して他の男のところにでも行くだろうと、そう思っていたのに。
踵を返して、別の階段から逃げた。幸い、落ちるところは誰にも見られていなかった。だから暫くのあいだ落ち込んだふりをするだけで誰にも気付かれることはなかったのに、今更になって現れるなんて――――
少女の啜り泣く声が聞こえ、空木はハッとして辺りを見回した。
目の前で、百々梅雪乃が千護氷雨に抱きしめられながら泣いている。先ほどまでの妙な気配や声ではない、雪乃の声で静かに泣いている。
「ありがとう、雪乃。つらい想いをさせてごめんなさいね」
雪乃は言葉にすることが出来ない様子で、首を横に振った。
「い……いったい、何だって言うんだ……」
困惑して呟く空木に、氷雨は憐れみの目を向けながら囁く。
「それは先生が一番良くご存知のはずだわ。……彼女、水無瀬志保さんと仰るのね」
「っ、な……なぜ、その名前を……」
あからさまに動揺する空木を、氷雨は視線で絡め取る。
水無瀬志保。二度と聞くことはないだろうと思っていた名だ。高校生のとき、一時的に交際していた少女の名。長い黒髪が綺麗で、高校生らしい遊びを一切知らない、大人しく清楚な少女だった。髪を褒めたときうれしそうにはにかむ姿に惹かれて、空木のほうから交際を申し込んだ。
「彼女は、ずっと待っているわ。あの場所で、先生が来るのを」
「そんな……今更、そんなこと……」
「先生にとっては今更でも、彼女はあの日のあの瞬間からどこにもいけないのよ。心から信じていた人に裏切られて、捨てられた瞬間から……」
紙のような顔色で、空木はその場に膝をついた。
「そんなつもりじゃ、なかったんだ……」
頭を抱えて、小さく赦しを請う。その背後に纏わり付く、長い黒髪のような影を視界の外へと追いやって、氷雨は雪乃を庇いながら教室を出た。
向かう先は、遠回りの廊下。声が聞こえる階段を避けて別の階段から階下へ降りる。
「……雪乃、大丈夫?」
寮近くの公園まで来たところで足を止め、先週ふたりで話をしたベンチに腰掛けた。
「うん、何とか……」
深く息を吐き、袖で目元を拭う。もう一度深呼吸をしてから顔を上げると、氷雨の肩に頭を預けた。
「氷雨ちゃんがわたしにお化けを取り憑かせるって言ったときは何事かと思ったけど……何とかなったんだよね……?」
「ええ……ごめんなさい。私の力では彼女を消してしまうから、彼女を救うにはあなたに頼るしかなかったの……」
「ううん、大丈夫。氷雨ちゃんのこと、信じてたから」
木曜の夜、氷雨は雪乃に声の主をどうにかする方法があると持ちかけた。塩を撒くとか札を貼るといった無理矢理追い出す方法ではなく、本人の未練を解消するやり方で。体を失ったものの声を届けるには別の器に移すしかないと言われ、最初こそ恐れて渋ったが、なにがあっても氷雨が護るという言葉を信じて引き受けたのだった。
「あのお化けは、先生に伝えたいことがあってあそこにいたんだね……」
「ええ。彼が赴任してくるまで何事もなかったのは、伝えたい相手がいないのに叫んでも意味がなかったからよ」
誰にも気付かれずに、何年もひとりで待ち続けるというのはどんな気持ちなのだろう。雪乃と出会う前の氷雨も、あの荒れ果てた社で誰とも知れぬ誰かを待ち続けていた。心が渇いて風化しそうになるほどの時間を、ずっと。
「死者は、死の瞬間から動けないものなの。だから彼に言いたいことがあっても、最期の悲鳴しかあげられなかったのね」
「先生は、いまも昔もずっと、彼女の叫びから逃げてた……だから……」
雪乃には、取り憑かれていたときの記憶がはっきりと残っていた。彼女と同化したとき自分を満たしたのは、深い悲しみと絶望。最愛の人としあわせになれると信じて告げた、その言葉が自分を殺すきっかけとなってしまった事実への痛み。
最期の瞬間、彼女を見る空木の目は、悍ましい虫を追い払うが如き嫌悪に塗れていた。けれど次の瞬間には後悔や恐怖、絶望が彼を支配した。空木は決して根っからの悪人ではなかったが、自分以外の人生を一気に二つも背負うには、あまりにも若かったのだ。
「ねえ氷雨ちゃん、先生とあのお化け……水無瀬さんはどうなるの……?」
「先生次第ではあるけれど……いずれにせよこの学校を出て行くことにはなると思うわ」
「そっか……」
手を繋ぎ、指を絡めて帰路につく。
恋しい相手とそうすることが出来る喜びを、いつも以上に噛みしめながら。