04 勅使河原 実
勅使河原 実 (てしがわら みのる)
それなりの楽団で、それなりの地位にいる。
本場の欧州で巡業。
演奏を終え、同僚と夜の街に繰り出す。
「お子さん大きくなったでしょ。」
「どうかな。しばらく会っていないから。」
雑談の中
「夜中出発ですから今日はこのあたりで」
とホテルへ戻るよう呼びかけられる。
勅使河原はホテルに戻ろうと店を出るのだが
次の店へと向かう数名の演奏者に紛れ運転手の姿を見たような気がした。
何度か覚醒と気絶を繰り返し、どうやら自分がベッドに寝ていると気付く。
左半身が動かない。
帰国後、神経が圧迫されていると言われリハビリを開始する。
「すぐに動かせる」
と勝手な思い込みは、時間と共に消えようとしていた。
絶望が深くなるのを感じた。希望はその言葉の意味を失った。
ただピアノが弾けない現実を受け入れたくなかった。
気晴らしに普段は飲まないアルコールを取ろうとする。
ボトルを右手に、左手にグラスを取ろうと手を伸ばす。
伸ばした筈の左腕が見当たらない。
左腕は彼の肩から力なくぶら下がっているだけだった。
ボトルを置いて、喉の奥から押し殺した笑いがこみ上げた。
そして膝から崩れ落ちて、泣いた。
涙を止めようとするわけでもなく、ただただ泣いた。
泣き終わって、すぐに立ち上がった。
先ず左腕をテーブルに乗せ、それからナイフを取った。
動かない左腕にナイフを突きたてようとする。
彼は電話の音に我に返りナイフを置いた。
ホテルのコンシェルジュをしていた伊藤は
勅使河原を知人の音大の学長に紹介する。
「講師として働かないか。」
今更音楽以外の仕事なんて出来ない。
教える方法はいくらでもあるはずだ。
教えるべきは技術だけではない。
自らににも理論と歴史を、音楽に関わる全ての知識を詰め込んだ。
どれだけコレクションしようと、果てる事のないその情報量に圧倒される。
それが知る喜びにかわり、
できるだけ多くの子供達にその知識を与えたいと願うようになっていた。
数年後、杖の世話にならなくなった頃、
リハビリに通う病院で教え子の一人と再会する。
「今は結婚して小見といいます。お久しぶりです先生。」
勅使河原は彼女を覚えていなかった。
「娘のピアノを聴いてくださいませんか?」
この病院の屋上にいると言った。
彼は診察中、その事を看護師に訪ねると
「この病院では有名な子ですよ。」
屋上では小さな子供が玩具のピアノを弾いていた。
無意識に近付くとその子が手を止めたので
その続きを右手で弾いた。
「私にピアノを教えてください。」
少女の情熱に
「病気を治しなさい。もっと楽しいピアノを教えてあげ゛よう。」
「それまではこの小さな君のピアノを頑張りなさい。」
伊藤にその話をすると
「今から来ないか?」
と誘われた。
そして輝に出会う。
この青年もその全ての情熱をピアノに捧げていた。
ただ
「君のピアノは痛いな。」
宮前輝
輝は上機嫌だった。
ホテル支配人の伊藤がそれを勅使河原に伝える。
「あの時の彼女が気に入ったようだ。また来るように言ってくれ。」
勅使河原が好にそれを告げるが彼女の返事は要領を得なかった。
「あそこジュース一杯で1000円近く持っていくから。」
「人もすげぇ多いし。」
好自身、輝のピアノは気になっていたのでその翌日には行った。
一緒に弾く事は無かったが輝はその姿を確認する。
だがその後、好の足は遠のく。
「はじめて会った時の、あの痛々しいピアノが聞きたい」
今の輝は春のお花畑だ。私の弾きたいピアノではない。
輝は待つ。
だが好は現れない。
何日も待った。
何日も、何日も。
輝は知っていた。
待ち人は、いつだって現れない。
父親の後ろ姿と、暗く冷たい部屋。
好の笑顔。
「僕はここにいる」
「僕はここにいる」
「僕はここにいる」
激しいピアノに聴者からは拍手が起こる。
部屋に戻って、毛布を被って泣いた。
今まで出したことの無い声で泣いた。
部屋を出ると、屋上に登り、星空を眺めた。
小見希
病室から出られない日々が続いた。
二台並んだ玩具のピアノ。
腕には点滴が繋げられている。
見舞いに現れた誓に「弾いてほしい」と頼む。
誓は希の母親から聞いていた。
「体力的にも最後のチャンス。」
悟られないよう、精一杯の作り笑いを浮かべ弾いた。
希は照れながら母に頼んだ。
「誓のピアノを傍に置いておきたいって頼んでよ。」
聞こえている誓が答える。
「いいよ。戻ってきたらまた交換しよう。」
どうしてこんな事を頼んだのか希自身にも判らなかった。
帰ったらどんな曲を弾こうか。
楽しい曲がいいなぁ。
大きなピアノに二人で並んで座って
ママとパパとピアノの先生がいて
皆が笑顔で、楽しいピアノを、皆に
希は静に目を閉じる。