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お客様は神様です!  作者: 宵宮祀花
◆壱夜 暗がりで待つ
8/12

共寝の夜

「んー……今日は早めに寝る準備しちゃおうかな」


 カップとスプーンを屑籠に放り込み、立ち上がって洗面台へと向かう。トイレと水場は各部屋に一つずつついていて、寝起き姿で廊下に出なくて済むようになっている。雪乃が歯ブラシセットを持って洗面台に立つのを目で追ってから、氷雨も倣って傍に立った。


「氷雨ちゃん、歯ブラシ持ってきた?」

「ええ、所長に持たされたものの中に入っているわ」


 氷雨は、数少ない荷物の中から歯ブラシと小さなコップを取り出すと、雪乃に見せた。それは旅行用としてコンビニなどで売っているものでどう見ても日常使いをしているとは思えない。食事をしてこなかったなら必要ないのだろうとは思うが、ならば普段はどんな生活をしていたのだろうと気になった。

 しかしいまはそれよりも歯ブラシの使い方を教えなければと、雪乃は水道の蛇口を捻り水を出して、いちからやって見せた。


「あ……歯磨き粉は氷雨ちゃんには刺激が強いかも知れない」

「歯磨き粉? その、白いもの?」

「うん。飲み込まないようにするのも難しいだろうし、最初は水だけにしよっか」

「そうね……匂いも何だか強い気がするし、そうするわ」


 まずは自分が歯磨きを全て終えてから、氷雨の補助に入る。氷雨の右手にそっと自分の手を添え、優しく歯に当てながら動かしていく。


「こうやって全部磨いたら、お水で口をゆすぐんだよ。飲まないように気をつけてね」

「わかった、やってみるわ」


 教わったことを反芻しつつ、食事以上にぎこちなく探り探りの手つきで磨いていく。

 人間ならば幼児期に済ませることを同じ年に見える少女に対して教授するのは、教えるほうもなかなかに気恥ずかしかったが、氷雨の一生懸命な姿を見ると世話を焼きたくなる想いも同時に芽生えてきて、ついつい手を出してしまう。

 雪乃よりもだいぶ時間をかけて磨き終えると最後に数回口をゆすぎ、一つ息を吐く。


「これでいいのかしら……?」


 氷雨が雪乃を振り返って言うと、雪乃は「よく出来ました」と微笑んで褒めた。


「……?」


 洗面台前から戻ろうとして、ふと氷雨がじっと見つめていることに気付き、雪乃は首を傾げた。氷雨は雪乃の前まで来ると、主人に置き去りにされかけた子犬のような眼差しで見つめながら雪乃の袖を小さく摘まみ、か細く囁いた。


「……撫でて、くれないの……?」

「っ……!!」


 よく、胸を射抜かれたときの表現で心臓に野が突き刺さる描写を見るが、本当に心臓の真ん中を思い切り射抜かれた気がした。芸を覚えたりいい子で待っていた犬が主に褒めてもらえなかったときもきっとこんなふうに思っているのだろうと過ぎってしまうくらい、いまの氷雨はあまりにも寂しそうだった。

 人を、というより神様を子犬に喩えるなどと思いつつも、込み上げてくる愛おしさには勝てず、雪乃は慈愛に満ちた目で氷雨を見つめ、その頭を撫でた。瞬間、捨てられそうな表情だったのが、満開の花が咲き誇るかのような笑みに変わった。

 黙っていれば凛とした涼しげな美少女なのに、雪乃の前では女神にも子犬にもなる。


「氷雨ちゃん、あんまり他の人の前でそういう可愛いことしないでね」


 氷雨にそのつもりがなくとも、あれは誤解を生む表情だったと切実に思う。ただでさえ見目が良いのに、潤んだ瞳で見つめながらあのようなことを言われては、異性はもちろん同性だってどうなることか。

 心配そうな雪乃に、氷雨はしあわせそうに微笑んで人差し指を雪乃の唇に添えた。


「私の特別は、雪乃だけよ」

「……うん」


 安心したように微笑むと、氷雨もくすくす笑って雪乃の手を取った。そのままベッドがあるところまで戻り、並んで腰を下ろす。

 二人部屋とは思えないほど物が少ない室内では、暇を潰すものも殆どない。基本的に、学業に支障を来したり隣室に迷惑をかけない限り、ゲーム機やパソコンなどの持ち込みに制限はないが、毎月匿名で振り込まれる寄付で生活している上に食費がかかることを自覚している雪乃は、趣味のものを買うことに抵抗があった。

 小さな本棚の中身は授業で使う辞書や参考書の類ばかりで、娯楽のためのものは一つも置かれていない。


「そういえば……」


 高校生になるまでは事務所で過ごしていたとは聞いたが、いくら事務所に寝泊まりする生活だとしても、食事や風呂は必要になるはず。それとも神様ならば人間と同じ暮らしをしなくとも生きていけるのだろうか。

 夜道での頼もしさと対照的な、道具の使い方を覚えたばかりの幼子めいた氷雨の様子に疑問が募り、雪乃は少しだけ迷いながらも訊ねることにした。


「氷雨ちゃん、ここに来る前はどうやって過ごしてたの? ごはんもお風呂も初めて見る感じだったけど……」


 先ほど感じた素朴な疑問を口にすると、氷雨は事も無げに答えた。


「ずっと狐の姿でいたわ。周りの人間は変わった犬だと思っているみたいだけれど」

「えっ」


 予想外の言葉が飛んできて、雪乃は目を瞠った。しかし氷雨にとって狐の姿というのは当たり前のことのようで、雪乃の反応に不思議そうな顔をしている。


「狐の姿って……じゃあ、ごはんとかも……?」

「食事は滅多に取らなかったわ。人がいてなにも食べていないと不自然に思われるときは犬のごはんをもらっていたけれど」

「えぇ!?」


 驚きのあまりに自分でも思ってもいなかった声が出て、雪乃は恥ずかしそうに俯いた。氷雨は赤く色づいた雪乃の頬を撫でて顔を覗き込み、可笑しそうに笑う。しかし笑ってはいても、言ったことは冗談はなかったようで、いつまで経っても犬と同じ食事をしていたことが訂正されることはなかった。


「でも、きっともう飼い犬のふりはしないから大丈夫よ」

「う、うん……そうであってほしいよ……」


 幼少期に見た社は、荒れ果ててはいたが稲荷神社の作りをしていた。ならばそこの主である氷雨も本性は狐なのだろうけれど、雪乃にとっての氷雨は嫋やかな少女でしかない。どうしても犬用の食べ物と結びつかず動揺してしまう。


「じゃあ、氷雨ちゃんは、ほんとはごはん食べなくてもへいきなの?」

「本来なら、そうね。でもいまは人として過ごしているから、体の維持のために少しだけ食べる必要があるの」


 氷雨は立てた人差し指を顎に添えながら考える仕草をして、それから「そうだわ」と、なにか思いついたような声を上げた。


「黄泉戸喫ってあるでしょう? あれと似ているかしら」

「どういうこと?」

「人が黄泉の国のものを食べるとそこの住人になるように、私も現世に居続けるためには現世のものを食べないといけないの」

「なるほど……」

「黄泉戸喫と違って、完全な現世の住人になったりはしないのだけれどね」


 氷雨の説明を受けて、漸く納得がいった。人間は生きるため、体の維持のため、健康を保持するため、或いは娯楽のために食事をするが、氷雨は最低限体を維持出来ればそれで構わないのだ。

 果たして神様がこの体をどう作っているのかなど細かいことは雪乃にはわからないが、食べる量からして人間の肉体維持よりはだいぶ燃費が良いのだろう。


「それじゃあ、氷雨ちゃんはこれから色んな食べ物を知っていくんだね」

「そうね。雪乃は色々知っていそうだから、あなたに教わりたいわ」

「ふふ、任せて。あ、そうだ。夏休みのあいだに食べたものの画像があるんだ」


 そう言うと、雪乃は鞄からスマートフォンを取り出してメディア一覧を開いた。撮った画像を選り分けることなくそのままにしているわりには、サムネイル一覧は全て食べ物で埋まっている。画面を暫くスクロールしても食べ物しか出てこない程度には、撮影対象が偏っている。


「この辺とか、氷雨ちゃんが好きなクリームが美味しいお店だったよ」

「これは……?」

「ショートケーキっていうの。こっちは同じ白いケーキだけど、レアチーズっていって、チーズが使われてるんだよ」


 一つ一つ指差しながら、ケーキの種類を説明していく。氷雨はクリームの他にも複数の果物に興味を示し、特にフルーツタルトには目を輝かせて食いついた。季節によって上に飾られる果物が違う点にも興味を持ったようで、農業に明るくない雪乃の拙い説明にも、感心したように頷いて聞き入っていた。

 そして次に町へ降りるときは、氷雨をショートケーキが美味しい喫茶店へと連れて行く約束をした。ケーキだけでなく紅茶も美味しく雰囲気も良い店で、休日をひとりで静かに過ごしたいときによく利用していた店だ。


「今日一日だけで、たくさん楽しみが増えたわ」

「わたしも。氷雨ちゃんと会って初めて明日が楽しみって思えたよ」

「そう……それなら、毎日明日が楽しみであるように、ずっと一緒にいましょうね」

「うん、そうだね」


 額を合わせて微笑み合い、それから自然に口づけをすると、また小さく笑った。


「そろそろ寝よっか」

「そうね」


 僅かなあいだも惜しむように手を繋いで、ベッドに潜り込む。枕元に置いていた小さなリモコンで部屋の電気を消すと、氷雨が僅かに身じろいで体を寄せてきた。


「氷雨ちゃん?」

「このまま……こうして眠りたいの。夢の中でも雪乃と離れないように」


 氷雨の細い腕が、雪乃の体を包み込む。同じ石鹸を使い同じ風呂に入ったのに、氷雨の体からはえも言われぬ甘い香りが漂っていて、緊張で眠れないのではと過ぎった。けれど寄り添う氷雨を引き離す理由も思いつかなかった雪乃は小さく頷き、自らも体を寄せた。


「大丈夫。ずっと一緒だよ。もう夜明けが来たって、氷雨ちゃんの前からいなくなったりしない。離れたりしないから、安心して」

「雪乃……」


 甘えるようにすり寄る氷雨の頭を撫でて抱き寄せ、深く息を吸い込む。微睡みが雪乃を徐々にとかしていき、寄り添ったまま眠りへと落ちていく。

 氷雨の香りは、雪の中に咲く梅の花の香に似ていた。

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