沈みゆく影
「百々梅さん、今日里菜たちとカラオケ行かない?」
放課後。部活へ向かう生徒や雑談に興じる生徒で騒がしい中、朝のHR前に話しかけてきた女子生徒が、鞄を肩に引っかけて遊びの誘いに来た。だが雪乃は、彼女とは特別仲が良いわけではない。寧ろ彼女は、大人しい雪乃と真逆のグループに所属しているような、明るく活動的な少女だ。更に放課後を共に過ごしたことがあるわけでもない。それなのになぜ誘いに来たのかわからず答え倦ねていると、氷雨が割って入った。
「ごめんなさい。放課後は私が案内をお願いしているの」
「あ……そうなんだ。じゃ、バイバイ」
あっさり諦めて友人の元へ去って行く後ろ姿を呆然と眺め、それから氷雨に向き直ると小さく「ありがと」と告げた。先の女子生徒とその友人は、チラリと雪乃たちを一瞥して何事か囁きあいながら帰っていく。
何の意図があるにせよ、誘われるままついていっていいことがあるとは思えなかった。
「いまの彼女とは仲がいいの?」
雪乃は廊下を見て彼女たちがいないことを確かめてから、小さく首を振った。
「いま話しかけてきたのが二・三回目かなってくらい、あまり話さない……」
「そう……ところで、本当に校舎案内をお願いしてもいいかしら。特別棟のほうは授業がなかったから、今日は一度も行かなかったでしょう」
意味ありげな表情で呟いたかと思うと、氷雨は突然話題を変えた。一応担任から面倒を見るよう頼まれている立場上断る理由もなく、雪乃は頷いた。
「でもわたし、渡り廊下使うときでも遠回りするけど、大丈夫?」
「構わないわ。私もあの階段は近付きたくないもの」
スッと氷雨が立ち上がり、手を差し出す。一瞬理解が遅れた雪乃が、交互に氷雨の顔と手を見比べてからその手を取ると、やんわりと雪乃の手を握り返しながら、うれしそうに微笑んだ。
「じゃあ、特別棟に行こっか」
「ええ、お願いするわ」
ふわりと長い髪が靡き、膝丈のスカートが揺れ、白い足先が軌跡を描く。二つ並ぶ長い黒髪の後ろ姿を、忘れ物を取りに教室へ戻る途中の担任教師が見つめていた。
「特別複雑な作りってわけじゃないけど、この学校は広いから、暫くわたしと一緒にいたほうがいいかも」
「そうね、お願いするわ」
宣言通りわざわざ遠回りをして渡り廊下を抜け、特別棟へと向かう。
特別棟には図書館や音楽室、技術室やITルーム、視聴覚室などの、主要五教科以外を行う教室が並んでいる他、五教科の中の一つである化学室も存在する。本校舎と繋がった特別棟とは別の独立した建物に、看護学科と福祉学科が使う実習棟がある。
三階の端には音楽室があり、今日は合唱部が使う日であるらしく中から歌声が聞こえてくる。実習棟同様に、特別棟とは別の建物で講堂があり、吹奏楽部はそちらを使っているようで、楽器を調律する音が歌声の合間に聞こえていた。
二階廊下を歩いていると、前方から甘い香りが漂ってきた。
「何の匂い?」
「たぶん、家政クラブじゃないかな。今日はお料理の日みたい」
紹介も兼ねて家庭科室前に着くと、開け放たれたままの扉から焼き菓子の匂いが廊下に漂ってくるのを一層強く感じた。ホワイトボードに書かれている文言から、今日は英国式ティータイムを菓子作りから学ぶ日であるらしい。
「あら、見かけない生徒さんね。転校生かしら」
「初めまして。千護氷雨と申します」
家政クラブの顧問と思しき中年の女性教師が二人に気付いて扉まで来ると、氷雨は頭を下げて綺麗な笑みを見せた。エプロン姿の女性教師は、ここが学校でなければベテランの主婦にしか見えない風貌をしている。現に彼女は、この学校の生徒より年上の子供を二人育てており、その由来で調子のいい生徒からのあだ名が「母ちゃん先生」だったりする、豪快で優しい女傑だ。
「あなたたち、見学して行く?」
「せっかくですけど、他も案内して頂きたいので……」
「あら、残念。それじゃあ、またいらっしゃいね」
「はい。ありがとうございます」
二人揃って「失礼します」と頭を下げてから、再び歩き出す。そのまま真っ直ぐ行った二階廊下の端に図書室があり、二人は足を止めた。
「図書室のほかに、外にも図書館があるんだよ」
「随分と設備が整っているのね」
「うん。たぶん、ここが全寮制だからっていうのもあると思う」
図書室は精々入れてもひとクラス程度だが、図書館は規模が違う。蔵書量が多いことは当然として、館内に設置された学習室も、ゆうに一学年分は収められる。受験シーズンは特に三年生で溢れるのが通例で、静かな図書館がより張り詰めた空気で満たされる。
一方、図書室は比較的気安い雰囲気をしており、所謂ライトノベルや子供向け絵本など娯楽のための本が多く並んでいる。
図書室の入口脇には掲示板があり、市内行事のお知らせや校内新聞などが張り出されていて、氷雨はその校内新聞に目を留めた。
「これは……学校の新聞?」
「うん、新聞部とは名ばかりの、オカルト部が出してるやつ」
「本当、見事にオカルトの話題ばかりね。七不思議にトンネルの噂、窓に映る生徒の霊に屋上封鎖の謎……よくもこれだけ集めたわね」
興味深そうに眺めている氷雨に対し、雪乃は複雑そうな表情で目を背けている。そんな雪乃の様子に気付いた氷雨が、首を傾げて新聞から雪乃に目を移した。
「どうしたの?」
「あ……ううん、わたしあんまりこういうの得意じゃなくて……」
「オカルトは信じていないのかしら?」
雪乃は首を振り、その逆、と呟いた。
「あっ、で、でもっ、霊感があるとかじゃないんだよ、全然っ! ただほら、夏に家族がホラー映画見てたのをうっかり見ちゃって、それが凄く怖くて……だからちょっと苦手なだけで……」
慌てて取り繕う雪乃を、氷雨は目を丸くして見ていたかと思うと、くすりと笑って手を取った。
「はぇ……?」
驚く雪乃を余所に、氷雨は指を絡めてしっかりと握り締めた。所謂恋人繋ぎにすると、体を寄せて顔を覗き込みながら、淑やかに微笑む。
「私たち、きっと仲良くなれるわ」
「え? えっ??」
くすくす笑いながら、氷雨は雪乃の手を取ったまま歩き出した。わけもわからずそれに連れられる形で、雪乃も廊下を進んで行く。窓の外には第一グラウンドやテニスコート、屋内プールの屋根が見え、それぞれ部活に勤しむ生徒の姿も見える。
「百々梅さん……いえ、雪乃ちゃんは、部活には所属していないの?」
それらを横目に、氷雨は雪乃に訊ねた。号令の声が遠くに聞こえ、バックグラウンドに吹奏楽部の演奏が流れ、背後からは合唱部の歌声もまだ微かに聞こえる。家政クラブから漂う焼き菓子の匂いも遠くまで届いていて、それだけでこの学校が部活動にも力を入れていることが窺える。
雪乃は小さく頷いてから、困ったように眉を下げて答えた。
「あまり遅くまで学校にいたくなくて……」
「そう……それなら、放課後にお願いして悪かったかしら」
「ううん、暗いところで一人になるのが苦手なだけだから、大丈夫」
一通り案内を終えて教室に戻ると、既にクラスの皆は帰ったあとだった。無人の教室が夕陽に照らされ、赤く染まっている。
「遅くなってしまったわね」
「うん……あ、そうだ。わたしも氷雨ちゃんって呼んでもいい?」
「ええ、もちろん。うれしいわ」
帰り支度を纏めていると不意に教室の前扉が開いて、雪乃は肩をビクリと跳ねさせた。入ってきたのは担任教師の空木真澄だった。
空木は一見病弱そうに見える肌色と細長い体を持った、二十代後半の男性教師だ。その頼りなく見えるところが却って母性本能を擽ると一部の女子生徒に人気があり、時折恋愛絡みの質問を投げかけられて困惑していることがある。
「先生、見回りですか?」
「ああ……君たちも、もう帰るところか」
「はい。一通り案内してもらったので」
担任教師と他愛ない会話をする氷雨に対し、雪乃は表情を強ばらせて氷雨の陰に隠れていた。それに気付いた担任が、机のあいだを抜けて近付いてくる。近付くにつれ、雪乃の顔色が目に見えて悪くなっていく。凍り付いた眼差しは、空木を捕えているようで正しく見ていない。
「どうした、百々梅。顔色が……」
「何でもないです!!」
伸ばされた手から逃れるようにして更に後退ると、固く目を瞑って叫んだ。その様子に驚いたのは担任だけで、氷雨は穏やかな笑みを口元に引いたまま言う。
「ごめんなさい。さっき新聞部のオカルト記事を読んで、怖がらせてしまったの」
「そ、そうか……まあ、気をつけて帰りなさい」
困惑しつつも手を引き、空木が踵を返したときだった。
――――きゃあああああっ!!
廊下の奥から、甲高い女子生徒と思しき悲鳴が響き渡り、雪乃と空木の体が固まった。声がしたのは、雪乃が頑なに避けている階段があるほうだ。
二人の青ざめた顔に対して、氷雨だけは笑みを崩さず凛と佇んでいる。
「……先生、どうかしまして?」
氷雨が囁くように問うその声にさえ、空木は大袈裟に驚いた。怯えた表情で廊下を見、誰もいないことを確かめると僅かに安堵の息を吐く。しかし依然その表情は硬く、顔色も悪い。
「い、いや、何でもない……君たちも遅くなる前に帰りなさい」
それだけ言うと逃げるようにして教室を去って行った。空木が向かったのは、職員室に向かうほうの階段ではなく、逆方向の階段だ。それを見送ると、氷雨は背後を振り向いて雪乃の肩を撫でた。
「もう大丈夫よ。私たちも帰りましょう」
答える余裕もないのか小さく頷いて鞄を抱えた雪乃の手を引き、廊下に出る。進む先は空木同様、件の階段を避ける方向だ。氷雨は廊下を抜ける際にチラリと階段のあるほうを一瞥したが、人が落ちたりした様子もなければ、誰かが声を聞きつけて騒ぎになっていることもなかった。