第15話 希望を掴み取れ
3人は足が止まった。
3秒間の沈黙に包まれる。
その沈黙の間は、言わばいきなり北極に放たれた野うさぎが体全身を小刻みに揺らす様に足がガクガクの震えているのだ。
ヒグマはよだれを垂らす程に興奮しているので刺激してはいけない。
「に、逃げるぞ!!!」
と、大声で壱は叫びながら走り出したのだ。
その姿を見て、立と雅も走り出す。
するとヒグマも壱達の後を追いかけてくるくではないか。
壱は、追いかけてきたヒグマに驚いているが、立は冷静だ。
「熊に遭遇したら大声出したり走ったりしたら駄目なの知らないの!?」
壱はなんとなくそんな話を聞いた事があるのを思い出したが、もう後の祭りだ。
とりあえずこの状況になってしまったからしょうがないのだ。
立は全力で走っても駄目な事は知っていた。
ヒグマは時速60kmの速さで走る事が出来るので数十秒後にはヒグマの爪や牙の跡が身体中に付いているだろう。
そんな恐怖に臆しながらも立は数秒の間にヒグマについての情報を思い出し、最善を考える。
ヒグマ対策その壱、視線を合わしたままゆっくりと後ずさりをする。
これが本来得策だが、もう追われている。
熊は背を向けて逃げる獲物を追う習性があるのだが、この時、追われているのでこれは意味がない。
ヒグマ対策その弐、持ってる食べ物やリッュクを手放してヒグマの興味を惹く。
これに関してはほんの少し可能性がありそうだが、ゆっくりと近づいてくる熊であれば興味を惹けそうだが追いかけている興奮状態のヒグマにこれが通用するとは思えなかった。
ヒグマ対策その参、距離が1、2メートルしかないのであれば、戦う。
そんな、バカな作戦があるかと思うかもしれないが、近距離で熊に出くわした時に一番生存率が高いのが〝戦う〟事である。
この状況でいつまでも逃げ切れるはずがないのだ。
数秒の間にこの作戦を思いつき、2人に話す。
戦う事を選ぶ
全力で走りながらも戦う策も数秒で立が練る。
ツキノワグマであれば、武闘家などが倒せる可能性はあるが、大人のヒグマは400kg近くあるので倒す事はまず不可能だ。
目的は戦意を削いでヒグマに逃げてもらうところにある。
山に入る者が持ち合わせている武器とし使用されやすいのは、ヒグマ対策の唐辛子スプレーであるが、持ち合わせていない。
ナタや杖類などのリーチのある武器も持っていない。
狙い場所としては、急所の鼻先である。
折りたたみ傘があれば、武器として使えるのにと思っても持っておらず、傘を持っていたら雨宿りする場所を探してこんな事にもなってないと軽く自分にツッコミを入れるくらいの余裕があった。
今使えそうな武器としては、近くに落ちている木の枝や石ころくらいだ。
後は、持ち物としては、水筒とタオルや着替え、軽食に山登りの本、そして携帯ウォシュレットくらいだ。
なるべく軽装で来たから持ち物は少なめである。
もう走るのも限界に近づいて来たので、3人は必要な物だけ取り出してリュックを投げて気を惹く事も試みた。
一瞬ではあったがリュックに視線を向けるヒグマ、その一瞬で3人は三方向に散らばる。
壱は近くにあった太めの枝を持ち、立は水筒にタオルを巻きつけて武器を作った。
まずは、壱の方にヒグマが襲いかかって来たので、壱は木の枝を振り回す。
田舎育ちの壱は、外で遊ぶ事が多く、特別運動をしていた訳ではないが、身体能力は高い方であった。
しかし、木の枝はヒグマの手に払いのけられ、中々一撃を食らわす事が出来ない。
雅が遠くから石を投げて援護してくれており、壱はヒグマの攻撃を避ける事が出来た。
雅は外で遊ぶ事やスポーツをする事など殆どなく、身体能力としては高くなかったが、勉学で培ったキレる頭でどこを狙えば、ヒグマの攻撃の邪魔になるか、壱をサポート出来るかがわかっていた。
ヒグマは壱と雅の攻撃に完全に気を取られている。
その隙を突いたのは、立であった。
立はお手製のタオルを巻いた水筒で思いっきりヒグマに振りかかる。
しかし、ヒグマの後方からしか攻撃出来ず、ヒグマを驚かすだけの攻撃にはならなかった。
そして、ヒグマも反撃に出始め、立の武器のタオルの部分を切り裂き弾き飛ばす。
タオルが破れては、この武器に使い道はなくなった。
実質、壱の接近戦と雅の援護だけになり、ヒグマが優勢となる。
次第に壱は追い詰められていき、ヒグマが多い被さるような体勢になり、なんとか枝で押し返すのが精一杯である。
絶対絶命に陥った時、雅が急に走り出す。
壱と立は雅が逃げ出したと思った。
壱はまた、友人に裏切られた。
そして、〝もうどうでもいいや〟
と思い、ヒグマとの勝負を諦めかけた。
その時だった。
「諦めるな!」
雅の声がした。
雅が走り出したのは、投げたリュックの先だった。
そこから何かを取り出して、立の武器にしてた水筒にそれをいれ、蓋をする。
そして、その水筒を立に渡して、立は壱の方に向かって投げた。
その水筒は壱の手元に届いた。
投げて地面に落ちた衝撃で蓋が開き、中から白い物が見えた。
〝携帯ウォシュレット〟だった
壱はすぐに閃いた。
両手で持って抑えていた木の枝を左手と両足を使ってヒグマを抑え、一瞬の間で携帯ウォシュレットに手を伸ばした。
その瞬間にヒグマは壱の木の枝を折り、壱に覆いかぶさるような形になった。
しかし、壱は笑っていた。
絶望が希望に変わったからだ。
そして、ヒグマに携帯ウォシュレットのノズルを向け、精一杯の力で強のボタンを押す。
それは、ヒグマの目や鼻にかかり、悶え始める。
壱はその瞬間にヒグマの懐から逃げ出す。
その直後、ヒグマは驚いたのかその場を後にした。
3人の力が合わさっての勝利であった。