見えざる境界
外灯が照らす下を、手を繋いで歩く。初秋の夕陽は急くように沈んでいき、辺りは既に薄闇が幕を下ろし始めていた。
「あ……そういえば、氷雨ちゃんってどこに住んでたの? わたしを見つけるまでは別の家があったんだよね?」
記憶が正しいなら、氷雨の社は幼少期には既にボロボロになっていたはずだ。生活することはおろか、一晩を明かすことも難しいほど荒れていたあの場所が家だとしたら、色々心配になる。
しかし氷雨から返ってきたのは、予想外の単語だった。
「転入するまでは、事務所に住んでいたわ」
「事務所?」
「ええ。雪乃の学校に転入したのも、半分はお仕事なの」
仕事で転入とはどういうことだろうかと、雪乃はじっと氷雨の話に耳を傾けた。
「特高刑事部特務課、零係……存在しない部署の、存在しない事務所。私は、存在してはならないものをなかったことにする組織に所属しているの」
「えっと……つまり、どういうこと……?」
言い回しが難しく首を傾げる雪乃を優しい眼差しで見つめ、氷雨は言葉を砕いた。
「そうね……簡単に言うならお化け退治専門のお巡りさんかしら。いまは探偵という形を取っているのだけれど」
「な、なる、ほど……?」
納得したような難しいような声音で答える雪乃を横目に、靴音混じりの話は続く。
雪乃は未知の言葉に少し困惑しているだけで、氷雨の言葉を疑っているわけではないとわかっているから。
「雪乃を悩ませているあの階段……それに、声の主。雪乃以外には聞こえていないから、何でもないふうを装っていたのよね?」
「……うん」
雪乃は以前、一度だけクラスに人が残っているときに、あの声を聞いたことがあった。思わず跳ねた肩、怯えた表情に訝しんだクラスメイトが何事かと訊ねたその顔は、雪乃と同じ声を耳にした人間のものではなかった。恐る恐る「いまなにか聞こえなかった?」と訊ねた雪乃に対する彼女らの答えは、揃って否であった。そして、雪乃から逃げるようにそそくさと教室を出て行く最中、彼女らは潜めた声で「アイツヤバくない?」「高校生になっても霊感少女ごっことか」と囁いていた。
いま思えば、あのとき声をかけてしまった女子生徒が、今朝話しかけてきた子だ。嫌な思い出として封印していたせいで気付くのが遅れてしまったが、ならば彼女が朝話そうとしていた内容も、もしかしたら雪乃のことなのかも知れない。
「誰も、なにも聞こえないから、避けることしか出来なくて……」
聞いてしまえば、嫌でも体は反応してしまう。人の悲鳴など聞き慣れるものではないのだから。それゆえ自分にしか聞こえないのだと理解して以来、元々日が暮れる前に帰っていたのを、一層早めることにしていた。
「ずっと、小さい頃からこうなんだ。わたしだけ聞こえて、わたしだけ見えるものが時々あって……人に言うと変な顔をされるから、絶対言わないようにしてたの。暗くなると、姿も声も増えるから、怖くて……」
繋いだ手に、きゅっと力がこもる。
もっと幼い頃は感覚のまま言葉にしていたが、その結果、両親に気味悪がられることになってしまった。父親には化物と呼ばれ、母親には娘など初めからいなかったかのように振る舞われた挙げ句に、荒れた父の元にひとり置いて行かれた。自分の目と感覚が普通と違うことに気付いてからは、人とさえ距離を取って生きて来たのだ。
そこで漸く、雪乃は自らの視界がいつもと違うことに気付いた。
「……あれ……? でも、いまは全然見えないみたい……」
辺りを見回してみても、異様なものはなにも見えない。普段であれば道の陰や交差点の端などに、明らかに生気のない存在が佇んでいるのが見えていたのに。
「言ったでしょう? 私はあなたを護るために来たの」
寮が見えてきたところで足を止め、氷雨は雪乃を抱きしめた。
「こうしていれば、雪乃が嫌なものを見聞きすることはないわ」
氷雨の過剰なスキンシップの連続に、雪乃の頭の中はそれどころではなくなっていた。死者が見えないことに気付くのが遅れたのも、抑々は氷雨からの熱烈な愛情表現が原因であって、こうしていればという言葉の意味を理解するのにも、数秒の時間を要した。
「私に触れていれば、雪乃は護られるの。一度朽ちかけたとはいえ、私もまつろわぬ民の末席にあるものだから、その辺の浮遊霊なんかに負けたりしないわ」
「ふ、触れていればいいなら、あの……抱きしめる必要は、ないんじゃ……?」
耳元で、微かに笑う声がした。
そっと体が離され、至近距離で見つめ合う。いつの間にか氷雨は黒髪と黒い瞳の姿へと変わっていて、向かい合っていると背格好だけなら姉妹のようにも見える。
「だからね、私はあなたの傍にいるために来たのよ。さあ、帰りましょう」
「うん」
手を繋いで、脅威の払われた静かな夜道を歩く。
私立風蘭学園高等部は全寮制で、女子高でもあるため、中心街から少し離れたところにある。街へ降りるには、気が遠くなるような坂道を下っていかなければならない。しかも学園前で止まるバスがないせいで、生徒は滅多に降りていかない。その代わりコンビニや自然を利用した公園が近くにあり、学園内には購買のほかに通信販売等の窓口がある。
まず坂道から上がってすぐに本校舎があり、女子寮は学園の敷地を出て、小さな公園を挟んだ向こう側にある。校舎正面の道を挟んだ向かい側にはアスレチックを併設した自然公園と、テニスコートがある。アスレチックは休日になると童心に返って泥に塗れて遊ぶ生徒の姿が見られる場所だ。
桜寮と椿寮と梓寮と楓寮があり、各寮は内装と設備の配置などが違うだけで設備自体に大きな格差はない。ただ、桜寮は元旧寮で近年改装したばかりであるため少しだけ内装が新しい。
「雪乃も桜寮なのよね」
「うん。最近改装したばかりで、お風呂が綺麗だって聞いたから」
話しながら、二つ並ぶ女子寮のうち桜寮と書かれた建物に入っていく。もう二つの寮は本校舎の裏門方向にあるため、こちらからその姿をみることは出来ない。行き先は雪乃の寮室。入学時から二人部屋で、雪乃と同室の人は既にいる。そのはずだった。だが部屋の前まで来ると、ネームプレートには雪乃と氷雨の名前が当然のように並んでいた。
「え、あれ……?」
「最初から同室だったことになっているの。狐は化かすのが得意なのよ」
くすくす笑いながら、氷雨は鞄から鍵を取り出して扉に差し込んで回し開けた。部屋に入ると、本当に元から雪乃と氷雨のふたり部屋だったかのように整えられており、驚きに目を瞠った。とはいえ、氷雨の私物は殆どなく、二段ベッドの片割れも布団がなく空白となっている。
「元々同室だった子は……?」
「余っていた部屋に移してあるわ。勿論、向こうの認識も改竄してあるから安心して」
「そんなことまで出来ちゃうんだ……」
感心しながらベッドに腰掛けると、氷雨が正面から抱きついてきて、そのまま仰向けに押し倒された。目を丸くして見上げる雪乃の視界いっぱいに、氷雨の顔が映っている。
「ずっと会いたかった……十年は長かったわ」
ベッドに投げ出された雪乃の手に、氷雨の指が絡みつく。手のひらからさえ心臓の音が伝わってしまいそうで、雪乃は思わず紅く染まった顔を背けた。
「お願い、私から逃げないで……ずっとこのときを待っていたのよ」
「っ……だって、恥ずかしいよ」
氷雨は自覚があるのかないのか、整った顔に惜しげもなく哀しげな色を乗せて、雪乃に切々と訴えてくる。やはり、友達という言葉は届いていなかったようで、最早何度目かもわからない口づけがされた。
至近距離に、風も起こせそうな長い睫毛が見える。夜空のような黒い瞳が揺れている。自由なほうの手で氷雨の頬に触れれば、愛おしそうに目を閉じてすり寄ってくる。
雪乃はいたたまれなくなり、ふと思い至ったことを口にした。
「氷雨ちゃん……わたし、さっき、学校でのこと聞かれたのに答えられてなかったよね。色々びっくりしちゃって、話逸らしちゃったから、その……」
「そうね。……私も、焦りすぎていたわ。お話、聞きましょう」
氷雨はまず自分の体を起こすと雪乃を引き起こし、隣に腰掛けた。手は握ったままで、体温と感触を確かめるように時折優しく撫でながら話し始める。
「まず、あの声を最初に聞いた時期を聞きたいわ」
「えっと……六月の半ばくらいだったと思う」
記憶を辿り、初めて声を聞いたときのことを思い返してみる。あのときは、人ならざる者の声だとは思わなかったため、クラスに残っていた人に声がしなかったか訊ねたせいで変な目で見られてしまった。
「それじゃあ、声が聞こえる日に共通点はある?」
「えっ……どうだろう……言われてみれば、毎日聞こえるわけじゃないんだよね。最近は早く帰るようにしてたから、久々に聞いたんだけど……」
最初に聞いた日は、金曜の夕方だった。クラスメイトが、翌日の休みに遊びに行こうと話していたのを覚えている。なにも聞こえなかったと言われたあと、担任の教師が教室を訪ねてきて早く帰るようにと注意したので、残る理由もなかった雪乃はすぐに帰寮した。
次に聞いたのも、思い返せば金曜だ。空木に手伝いを頼まれて職員室を訪ねた帰りに、階段の下を通りかかったときに声を聞いた。突然のことで恐怖で動けずにいると後ろから空木に声をかけられたのだが、いま思えば彼も顔色が良くなかったような気もする。
そして、何度か頼まれ事で早く帰れなかった日に聞いたのも、今日も、同じく金曜だ。しかも、近くに空木真澄がいるときに聞いている。
「……曜日と、それから……空木先生が近くにいるときに……」
無意識に氷雨の手を握り締め、雪乃は微かに震える声で答えた。これほど条件が揃っていて偶然とは思えない。だが、担任教師とあの声にいったい何の因果があるのか。
「関係あるのかわからないけど、空木先生は今年の六月に赴任してきたんだ。元の担任の先生が事故にあって、暫く入院することになったから……」
「そう……彼にはなにかありそうね」
氷雨は雪乃の手を握り返し、ふわりと抱きしめた。やわらかな体温を感じているうち、徐々に雪乃の震えも落ち着いてきた。そっと息を吐き、氷雨に頬を寄せる。
無言のまま、ふたりは暫くのあいだ過日の如く寄り添っていた。