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お客様は神様です!  作者: 宵宮祀花
◆壱夜 暗がりで待つ
5/12

ふたりの世界

 白い指先が、雪乃の髪を梳く。労るように。慰めるように。


「雪乃……ごめんなさい、怖いことを思い出させたりして」

「ううん、へいき。でも、少しだけこうしてて」

「ええ、もちろん」


 氷雨の体温に包まれていると、別れる前の幼い日を思い出す。当時は互いに力がなく、ただ気休めに有限のときを過ごすことしか出来なかった。

 雪乃は人の世に逆らえず、氷雨は荒れ果てた社と失われた信仰により雪乃を引き留めるだけの力すらなく、約束を取り付けるだけで精一杯だった。


「懐かしいな……あのときもこうやって、氷雨ちゃんに慰めてもらってたっけ」

「そうね……以前の私は、力も殆どなくて子供の姿にしかなれなかったの。でも、雪乃も子供だったから警戒されずに済んで丁度良かったのかしら」

「あはは、そうかも。大人のひとに急に結婚って言われたら、さすがに驚いたかな」


 笑って言う雪乃の頬を、氷雨の手が包む。顔を上げれば人形めいた氷雨の顔がすぐ目の前にあり、熱の籠った眼差しでじっと雪乃を見つめている。


「……いまの私は、雪乃に警戒されているのかしら」

「警戒してたら、こんな近くにいないよ」

「本当……?」

「うん、本当」


 氷雨の大きな瞳が、濡れて揺れる。吐息が混じり合う至近距離で囁きあっていたのが、零になる。雪乃は目を閉じてそれを受け入れ、氷雨の首に腕を回した。


「ん……氷雨ちゃん、キス魔なの……?」

「雪乃にだけよ。十年分、受け取ってもらわないといけないんだもの」

「十年分……」


 離れていたあいだに降り積もった想いが、雪乃に注がれる。唇から伝わる熱は、雪乃の体を深いところから侵蝕していった。雪乃の手が氷雨の背中に回されると一層深くなり、啄む音が室内をやわらかく満たしていく。

 しなやかな手が制服の裾から滑り込んできて、雪乃は身を竦ませた。


「氷雨ちゃん……?」

「私、もっと雪乃に触れたい。雪乃を知りたいの……だめ……?」


 囁く声と共に、氷雨の手が服の中を這い上がってくる。ピクリと肩が跳ね、雪乃の目に薄く涙が滲んだ。


「だ、だめじゃ、ない、けど……っ、お風呂も入ってないし、ここ、学校の寮だし……」


 氷雨の指が肌を撫でる度、背筋が粟立つ。未知の感覚に目眩がして、吐息に熱がこもり始める。氷雨は雪乃の喉元に口づけをすると、漸く甘い愛撫から解放した。


「じゃあ、一緒にお風呂に入ってくれる……?」

「う、うん、それなら……寮も初めてだし、案内するよ」


 首を傾げながら訊ねる氷雨に、雪乃は浅く息を吐きながら頷き答えた。するりと服から手を引き抜いて立ち上がり、先ほどまで悪戯していた手が目の前に差し出される。それを取ると相変わらず氷雨はうれしそうに微笑んで、雪乃の手を握り返した。

 氷雨は最低限の着替えしか持ってきてないとのことなので、バスグッズは雪乃のものを使うことになった。石鹸類を詰めた透明なビニルバッグを下げ、廊下を進む。


「お風呂は掃除の時間以外なら、いつでも入れるようになってるの。時間制限しちゃうと混んじゃうし、部活とかで帰れる時間が結構バラバラだからね」

「それは便利ね」


 浴場に着くと、何人か着替えている人の姿があった。奥の洗面台からは、ドライヤーの音も聞こえてくる。見れば着替え中の人は皆、風呂から上がったところのようだ。今日は部活がある日なので、小一時間後がピークになりそうだ。

 人の少ない隅にある脱衣カゴを二つ選んで前に立ち、制服のボタンに手をかける。が、はずそうとしたところで手を止め、隣の氷雨を見た。


「どうしたの?」

「うん……わたしの体、あんまり綺麗じゃないから……驚かないでね」


 四月に入学したばかりの頃は、入浴の度に好奇の視線に晒されていたことを思い出す。入学から半年経ち、夏休みも終えたいまではあからさまな視線を送る人はいないものの、学年中に雪乃の体にあるものが知れ渡ってしまっている。

 気後れしながらもボタンを外し、シャツを肩から降ろす。露わになった肌には黒ずんだ痣や、背中一面に至るほどの火傷痕が刻まれていた。


「雪乃、これ……」

「……やっぱり、気持ち悪いよね。わたしも見たくないもん」


 俯いて呟く雪乃の体を、やわらかな腕が包んだ。いつの間に脱いでいたのか、制服ではなく生肌の感触が直接雪乃の背中に触れている。そっと氷雨の手が雪乃の肌を滑り、胸の中心で重ねられた。


「氷雨ちゃん……あの……」

「ごめんなさい……」


 吐息混じりの声が、雪乃の首筋を掠めた。突然のことに動けずにいたが、そろりと胸の真ん中、心臓の辺りに添えられている氷雨の手に自分の手を重ねた。背中に当たっているやわらかな膨らみに比べて、雪乃の胸は切ないほど物足りない。こんなことを考えている場合ではないのに、押し当てられているせいで妙に意識してしまう。


「もっと私が早くあなたを見つけていたら、こんなに傷つくこともなかったのに……」

「そんな、氷雨ちゃんのせいじゃ……」


 雪乃の項に顔を埋めたまま、氷雨が首を振る。


「本当はあのときから、あなたを護っていたかったわ……私にはあなたしかいないのに、遠くへ行ってしまうのを見送ることしか出来なかったの……」


 ぎゅっと、抱きしめる腕に力がこもった。雪乃の背中に当たっている氷雨の豊かな胸が更に押しつけられ、同性だというのに心臓が小さく騒いだ。

 ふと、辺りが静まり返っていることに気付き、雪乃は脱衣所内を見回した。先ほどまでいた人はいつの間にか一人残らず消えており、近付く足音も聞こえない。


「氷雨ちゃん……わたしはへいきだよ。またこうして会えたし、それにこれからは一緒にいられるんでしょ?」


 今度は、頷く感触がした。そうかと思えば雪乃の背を覆う長い髪をかき分け、肩に唇を寄せて甘噛みをした。


「ひ、氷雨ちゃん、だからここ、学校……」

「大丈夫よ。誰もいないし、誰も来ないわ」

「えっ」


 驚く雪乃の背後で、くすりと笑う気配がした。そうかと思えば、きつく抱き止めていた腕がほどけ、数分ぶりに氷雨の顔が見えた。


「でも、裸でここにいても雪乃が風邪を引いてしまうわね」

「そうだよ。ほら、行こ。中も凄く綺麗だから」

「ええ」


 雪乃のほうから氷雨の手を取り、入浴道具一式を下げて浴室への扉を開く。

 浴室内は十分な広さがあり、洗い場の向こうに大きな浴槽がある。桜寮の名の通り淡いピンクと乳白色で構成された内装はとても可愛らしく、壁の所々に桜が描かれたタイルが貼られている。浴室だけでなく廊下や食堂も雰囲気が統一されているためか、桜寮を選ぶ生徒も甘い雰囲気を好む者が多い。


「本当、綺麗だし作りが可愛いのね」

「うん。入学案内のパンフレット見て一目惚れしたんだ」

「……雪乃は、こういう可愛いものが好きなの?」


 椅子に腰掛けてシャワーに手を伸ばしながら答えると、隣に座った氷雨が僅かに沈んだ声音で訊ねた。不思議に思いながら隣を見れば、不安そうな瞳が雪乃を見つめている。


「うん、まあ……可愛くないよりは可愛いほうが好きかな……?」

「そう……そうよね」


 なぜ唐突に元気が無くなったのかわからずにいると、氷雨はどこか思い詰めた表情で、思いも寄らない言葉を口にした。


「……わたしも、雪乃のためにこういう色を身につけたほうがいいのかしら……」

「!? きゃあ!」


 驚いて手をかけていた蛇口を思い切り捻り、雪乃は頭から水を被ってしまった。隣から氷雨の手が伸びてきて、蛇口に表示されている温度を適温まで捻る。


「雪乃、大丈夫?」


 慌ててシャワーを取り外して洗面器に預けると、深く息を吐いた。氷雨の発言と水で、二度ほど心臓が止まるところだった。


「はぁ……びっくりした……ありがと」


 お湯の温度が程よくなったのを確かめてから、今度は体にかけた。すっかり体が冷えてしまっており、いつもなら丁度良い温度なのに少しだけ熱く感じる。体を温めながら隣を見れば、いまにも泣きそうな顔で雪乃を見つめる氷雨と目が合った。


「あのね、氷雨ちゃんはそのままで十分可愛いから、気にしなくていいんだよ」

「え……本当……?」


 信じられないとでも言いたげな顔で問い返され、雪乃は氷雨の不安に揺れる大きな瞳を真っ直ぐ見つめ返しながら頷いた。


「今日だって、クラスの人に囲まれてたでしょ」

「あれは、中途半端な時期の転入生が珍しかったからではないの?」

「それもあるかも知れないけど、氷雨ちゃんが可愛いからだよ。ほら、氷雨ちゃんも体をあっためないと冷えちゃうよ」


 シャワーを伸ばして氷雨の肩にお湯をかけると、氷雨は椅子を寄せて身を乗り出した。玉肌が水を弾き、照明に照らされてきらきらと輝いている。痣と傷に塗れた自分の体とは大違いで、雪乃は思わず見入ってしまった。


「どうしたの、雪乃?」

「あ……ううん、何でもない」


 慌てて取り繕い、お湯を止めてスポンジを取り出す。雪乃の一挙手一投足を興味深げに見つめる視線を感じながら泡立てると、氷雨の瞳がいっそう輝いた気がした。


「背中、洗ってあげよっか?」

「いいの?」

「うん」

「それじゃあ……お願いするわ」


 期待に頬を染める氷雨に、雪乃は一言「任せて」と言うと、氷雨の背後に膝をついた。さらさらの黒髪を肩から前に流し、背中にスポンジを滑らせる。シミ一つない肌は白く、新雪のように透き通っている。爪を引っかけてしまわないよう、細心の注意を払いながら背中を洗いきると、氷雨が振り向いて手を差し出した。


「次は私の番よね?」

「えっ」

「さあ、座って。私も雪乃を綺麗にしたいの」

「う、うん、ありがとう……」


 勢いに圧されるまま椅子に座り直し、緊張しながら氷雨を目で追いかける。鼻歌を歌う声が細く聞こえてきて、ご機嫌であることが背後から伝わってくる。雪乃が洗った仕草を辿々しく真似をして洗う様子に、えも言われぬ愛おしさが込み上げてきた。


「どうかしら……?」

「ありがとう。凄く気持ち良かったよ」


 振り向きながらお礼を言うと、氷雨の頬がやわらかく紅潮した。かと思えば背中に飛びついてきて、ぎゅっと抱きしめられた。泡の乗った背中が滑るせいで、余計に胸の感触が伝わってきてしまう。


「氷雨ちゃん、体冷えちゃうから……ね?」

「ふふ。そうね。お部屋でも雪乃に触れられるものね」


 氷雨の不穏な言葉は、いまは聞かなかったことにして。

 スポンジを更に泡立てながら互いに洗いあい、髪もいつも以上に丁寧に洗うと、雪乃は自分と氷雨の長い髪をまとめてから、氷雨の手を引いて浴槽に入った。

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