未知との遭遇
寮に戻ると、ふたりは早めに風呂を済ませて食堂を訪れた。今日は夕食を共にする日と決めていたので、氷雨の昼食はお茶だけだった。
トレーを手にカウンターに立つと、雪乃は見慣れた後ろ姿に声をかけた。
「古谷野さん、生姜焼き定食と中華丼大盛りでお願いしまーす」
「おや、今日も氷雨ちゃんと分けっこかい。仲いいねえ」
「うん」
ちょっと待っておいで、という言葉を残して調理台に向かう馴染みの調理師、古谷野の背を見守りながら、カウンターの下で繋いだ氷雨の手をきゅっと握る。端から見ても仲が良く映っているのだと実感出来て、思わず頬が緩んだ。
「はいよ、お待ち。茶碗もつけといたからね」
「ありがとう」
勝手知ったる雪乃の食事量と氷雨と分け合う日の食べ方で、古谷野は氷雨が取り分けて食べるための茶碗も添えて定食と丼ものを同時に出した。通常定食か丼もののどちらかを乗せて運ぶためのトレーには定食に加えて大盛り用の丼や茶碗までは載らなかったため、氷雨は自分の茶碗と丼を持って席に着いた。
雪乃の前には定食が並んだトレーが置かれ、その奥に氷雨の手によって丼が置かれる。一度トレーを横に避けると、雪乃は散り蓮華を手に、中華丼を取り分け始めた。
「氷雨ちゃんはお野菜だけがいいんだよね」
「ええ。でも、今日のごはんは難しいかしら」
「んー、大丈夫。この辺お野菜が固まってるから……」
氷雨は人と殆ど変わらない食事を取れるが、獣肉だけは苦手だという。神様だからか、それとも氷雨の個人的な好みなのかはともかく、苦手なものを嫌々食べるのは食べ物にも失礼だと思っている雪乃は、無理に食べられないものを勧めたりせず好きなものを食べてもらうことにしている。中華丼は色々な具材が混ざり合った丼ものではあるが、大きめに切られた食材は然程苦心せずに選り分けることが出来た。
「どうぞ。まだ少し熱いから気をつけてね」
「ありがとう」
頂きますと声を揃えて手を合わせ、中華丼を一口。
雪乃が三口分食べ終えるまでのあいだ、氷雨は最初の一口をじっくり噛みしめて、漸く嚥下すると不思議そうな表情のままもう一口、散り蓮華を唇の奥へと滑り込ませた。
「……どう?」
二口目を飲み込む頃合いで雪乃が訊ねると、氷雨はまだどこか不思議そうにしたまま、一言「不思議な味だわ」としみじみ呟いた。
「何だか色々な味がして、なんて言ったらいいのかわからないの」
「えっと……苦手じゃないんだよね?」
「ええ、寧ろ好きなほうだと思うわ」
雪乃に笑みを向けて答えると、氷雨はまた食べ進めた。食が進むのならお世辞ではなく本当に味は気に入ったのだろう。いままではプリンやいなり寿司やおむすびなど、甘味は甘味、塩味は塩味と、複雑な味覚を刺激するものは与えてこなかった。そこからいきなり複数の野菜と魚介と豚肉が入り混じった中華丼を食べたので、混乱しているようだ。
これまでの氷雨の好みを見るに、洋菓子以外にも出汁の味や野菜の甘さは好むだろうと感じていた。それは間違いではなかったが、少々段飛ばし過ぎたようだ。
未知のものに巡り会ったような表情で食べ進める氷雨を時々盗み見ながら、雪乃も山のような食事を食べ進めた。
「ご馳走様でした」
揃って手を合わせながら言うと、雪乃はふたり分の食器をトレーにまとめて返却口まで持っていった。
「ごちそうさま。氷雨ちゃんも完食したよ」
「おや、うれしいねえ。二人とも、食休みしてから横になるんだよ」
「はーい。お休みなさい」
「お休み」
手を繋いで食堂をあとにし、寮室へと戻るといつでも眠れるように支度だけ済ませて、並んでベッドに腰掛けた。
一週間経っても氷雨の荷物は殆ど増えておらず、あれから買ったものと言えば、風呂で使う石鹸類と、部屋着や追加の下着、それから基本的なケア用品のみ。しかも、それらもただ単に雪乃が使っているからという理由だけで購入しており、本来は人間がするようなこまめな手入れは必要ないという。
その話を聞いたとき、雪乃は数秒時間が止まったかのように固まっていた。
「明日の休みはなにをしようかなぁ……」
足を伸ばしてつま先を交互に揺らしながら、ぼんやりと明日を思う。バイクや電動機付自転車など、坂道でも苦にならない移動手段を持っているものは町で遊ぶこともあるが、雪乃は自転車すら持っていないため、徒歩以外の手段を取りようがない。氷雨が来る前はひとり図書館に入り浸っていて、それを特別退屈だとも思っていなかった。しかし一緒に過ごすひとがいて、ひとりで本を読むというのも勿体ない気がしてしまう。
暫く考えていると、氷雨が雪乃の手を引き寄せ、唇で触れた。
「それなら、私の所長にあってみない?」
「所長さんに?」
「ええ。私の育ての親でもあるひとなの。ちょっと変わっているけれど、いいひとよ」
氷雨の育ての親と聞いて、雪乃の脳裏にまず過ぎったのは、婚約者の親への挨拶という一大イベントだ。古い映像知識でしかない偏ったものだが、男性が女性の家にお邪魔して頭を下げながら「娘さんを私に下さい」と言っているのを見たことがある。
では女性同士の場合はどうするのだろうと思考が明後日へ遠ざかりかけたのを、何とか呼び戻して意識を切り替える。きっと氷雨にそんな気はないはずだから。
「そうだね……せっかくだし、ご挨拶したいな」
雪乃の答えに、氷雨は満足そうに頷いて横から抱きしめた。雪乃の耳元をうれしそうな笑い声が擽る。背中を抱き寄せながら頭を撫でると、甘えるようにすり寄ってきた。
やわらかなぬくもりに包まれているうち睡魔に襲われた雪乃は、氷雨を誘ってベッドへ潜り込んだ。相変わらず氷雨の寝具はなく、小さな二段ベッドの下段で共寝をしている。
「お休み、氷雨ちゃん」
「お休みなさい、雪乃」
身を寄せ合い、目を閉じる。孤児院にいたときも怖い夢を見たと言って潜り込んでくる弟妹がいたのを思い出し、仄かに温かな気持ちになった。
翌朝、身支度を調えて雪乃は氷雨と共に寮を出た。寮を離れるのは夏休みに一週間ほど孤児院に帰って、院の手伝いをしたとき以来になる。たった四ヶ月しか離れていないのに弟妹たちに「寂しかった」と言って飛びつかれたときは、擽ったい心地になったものだ。
外はまだ夏の名残が地上を焼いており、対策もなしに太陽の下へ飛び出せば、見る間に肌が赤くなってしまう。建物を出たところで日傘を差すと、隣で氷雨が不思議そうな顔で見ていることに気付いた。
「氷雨ちゃん、どうしたの?」
「雪乃こそ……まだ雨は降らないわよ?」
「これは日傘だよ。わたし、頻繁に日焼け止め使うと肌が荒れちゃうから、ちょっとしか出かけないときとかは日傘にしてるんだ」
「えっ」
驚いて目を丸くしたかと思うと、今度は心配そうな顔になって雪乃の頬に触れた。白い指先が頬を撫で、繊細な手のひらでそっと包む。
「雪乃、太陽に当たると焼けてしまうの……?」
「日焼けっていって、人間はわりとそうなるんだよ。別に燃えちゃうわけじゃなくって、肌が赤くなったりすることを言うの。でもまあ、ひどいのは火傷と変わらないらしいから気をつけないとだけど」
「そう……人間って大変なのね」
気遣わしげな視線を向けながら言うと、氷雨は雪乃の手を取り優しく包んだ。
「それなら、帰りは送り届けるわ。坂道もあることだし……」
「ありがとう」
手を繋いだまま、ジェットコースターにでもなりそうな傾斜の坂道をゆっくりと歩いていく。この坂は万一駆け下りようものなら、余程の脚力がない限り最後まで止まることが出来ないどころか、脚を縺れさせて転げ落ちることもある。生徒からは地獄坂と呼ばれることもあり、下りはもちろん、上りのキツさは運動部員でも避けたがるほどだ。
「この辺はまだ木陰もあるから、少し涼しいね」
「そうね。公園の奥や水場はもっと涼しいんじゃないかしら」
「ずっと日陰だったら良かったんだけどなぁ……」
チラリと、横目で氷雨を盗み見る。陽光の下で見ると顔立ちの細かいところまでが目に留まり、思わず心臓が跳ねた。ビューラーも使っていないのに上を向いている長い睫毛も陶器のような肌も、一分の隙すら見当たらない。
ふと、視線に気付いた氷雨の大きな目が、雪乃のほうを向いた。
「なあに、雪乃」
「えっ……と、氷雨ちゃん、いつも綺麗だなって」
「ふふ、ありがとう。雪乃も可愛いわよ」
「っ……氷雨ちゃんに言われると照れるよ」
くすくす笑う声に、より照れくささが増していく。
氷雨は、雪乃の真似をするための化粧水以外の手入れはしていない。化粧は抑々雪乃がしないので、氷雨もしていない。素顔で銀幕にも耐えうる容姿を持っていることに目眩を覚えるが、彼女は神様だからだと自分に言い聞かせることで己を保っていた。
しかし雪乃は気付いていない。化粧っ気のない雪乃を、羨望や嫉妬の眼差しで見つめる者がいることに。氷雨の前だから霞んで見えるだけで、雪乃自身も十分人目を引く容貌の持ち主であることに。そしてそれらの視線に対して、氷雨が日々牽制していることに。
雪乃本人だけが、全く気付いていなかった。




