真実への道程
「……氷雨ちゃん。別に、有言実行しなくていいんだよ?」
風呂から上がって部屋に戻るなり天井を仰ぐ羽目になった雪乃は、氷雨の背中を優しく撫でながら呟いた。ベッドに押し倒されるのは今日で二度目。湯上がりの体温と匂いが、雪乃の全身を包んで捕えて放さない。
「だって、やっと会えたんだもの……離れたくないわ」
そう言われるとなにも返せなくなってしまう。
雪乃は観念して、氷雨の頭を撫でながらぽつりと呟いた。
「わたしも、会いたかった。忘れてしまったのは、自分で会いに行けないって思い知ってしまうせいだったんだ……」
「雪乃は、あのあとずっと同じ家にいたの……?」
「ううん、色んなところに預けられたよ。結局最後には、施設に入ったけどね」
氷雨と別れてから、雪乃は親戚を転々としていた。中には父親のような男もいて、夜が来る度押し入れで小さくなっていたこともあった。あの社が恋しくて向かおうとしたが、子供の足では到底辿り着けず迷子になり、寝間着と素足で彷徨っている子供が居ると通報されたこともあった。警察沙汰になった次の日は全く口を利いてもらえず、食事どころか水すらも与えられないことがあった。
最終的に施設の世話になって、そこで虐待をした親戚に見つからないよう新しい名字を付けてもらったのだ。
「施設では傷つくことはなかったのかしら」
「うん。わたしがこうしていい学校に通えてるのも、施設長さんのお陰なの。それから、わたしに寄付をしてくれた誰かのお陰」
押し倒されたままという状況を考えないようにしながら、雪乃は高校入学までお世話になっていた児童養護施設のことを思い返した。
そこは神社の一角を利用した施設で、子供は十数人程度と小規模なところだった。朝の掃除から始まる日課や神社運営のお手伝いなどをし、規則正しい生活を送りながら社会と関わることで少しずつ傷を癒す方針で、雪乃も早寝早起きが身についていた。
賽銭や寄付、お守りなどの売り上げで保っている場所なのだが、雪乃が十四歳になった日に、神社宛に匿名で多額の寄付と学園のパンフレットが届いたのだ。
「……その人がいなかったらわたしはここにいないし、今頃バイト掛け持ちで働きづめの毎日を送ってたんじゃないかな」
「そう……」
氷雨が何事か考えているふうに見え、雪乃は首を傾げた。だが氷雨は小さく首を振り、にこりと微笑んで雪乃の頬に触れた。
「雪乃、今日は、一緒に寝てくれる?」
「うん……いいよ、一緒に寝よう」
あからさまに話題を逸らされたと感じたが、踏み込めるほどの手札もない雪乃は余計な詮索をすることなく頷いた。自分にも事情があるように、氷雨にもなにかあるのだろう。答えてから、雪乃は部屋に入ったときの殺風景ぶりを思い出した。
「ていうか氷雨ちゃん、お布団ないもんね」
「それは別に構わないの。事務所にいたときもソファで寝ていたから」
「え……ソファって、風邪引かない……?」
素直に心配する雪乃を見下ろしながら、氷雨はふわりと微笑んで白髪の姿に変わった。しかも今度は、ただ髪と瞳の色が変わっただけではない。頭上には大きな狐の耳が揺れ、背後には一抱えもありそうな白い尻尾が見えている。目尻に差した朱色の化粧と、艶めく唇の紅は同じ色をしており、それが微笑を形作るだけで心臓が跳ねる。
「私も一応神族だから、風邪を引く心配はないわ」
「あ……」
一面の銀世界のような純白に見下ろされ、雪乃は言葉を失った。黒髪の姿でも目を瞠る美少女だったのに、人ならざる者の姿を顕わした氷雨はその比ではなかった。瞬きすらも忘れて見入っている雪乃の唇に、氷雨の唇が重なる。心底愛おしそうに優しく舌を絡め、所在なげにベッドの上で彷徨っていた雪乃の手を取り、やんわりと握る。逃げ場を失った雪乃は、美貌の神の溢れんばかりの愛を、ただ受け入れることしか出来なかった。
「……っ、は……はぁ……ひ、さめ、ちゃ……」
漸く解放されたときには、呼吸の仕方を忘れたかのように息が上がっていた。涙の膜が視界を滲ませているというのに、眼前の白皙は静かに微笑んでいる。
「雪乃……やっと捕まえた。私の縁……私の命……もう離さないわ」
「うん……約束だもんね。ずっと一緒だよ、氷雨ちゃん」
雪乃の答えに満足げに頷くと、氷雨は人の姿に変わった。さらりと長い黒髪が落ちて、雪乃を嫋やかな檻に閉じ込める。
外はもう夜になっていて、廊下から人の行き交う声が聞こえてくる。
「あ……もうそんな時間か。氷雨ちゃん、お腹空いてない? 寮に食堂があるんだけど」
「私は元々あまり食べないのだけれど、食堂は気になるわ」
「じゃあ、行こっか。学校のも美味しいけど、ここのごはんも美味しいんだよ」
「ええ」
体を起こすと、当たり前のように手が差し伸べられる。雪乃が手を取れば、それだけで氷雨はしあわせそうに微笑んで握り返す。
廊下に出ると、通りかかった寮生がふたりに近付いてきた。
「あ、ねえねえ、もしかして一組の転入生じゃない?」
「うわあ、噂通りの美少女!」
二人組の声に反応して、周囲の人までもが氷雨を振り返る。別クラスの人のみならず、他学年の生徒にまで話題が伝播し、廊下の隅にちょっとした人だかりが出来てしまった。
朝の賑わいを再現するような空気になったところで、一人の女子生徒が声を潜めながら辺りを気にする素振りを見せた。
「あのさ、千護さんって髪さらさらだし綺麗だから、気をつけたほうがいいよ」
その一言で、周りの女子生徒も「あー」と、なにか悟ったような声を漏らした。中には互いに顔を見合わせて、何事か囁きあったりする者もいる。
「気をつけるって、いったいなにがあるの?」
氷雨の問いに、最初に気をつけるよう口にした女子生徒が依然潜めた声で続けた。
「バカみたいって思われるかもだけど……髪切り幽霊がいるって噂があってさあ。帰りが遅くなった髪の長い女子生徒のところにだけ現れるんだって」
「で、凄い形相で髪の毛掴んで『髪を切れ』って迫ってくるの」
「染めてたり天パだと来ないって噂もあるよね」
「清楚系に怨みでもあるのかな?」
そこから次々に、四方から噂のネタが飛び出してきた。どれもこれも、聞いた話というわりには、実害を被っている生徒がいる。
雪乃も今朝、その話を聞いていた。立て続けに長かった髪を切る女子生徒がいるという噂。更にもう一言なにかありそうな雰囲気だったが、結局聞けず仕舞いだった。
「脅かすわけじゃないけど、千護さんみたいな髪型してた子はもう殆どショートにしてるみたいよ」
「そう……実際に切ってる人がいるってことは、会った人もいるのかしら」
「わかんないけど、髪切ってきた子になにがあったか聞いた子が言ってたのは、怖がってなにも話してくれなかったって」
「お化けにしろ変質者にしろ、迷惑な話だよね」
「ほんと。せっかく髪型自由な学校選んだのにね」
噂以外にも、その不審人物に対する不平不満が溢れ出てくる。まるでいままでずっと、喉元でせき止められていたかのように。
噂の幽霊は、四階南階段付近を通った長い黒髪の女子生徒の元に現れる。脱色してから染め直した者に関しての情報はない。抑々校則の上で髪型が自由なこの学校で髪色を注意されることはなく、黒染めをする生徒は多くないのだ。
長さが肩程度では現れないようだが、それでも怖くて切ってしまった生徒もいる。髪を結っていたりコテで巻いていると大丈夫との噂もあるが、試したという話は聞かない。
「皆、意外と知ってるんだね。学校じゃあんま噂聞かないけど」
周りから泉のように溢れてくる噂を自分も話しながら、最初に言い出した女子生徒が、小さく笑って肩を竦めて言った。すると周囲の生徒は顔を見合わせて「そりゃね」と口を揃えた。
「学校じゃこんなこと言えないし」
「あら、どうして?」
氷雨の問いに、周りはどこかうんざりした表情になる。
「一年一組の担任……なんだっけ、ウツロギだっけ? 彼、噂してるの見つけるとすごい剣幕で怒るんだよね。下らない話するなって」
「うちも言われた。なんか顔色悪かったし、お化け苦手なんじゃない?」
「あー……顔はいいけど、あの感じはちょっとねー」
「何の話よ」
雪乃と氷雨が声を聞いたときも、彼の顔色は悪かった。どことなく怯えた表情で辺りを見回していたことも気になる。
空木の態度についてあれこれ話していると、寮監の女性が声をかけてきた。
「あなたたち、こんなところで何のお話?」
「あっ、ナナちゃん」
この寮監は嘗て近くに男子学部も存在していた頃の風蘭学園を卒業している元生徒で、ナナちゃんの愛称で慕われている。本名を七海夕子といい、間もなく二十八になる。
噂好きの女子生徒曰く『頭も良く仕事も出来る上に美人だが、何でも出来過ぎるせいで婚期が寄ってこないタイプ』であるらしく、実際に恋人のいない独身女性である。それを本人が気にしている素振りを見せないことと、寮生たちもまた「ナナちゃんにはその辺の男じゃ勿体ない」と言って憚らないため、恋愛絡みで揶揄われているところを見ることはない。端的に言うなら、姉のように皆から慕われている女性である。
「お喋りしたいなら食堂か談話室に行きなさい」
「はーい」
元々食堂に行く途中だった生徒たちは、氷雨に「それじゃあね」と軽く声をかけると、食堂方面に歩いていった。それを見送ってから、寮監は氷雨に視線を移す。
「あなたは……今日からの子ね。早速馴染んだようでなによりだけれど、お話するときは相応の場所でお願いね」
「ええ、気をつけますわ。……七海さんは、この学校の出身でしたわね」
「そうよ。男子学部が閉鎖される最後の年だったかしら」
懐かしいわね、と目を細める七海に、氷雨は他にこの学校に出身者はいるかを訊ねた。七海は暫く考えてから、ああ、と声を上げてにこやかに答えた。
「雪乃ちゃんの担任の先生、空木先生がここの出身だったはずよ。閉鎖寸前で男子生徒が珍しかったから覚えてるわ。あの頃はもう、男子は一クラス分もいなかったのよね」
七海曰く、以前の風蘭学園高等部は福祉学科と家政科と普通科がある高校で、男女比が大きく偏っていた。そこへ駅向こうに私立の共学が新たに作られたことで更に男子生徒が流れ、男子学部の維持が難しくなってしまったのだという。
毎年数えるほどしか入学希望者がいない状態で中途半端に受け入れ続けるより、いっそ女子高にしたほうが女子生徒も安心して通えるだろうとのことで、約十年前、風蘭高校は正式に女子高となったのだった。
「そう……母校でお仕事なんて、素敵なご縁ね」
「私と違って空木先生は余所からいらしているから、本当に縁ってあるのね」
「ありがとう。良いお話が聞けましたわ」
嫣然と笑み、氷雨は握ったままの手を引いて歩き出した。