お客様は神様です
「……雪乃……?」
「え……あ、氷雨ちゃん……?」
いつの間にか泣き止んでいた氷雨が、不思議そうな顔で雪乃を見つめていた。目の前に涙の痕が残った白い頬と潤んで輝く瞳が迫っていることに気付いて、目を丸くする。
「大丈夫? 何だか元気がないように見えたのだけど……」
「大丈夫だよ。それより氷雨ちゃんこそ、ほっぺたに痕が付いてる」
笑って頬を拭うと、氷雨は擽ったそうにすり寄ってきた。甘える仕草に和んでいると、鏡花の笑う声が聞こえ、雪乃は一気に現状を思い出した。
「あ……えっと……」
「くくっ……いや、すまんな。すっかり仲良くなったようでなによりだ」
可笑しそうに喉を鳴らして笑うその目元が、どことなく氷雨に似ている気がした。彼は娘と言っていて、氷雨は育ての親と言っていた。人の親子のような血縁関係ではないはずなのに、ふたりは雰囲気がとてもよく似ている。
正面から真っ直ぐ見据えられると心臓を掴まれた心地になるのに、笑うと鋭い雰囲気が途端にやわらかくなるところ。一挙手一投足全てが絵になるところ。何気ない仕草でさえ目で追ってしまうところ。ただ見目が良いだけではない、抗えない魅力があるところ。
そして、とても義理堅く愛情深いところ。
「なあ、お前さん」
真横から氷雨に甘えられた形のまま、雪乃は鏡花に向き直る。そして続く言葉を待っていると、思わぬ提案が飛び出してきた。
「ここでバイトする気はねえか」
「えっ」
雪乃だけでなく、氷雨も驚いて同じ反応をした。まん丸な二組の瞳に見つめられながら愉しげに笑うと、鏡花は机の引き出しから和綴じにされた本を取り出した。
「毎月振り込まれてる金、殆ど使ってねえだろ」
「それは……」
入学して最初の月の末頃に通帳を確認したとき、見たこともない数字が記帳されていたことに気付き、誤って振り込んだのではないかと施設長に連絡したことがあった。だが、施設長は毎月孤児院に振り込まれる金額のうち、最初に孤児院前に届いた荷物に張られていた手紙に書かれていた額を雪乃に振り込んでいるだけだという。
日々の食費や娯楽等に使ってほしいとのことだったが、なにもしていないのに一方的に大金をもらっていることに負い目を感じてしまい、最低限使う分しか降ろしていない。
「……ありがたいとは思うんですけど、匿名の寄付ではお返しも出来ないので、使わずにおいて卒業したら孤児院にお返ししようと思っていたんです。その方は、わたし個人宛に寄付してくださっていたことはわかっていたんですけど……」
「こんだけの金をもらう理由がないから使えない、ってことか」
申し訳なさそうに、雪乃が頷く。折角の好意を無下にしてしまうことになるとわかっていても、額が額であるだけに気後れしてしまうのだ。
雪乃の反応に、鏡花は笑みを深めて「そうか」と言うと、和綴じの本を開いて眺めた。雪乃たちの位置からはなにが書いてあるかは見えないが、めくる直前に表紙の文字だけは読み取ることが出来た。所謂出納帳らしく、雪乃や孤児院への寄付金の額などもあの本に記されているのだろう。
「だったら、金をもらう理由を作ればいい。お前さんは優しいから、タダで娯楽費を得ることが後ろめたいんだろう」
雪乃と氷雨は顔を見合わせ、それから同じ動作で鏡花を見た。まるで小さい頃から共に育った姉妹のように息の合った仕草に、鏡花の目元が緩くなる。
「でも、いいんですか……? 結局零仙さんのお世話になってしまうような……」
「構わねえよ。迷惑なら最初から誘ったりしねえからな。俺は娘とその恩人にゃ、楽しく生きてほしいのさ。特にお前さん、孤児院に入るまでは散々だったろ」
「っ……!」
膝の上に置いていた手を、無意識のままにぎゅっと握り締める。
氷雨と出会ったのも、抑々家にいられなかったからだ。夏も冬も同じ服を着ていた頃、公園に捨てられていた新聞紙や段ボールをかき集めてどうにか暖を取ったこともあった。氷雨も白い着物一枚だけだったので、細い体を寄せ合って一晩震えていたこともあった。雪や雨の日は氷雨が社の中に入れてくれたけれど、屋根も壁もボロボロで隙間風がひどく外よりはマシ程度の状態だったことも覚えている。
けれど、氷雨と別れてからのほうがつらかった。思い出したくもないくらいに。
「雪乃……」
握り締めた雪乃の手に、そっと氷雨の手が重なる。ハッとして横を見ると、心配そうな表情で雪乃を見つめる氷雨と目が合った。
「私も、雪乃にしあわせになってほしいわ。あの頃はただ傍にいることしか出来なかったけれど、いまならあなたを助けてあげられる……傍にいる以上のことが出来るの」
「氷雨ちゃん……わたしも、ここで氷雨ちゃんの力になれる……?」
「もちろんよ。学校で傍にいてくれるだけでしあわせなのに、お父様の元でも雪乃の傍にいられるなんて……それに、私に出来ないことも雪乃なら出来るのよ」
氷雨の言葉に、雪乃はそんなことがあるだろうかと首を傾げた。思い当たらない様子の雪乃を見て、氷雨は雪乃の手を両手で包んで引き寄せる。
「今日だって、私を助けてくれたわ」
「あ……」
今日の出来事を思い出し、雪乃は思わず氷雨の手を握った。
氷雨を信じてはいたけれど、全く怖くなかったと言えば嘘になる。それに水無瀬という少女の霊と一つになったとき、体ごと心が破裂しそうなくらい、強い哀しみに襲われた。死者が抱える感情はこれほどまでに強いのかと畏れを抱いたほどだった。けれど、これが氷雨には出来ないことで氷雨や鏡花の助けになることなら、雪乃に断る理由はなかった。
正面を向き、鏡花を真っ直ぐに見据えながら、雪乃は意を決して口を開く。
「零仙さん……よろしくお願いします」
「おう」
雪乃の言葉に笑みを深め、鏡花は氷雨に「良かったな」と囁く。艶のある低い声が熱を帯びて喜色に染まり、華やぐそれらを慈愛でもって包んだ穏やかな音だ。
「でも……わたしは具体的に、なにをすればいいんですか……?」
「そうだなあ、最初のうちは俺に茶菓子でもこさえてもらおうか。お前さんが料理好きなことも知ってるんでね」
「雪乃、そうだったの?」
氷雨に頷きつつ、雪乃はどこまで知られているんだろうと少しだけ畏怖の念を抱いた。探偵事務所と名が付いている以上、特に個人情報を秘匿していない一般人のことなど昼寝していても調べられそうではあるけれど。
「ただ、まあ、給仕のためだけに雇うつもりはねえからな。俺たちとの暮らしに慣れたら氷雨の手伝いもしてもらうことになるだろうさ」
「氷雨ちゃんの……それって、今日学校でしたような……」
「おう。といっても、今日みてえな人間霊相手の仕事は滅多にやらねえんだがな」
「どういうことですか……?」
雪乃が訪ねると、鏡花は「待ってな」と言い、引き出しから更になにかを取り出した。蛇腹に折りたたんだ紙に見えるそれを広げ、指先で雪乃を招く。招かれた雪乃は、氷雨と手を繋いで立ち上がり、机いっぱいに広げても余る長い紙を覗き込んだ。
「これが、俺たちの顧客だ」
そう言われて見てみるものの、墨と筆で書かれた文字はあまりに達筆すぎて読むことが出来ない。かろうじて、文章ではなく連名であることと、名前の下にそれぞれ家紋に似た朱色の紋様が捺されていることだけは理解出来た。そして、気のせいでなければ、名前の末尾が神やら命といった人名ではあまり見ない文字が連なっているようにも見える。
「えっと……氷雨ちゃん、読める?」
「ええ。一番最近のお客様は若竹比売神様ね。竹林が立派な神社なのだけれど、境内から御利益を求めて竹の枝葉を折って持ち帰る人がいるから何とかしてほしいっていうご依頼だったわ」
「じゃあ、氷雨ちゃんたちは神社とかの依頼でお仕事してるってこと……?」
内心では薄々気付いていながら訪ねる雪乃に、氷雨は小さく首を振った。
「いいえ。私たちのお客様は、神様よ」
「か……神様が、お客様……」
雪乃の脳内を、接客の場で良く聞く文言が駆け抜けていった。だがあの言葉は、業務に望む側の心得であって、客が神様並みにお偉いという話でもなければ、本物の神様が客であるという話でもないはずだ。それなのにこの探偵事務所は、比喩でも何でもなく神様を相手に商売しているという。
「わたし……もしかして、凄いところに来ちゃった……?」
様々な想いが巡り、言葉にならない中で何とかそれだけ絞り出した雪乃を抱きしめる、しなやかな腕。見れば氷雨が雪乃を腕の檻に閉じ込めてうっとりと微笑んでいた。
「今更だわ。あなたは私の……月隠白梅比売神の花嫁になるのよ」
「そっ……それは、そう……って、その名前、もしかして、氷雨ちゃんの……」
「ええ。千護氷雨は人としての名前。いまのが本当の私の名前よ」
晦を表わすつごもりと同じ音に、白い梅。社を作った当時の人は、氷雨の女神としての姿を見ていたのではないかと思うほど彼女によく似合っている。
「月すらも姿を隠すほど美しい白梅の女神って意味だ。俺の娘に相応しかろう」
と思っていると横から鏡花の解説が飛んできて、心底納得した。一聴するに親馬鹿にも思えるその言葉も、反論の余地がないのだから頷くほかない。
「氷雨ちゃんを見ていると、名は体を表すって本当なんだなって思いますね……」
「本当? 雪乃にもそう見えているならうれしいわ」
氷雨のとろけるような笑みを間近で受け、雪乃は頬が熱くなるのを感じた。
雪乃はずっと、神様という存在はとても平等で公平なものだと思っていた。冷酷とまで思っていたわけではないが、そこに人が持つような情はなく。誰かを特別助けたりせず、ただ見守っているものと思っていたのに、氷雨も鏡花も、雪乃の持つ神様に対する印象を悉く覆してくれる。
特に氷雨は、ともすれば雪乃よりも感情表現豊かで、心をそのまま表わしているように感じる。涙もろく、うれしいときは花がほころぶような笑みを咲かせる。それになにより愛情表現があまりにも真っ直ぐで、受け止める度に心臓が止まりそうになる。
「あの……」
熱を帯びた顔を誤魔化すのも忘れ、雪乃は氷雨をくっつけたまま鏡花に向き直った。
「零仙さん、改めて、これからよろしくお願いします」
「おう。娘の未来の嫁さんだからな、丁重にもてなしてやるとも」
にやりと笑いながら言われ、雪乃はただでさえ熱くて仕方なかった頬が更に熱くなってゆで上がりそうな心地になった。そんな雪乃を見つめるふたりの視線が慈愛に満ちていることに煮えかけの雪乃が気付くのは、暫く経ってからになる。
新連載開始記念、連続更新はここまでとなります。
今後の更新は皆さんの反応を見て決める予定です。
レビューやご感想、お待ちしております!




