05 清塚 誓 と 日方 好
清塚 誓
ピアノだけが誓の元に戻った。
誓は少女のピアノを返そうとするが、母親はそれを受け取らなかった。
このピアノは娘との思い出のはずだ。
母親は誓の疑問に
「あの子はあなたのピアノをとても気に入っていた。」
「できればあなたのピアノを譲っていただきたい。」
少女の死はニュースに流れた。
この少女が「小さなピアニスト」として紹介された。
視聴者に悲しみを煽る道具として使われた。
お前らに何がわかる。
誓には残されたピアノが重たかった。
今までどれだけ恵まれた環境にいたのか。
何者にもなっていない自分が腹立たしい。
自分の「何か」を変えようと思った。
でも何をどうすればいい?
「おばあちゃんならなんて言っただろう。」
誓は勅使河原に言いたいことがある。
頼みがある。お願いがある。
しかし勅使河原は姿を見せなくなってしまった。
日方 好
好には安い食事ではないので頻繁にホテルに通えなかった。
オーナーの厚意によって席は確保されていたが
ただ座ってピアノを聞いているだけでは申し訳なかった。
何より自分とは不釣り合いなこの空間に居心地が悪い。
週に1度が、月に2度、月に1度。今月はまだ行っていない。
勅使河原に連れて来られて、輝と知り合い半年が経っていた。
その日もいつものように大学に通い、今日もつまらない歴史を詰め込むのかとうんざりしていた。
朝から勅使河原が欠席だと連絡が入ると好はピアノに向かった。
しばらく何を弾くか迷い、「この素晴らしき世界」を弾いた。
夕方、輝のピアノを聞きに行こう。
そう思いながら指を躍らせていた。
ホテルの前に車が多く、玄関前には人が溢れていた。
その中には好も名前を知っている有名な作曲家や演奏家がいた。
そして誰もが黒いスーツを着ていた。
誰か有名な音楽家が亡くなったのだろうか。
追悼式がこのホテルで行われるのだろうか。
あまりの混雑に好は帰ろうと踵を返す。
誰かに呼ばれた気がするので振り返ると支配人の伊藤が走って追いかけてきた。
よくきてくれたね。待っていたんだよ。と言っていたのは判ったが
それ以外は聞き取れなかった。
中に勅使河原がいるから、詳しくは彼に聞いてくれとロビーに通されるが
ロビーは入口以上に騒然としていた。
「何も知らずに来たようだな。」と好の格好を見た勅使河原が言った。
「どこかの有名な人でも亡くなりましたか。」
勅使河原も黒いスーツだった。音楽家だろうか。
「輝の追悼式だよ。」
この男は何を言っている。
これから記者会見があるから少し騒がしくなる。
「部屋で待っていなさい。」
勅使河原は伊藤から預かった鍵を好に渡す。
ベッドと、着替えと、玩具の小さなピアノ。ラジオ。
ここが輝の部屋だったのだとすぐに判った。
もう一度部屋の中を見回すが、他に何も無かった。テレビどころか、雑誌の1冊すらもない。
ベッドの上に無造作に置かれたラジオ。
スイッチを入れるが流れるのはノイズ。ツマミはテープで固定されていた。
脱ぎ散らかされた靴下とシャツは、持ち主の帰りを待っていた。
好は無意識にシャツと靴下をたたみ、ベッドの上に置いた。
それから床に座り、玩具のピアノを弾いた。
「この素晴らしき世界」
小さな玩具のピアノでは足りない音がある。
こんなピアノじゃ何も弾けない。
好は笑った。
それから泣いた。
親が死んでも泣かないと思っていた。
好は自分が声を出して泣いている事に気付いてもう一度笑った。
やがて勅使河原が現れ夕食に誘われる。
この席が「宮前輝の追悼記念アルバム発売会見」だと知る。
その売上が交通事故遺児の基金に全額寄付されると聞き
「少しは輝も救われるかも。」
ボソリと呟いた好。
その言葉に勅使河原が伊藤に噛み付いた。
「確かにカモフラージュにはなるな。」
カモフラージュって何だ。
「私の案ではないと言っているだろ。」
伊藤も不機嫌に返した。
「便乗したのは事実だ。」
勅使河原は攻撃を止めようとしない。
「私にどうしろと言うのだ。教えてくれ。君ならどうした。」
勅使河原は首を横に振りながら答える。
「君と同じようにしたよ。」
「何?」
勅使河原は呆れながら言う。
「私が怒っているのはね、どうしてこの子(好を指して)に何も言わないのか。」
勅使河原はそう言って食事の途中だが席を立った。
好は言葉を失ったまま、次の状況を待つだけだった。
好はようやく輝を知る。
父親に捨てられ、他人に虐待され、捨てられた。
ホテルでピアノを弾いて、
現在に至る。
好は伊藤の独り言のような愚痴を聞いていた。
「何もかも、全てがこれからだった。」
「しかし。」
輝は、ピアノなんか弾きたく無かったのではないか。
他に知らないから弾いていただけなのではないか。
彼を自由だと思っていたのは他人だけなのではないか。
彼はピアノを楽しんでなどいなかったのではないか。
「輝が死んだのは交通事故なんかじゃない。」
「彼は、輝は、飛び降りたんだ。」
「もしかしたら、ピアノから自由になるために。」
後日、伊藤は輝の玩具のピアノと追悼CDアルバムを好に贈った。
「これはゴミだな。」
CDの封も切らずに放り投げた。
好はいつものように学校に行く。朝から勅使河原が休みだと聞く。
教室には誰もいない。他の講義に出たのか、家に帰ったのか。
ピアノに触れる気にもなれない。
座ると、輝を隣に感じるような気がして怖かった。
勅使河原も無理矢理弾かせようとしなかった。
「暇だな。」
教材用のDVDでも見るだけで単位もらえるかな。
リモコンを探す。見当たらずモニターの電源を入れる。
ニュースに映ったのは小見希。
移植で渡米の予定でどうのと聞こえた。
リモコンを探す好。
父親が撮ったホームビデオ。
楽しそうに小さな玩具のピアノを弾く少女の姿。
冷めた目で眺めていたがその音には興味を持った。
「小さいのに上手いな。」
そして少女は目覚めなかったと知る。
輝はどんな少年だったのだう。
何かを共有できる誰かがいたのだろうか。
彼は誰かを愛したり、誰かに愛されたことがあったのだろうか。
好はテレビを消し、ピアノを弾いた。