08 君のピアノ
君のピアノ
ただでさえ女性の多いピアノのクラス。
誓に惹かれる者もいる。
繊細(に見える)、悲壮感のある佇まいが母性本能を云々。
興味本位で誓の産まれや育ちを勅使河原に聞く女生徒達。
「老舗料亭の次男」の一言が決定的になる。
好にとっては
なんだ、ボンボンの道楽か。程度の相手。
誓のピアノに周囲は「迫力がある」と言っていたが
好には痛々しいとしか感じられなかった。
焦燥。
生き急いでいるのではなく、死に急いでいる。
ボンボンのくせに。何を必死に。
自分には関係無い。元より他人を気にする余裕なんて無い。
それが突然勅使河原からピアノ二重奏をやれと。
「よりによってこんな奴と。」
好は適当にあしらって自分は自分の練習をするつもりでいた。
練習が始まると、途中躓くのはいつも誓だった。
技術的に問題のないような箇所でさえ、気持ちが先走っている。
落ち着きなく、忙しく走る指。
好は呆れたりしなかったが、慰めも助言を与えたりもしない。
好は意に介さず最初からやり直す。
どうせ時間になれば終わる。
何度か同じ光景が続く。
不意に誓がピアノの足を蹴った。
この時ばかりは好も怒った。
「ピアノに八つ当たりするな!」
これだからボンボンは。
「お前ピアノを愛していないだろう。」
誓はその一言に項垂れた。
「ごめん。」
謝るくらいなら蹴るな。
「ごめん。」ともう一度言った誓の肩が震えていた。
声を押し殺して泣いている。
同時に誓の気持ちも理解した。
泣くほど悔しがっている。不甲斐ない自分への苛立ち。
好はそれ以上何も言わなかった。
一息置いて、誓にリードパートを弾かせる。
「私が合わせるから。」
誓は涙を拭って座りなおす。
ぎこちない旋律。
焦りも消えていない。
引っ掛かり、躓き、止めようとしたが好は続けさせた。
誓の隙間を埋めるように好は弾いた。
自分以外の誰かのためのピアノ。
譜面とは違う音が並ぶが
誓のピアノを盛り上げる最上の音を選んでた。
弾きながら、聞きながら誓は身震いした。
どうしてこんな事ができるんだ。
次にどんなミスをするのかさえ判っているかのようだ。
次第に呼吸が合う。
1つの音が1つの音と重なり、
連なり、
メロディが紡がれる。
誓からは、焦りや敗北感は消え、ただ心地良さだけに包まれた。
誓は、自分が笑っているのに気付きもせずに弾いた。
その夜、誓は希のピアノを弾いた。
小さな玩具のピアノ。
あれから触れなかったピアノ。
君にもっと弾かせてみたいピアノがあった。
もっと聴いてもらいたいピアノがあった。
「だから」
今よりもっと楽しいピアノを覚えて
もっともっと楽しいピアノを練習して
希みたいな奴にたくさん教えてやるよ。
君が初めて僕に聞かせてくれたピアノのような
誰もが楽しくなれるピアノ。
ピアノを弾く誓の笑顔を見て、
母の弾くピアノに合わせて歌う子供達を思い出した。
それを見て微笑む母の顔も思い出していた。
不意に寂しさが込み上げてくる。
どれだけ顔を見ていないだろう。どれだけ声を聞いていないだろう。
今の母を囲む笑顔は、父と妹。
幸せな3人の家庭に今更入り込む余地なんて。
正当化する理由はあったが、母は何も悪く無い。
私が母の要求から逃げただけ。
私が母を裏切った。
私が望んでそうしたこと。
授業が終わると、好は、1人でピアノを弾き続けた。
何かを埋めるためのその旋律は激しく、悲しい。
誓がその姿を見る。
好を停滞させてしまっているのは自分だ。
彼女は僕に合わせている。それは彼女にとって無駄な時間でしかない。
いつまでも、自分に付き合わせるわけにいかない。
誓は翌日、再び好にリードパートを弾かせる。
好がそうしていたように、誓は好に合わせて弾いた。
好の紡ぐその音に、心地よく響かせる音。
好に合わせるのは大変だった。
自分が劣っている事を認めるのは悔しくもあった。
しかしだからこそ、挑戦した。
その二人の演奏を聞いた勅使河原は好を呼び出す。
「私には何も教えてやれなくなった。」
勅使河原は続ける。
「実技の伴わない理論。口先だけの扇動者。」
好は勅使河原が何を言わんとしているのか理解できない。
「今のは私の愚痴だ。」
好がキョトンとしているのを見て笑った。
「君は次の段階に進まなければならない。」
「新しい世界に旅立つにはいい時期だと思う。」
つまり、留学って事ですか?
突然の話に好は戸惑っていた。
「何も問題は無いだろう。私には行かない理由を探す事こそ困難だ。」
「もっともご家族と相談してから決めても構わない。」
家族は問題ではない。既に私の家族ではない。私に家族はいない。
資金的な援助は学校側の制度を利用できるとまで言われた。
「何を躊躇しているのか知らないが、ここにいても、これ以上の進歩は望めないよ。」
「行きます。行きますよ。」
ただ楽しいだけのピアノで終わらせるのか。
そんな事が許されるはずは無い。
でも私に輝の意思を引き継げるのだろうか。
私の目指す場所は何処にあるのだろう。
好は輝のピアノを弾いている。
小さな、玩具のピアノ。
あなたはどうしたい?
それともピアノになんて触りたくもない?
学校には行くが授業も受けず、
好は1人でピアノを弾いていた。
誓が声を掛ける。
「留学するんだって?」
「え?ああまあ。」
誓には目指す場所が見えた。辿り着く目標が見えた。
多少の焦りはあっても、迷いは消えた。
その目標である好はまだ迷っていると言った。
自分がどんなピアノを弾きたいのか。
何のためにピアノ弾き続けるのか。
「言っている事がよくわからないな。」
誓が答える。
「何のためとか、誰のためとか、そんなのその時々で変わるだろ。」
「そのときのために練習するんじゃないのか?」
ピアノが好きだから弾き続ける。
楽しいから弾き続ける。
たったそれだけのことでいい。
好は隣に誓を座らせ、二人でピアノを弾いた。
「この素晴らしき世界」
好の隣に輝が座る。
誓の隣に希が座る。
紡ぐのは、君のピアノ。