夕暮れの丹
学校をあとにし、寮の傍にある小さな公園が見えてきたところで、氷雨は足を止めた。入口の脇に設置された自動販売機に引き寄せられると小さなペットボトルに入った温かいお茶を二つ買い、一つを雪乃に手渡す。
「雪乃とお話したいことがあるの。もう少しだけ、付き合ってくれないかしら。私も帰る場所はあなたと同じ寮だから」
「うん……」
一人で帰るには遅い時間だが、そうでないならと承諾し、雪乃と氷雨は公園のベンチに腰掛けた。頭上から降り注ぐ気の早い外灯が、夕陽の鮮烈な赤を中和している。
「さっきのことだけど……いつからなのか、覚えてる?」
「っ……!」
小さく肩を竦ませて目を瞠る雪乃を宥めるように、氷雨は繋いだ手を引き寄せて優しく撫で、やわらかな笑みを向ける。
「私も聞いたわ。それに私はあれを解決するためにここへ来たの。というより、あなたに恩を返しに来たの」
「え……? ど、どういうこと……?」
これほどまでに存在感のある印象的な美少女に一度でも会ったことがあるなら、決して忘れることはないはずだ。しかし雪乃には全く覚えがなかった。しかも、自分が恩返しをされるようなことをしたなどと。
面食らった顔のまま固まっている雪乃の頬を、嫋やかな白い指先が撫でる。
「忘れてしまったのね……でも、無理もないわ。ずっと昔、幼い頃にした約束だもの」
「約束……?」
「ええ、そうよ。とても大切な……」
頬を包まれたまま艶麗な笑みが眼前に迫ったかと思うと、唇に、温かいものが触れた。それが何であるかを雪乃の頭が理解するより先に、濡れた舌が唇を割り入ってきて雪乃の舌を甘やかに捕えた。
「んっ……!? ふ、ぁ……っ、な、なに……?」
唇が離れても依然近いままの距離に、顔が焼けるように熱くなる。されたことを思えば振り払うなり突き放すなりするところであるはずが、雪乃は硬直したまま動かなかった。……いや、動けなかった。なぜなら氷雨の表情が、悪戯をしかけたような笑みではなく、心の底から愛おしそうな慈愛に満ちたものだったから。
「約束したの。ずっと、ずっと幼い頃……潰れそうな社にあなたが来て……そして私を、いまにも消えそうだった私を、この世界に留めてくれたのよ」
間近にある氷雨の瞳が揺らぎ、黄金色の光を帯びる。その瞬間、いままで記憶の奥底に封じ込められていた『約束』が、泉の如く溢れ出てきた。
――――泣きながら、ひとり夜道を歩く。
全身に負った傷よりなにより、心がとても痛かった。
昼夜問わず家にいて酒浸りになっている父と、そんな父に嫌気が差して、雪乃を残して弟だけを連れて家を出た母。雪乃にとって家は帰る場所などではなかったあの頃。雪乃は父に殴られ、出て行けと庭に放り出されると必ず向かう場所があった。
木々が生い茂る山道を抜けた先にある、小さな社。管理する人間がいないのか、剥げた塗装と割れて汚れた盃が半ば土に埋もれて落ちている。格子状の扉には雨に濡れた枝葉が詰まり、見るも無惨な有様のお社だ。朱い鳥居も木肌が見え、狐の像も苔むしている。
近所のひとは誰も近寄らない、どこまでも静かなその場所が、雪乃の居場所だった。
無人の社に身を寄せるようになってから暫くして、雪乃が社の雨縁で縮こまっていると背後から声をかけられた。
『どうしたの? おうち、かえらないの?』
雪乃と同じくらいの年の子供だった。さらさらの白髪に大きな金色の目をした不思議な子供は、男か女かもわからない中性的な面差しをしていた。
驚きに目を丸くしてから、雪乃は目尻に涙を滲ませながら首を振る。
『おとうさんが、わたしをぶつの。おまえのせいで、おせわさせるおんながつかまらないって……わたしのせいで、おかあさんがでていったって……おさけもかえないやくたたずだって……だから……』
『ふぅん……ひどいね』
隣に座り、優しく抱きしめてくれた小さな体。互いに体温が低くて、寄り添っていても少しも温まらなかったけれど、傷だらけの心が少しだけ癒された気がした。
それから何度も、社に通った。日々ひどくなる暴力から逃げるために。
そしてある日。父は酒を買いに出かけた帰りに駅のホームから足を縺れさせて落下し、そのまま戻らなかった。あまりにも呆気なく、地獄から解放されたのだ。
だが、それと同時に、雪乃はもう一つの別れを経験することになる。親のいない子供は親戚に預けられるか、施設に入る必要があった。いずれにしても社からは遠くなる。
殴られて訪れたときよりも哀しみに染まった顔で社に現れた雪乃を、白い子供は優しく抱きしめて迎えた。
『もう、あえないのかな……せっかくおともだちになれたのに……』
『そんなことない。きっとまたあえるよ。……そうだ、やくそくしよう』
『やくそく?』
『うん』
白い子供が頷いて、小指を差し出す。
『ゆきのがおおきくなったら、むかえにいく。そうしたら、けっこんしよう』
『えっ』
驚く雪乃に、金色の目を細めて微笑む。差し出されたままの小指を更に雪乃へ近付け、指切りを促した。雪乃は誘われるまま小指を絡め、じっと結ばれた指を見つめた。
『けっこんしたら、もうさよならしなくてよくなる?』
『うん、ぜったいはなれない』
『おとうさんとおかあさんみたいに……ならない……?』
『ぜったいならない。だって、ゆびきりするもん』
『うん……じゃあ、やくそく』
大きな瞳いっぱいに涙を溜めて、小指を結んだまま歌に合わせて小さく揺らす。
『ゆーびきーりげーんまーん、うーそついたらはーりせんぼんのーます』
――――指切った!
「お社の、あの、白い子……」
ぽつりと呟き、瞬きをした瞬間、目の前にいた黒髪の美少女が一変していた。
頬の辺りでパツンと切られた横髪と腰を越えるほど長い後ろ髪、それから真っ直ぐ切り揃えられた前髪は絹糸のように白く、大きな瞳は望月のような黄金色をしている。色白の滑らかな肌は記憶と僅かも違わず雪乃の手を、頬を包んで捕えて放さない。淡く色づいた唇は艶を帯び、ゆるりと弧を描いた。
「思い出してくれたのね、雪乃」
「あの子が神様だったなんて……あのときは、わたしと一緒なのだとばかり……」
「居場所がないという意味では、同じだったわ。だって、私は……」
やっとといった様子で呟く雪乃を抱きしめ、氷雨は熱い吐息を吹き込むようにしてまた口づけをした。
「あなたとの約束だけが私の縁だったの……もしあのときあなたが来てくれなかったら、私は祟り神に堕ちていたわ。誰もいなくて、寂しくて寂しくて、どうにかなりそうだった私を、あなたが助けてくれた……」
「そんな、わたしは……」
酔った父の暴力から逃げていただけだった。誰かを救おうなどと大それたことは微塵も思っていなかった。あの社を選んだ理由も人が来ないからというだけで、深い意味は全くなかったのに。それなのに氷雨は、まるで命の恩人であるかのように熱の籠った眼差しで雪乃を見つめている。
「わたしは、そんなつもりじゃ……」
「……そうね。あなたは幼かったもの。深い意味なんてなかったでしょうね。でも、私は本気よ。本気であなたを追ってきたの。あの頃の恩を返すために。そして、約束を果たすために……あなたを護りに来たの」
「氷雨ちゃ……」
言葉が飲み込まれる。音にならなかった想いも全て喰らい尽くされてしまう。手の中のお茶は、いつの間にか随分とぬるくなっていた。
「雪乃は、私と結婚するのはいや?」
「……い、嫌と、いうか……氷雨ちゃんも女の子じゃない……?」
「ふふ。そんなの、些末事だわ。人間の法律なんて、私には関係ないもの」
指切りをした雪乃の右手を取り、小指の付け根に唇で触れる。約束をなぞるようにして熱を吹き込み、愛おしげに頬ずりをする。本当に嘘偽りなくあの約束だけを頼りに訪ねてきたのだと、氷雨の全てが物語っている。
その姿を見ていると、雪乃の胸にも小さく灯るものがあった。
「わ……わたしだって……いくら小さかったからって、結婚の意味がわからないほどじゃなかったよ……だから……」
伏せていた顔が上げられ、縋るような眼差しが雪乃に注がれる。古い小さな社の神様をこの世界に繋ぎ止めたのが自分の言葉であるのなら、責任は果たさなければ。
雪乃は氷雨の頬を両手で包むと、額に口づけをして不器用に微笑む。
「……結婚を前提に、お友達になろ?」
ぱあっと表情が華やぎ、氷雨はいまの友達という言葉を理解したのかしていないのか、雪乃を抱きしめて口づけをした。
「うれしい……私、雪乃に会いに来て良かった……信じて良かった……」
涙ながらに感激されては、口づけを咎める気にもなれない。彼女の愛情表現がこれしかないのか、何度も何度も音を立てて啄まれる。
「っ、んぅ…………はぁ……氷雨、ちゃ、あの……そろそろ……」
「ああ、ごめんなさい。すっかり暗くなってしまったわ」
そう言って立ち上がり、雪乃に手を差し伸べる。躊躇いながらその手を取ると、氷雨はとろけそうな笑みを浮かべて握り返した。
すっかり冷えたお茶を鞄にしまい、ふたりは手を繋いだまま公園をあとにした。