01 日方 好
日方 好
国内ではそれなりに有名な楽団に所属していた父と母。
結婚前に身篭った母に、父は
「親になるには若すぎる。」
と、恋人に堕胎を望んだ。
母は楽団を辞め、マンションを引き払い実家へ帰省し
好を産む。
「お父さんはまだ父親になるには早すぎた。」
「でも私は宝物を手放すつもりはなかったの。」
母親との絆によって、父親の不在に疑問を感じたことはない。
好にとって「父親」は実体の無い存在。
無機質な記号。
母は好を祖父母に預け、朝早く仕事に出掛ける。
夕方戻ると、好を連れて楽器店の二階へ行く。
小学生を対象にした音楽教室の講師。
好はピアノを弾く母が好きだった。
鍵盤の上を滑る母の手は白く美しく、優しく柔らかな音を紡いでいた。
ピアノに合わせて歌う子供達を楽しそうに見つめる母が誇らしかった。
好は母に歌を教わりたいと思うより前に、母のようになりたいと言った。
母は幼い好に「玩具のピアノ」を買い与える。
好は玩具のピアノを弾きまくる。
ある日、好は母親に
「音が足りない。」
と言い出す。
母は大きなピアノに好を座らせる。
「いつ覚えたの?」
「ママの見てたの。」
母は好にピアノを教える。
地元の小さなコンクールに出て賞を取ると
母は好を抱き寄せた。。
好が9歳のとき、母は父と再会し、好は始めて父親を見た。
結局父も、母との関係を知られ逃げるように楽団を辞め、
他所の土地で勤めながら素人の楽団に入っていた。
祖父母が亡くなって間もなく、父は母と暮らすようになった。
若かった男も、父親になる資格を持つ大人になっていた。
少なくとも母はそう思っていた。
好は違う。
自分の存在全てを否定していた男。私を殺そうとした男。
もう一度私を殺そうとしない保証があるのか。
しばらくすると母は音楽教室の講師を辞め、父と同じ素人楽団に入る。
ピアノを弾く母の姿は見られなくなったが、それでも必死に練習を続けた。
将来は素晴らしいピアニストになるだろうと、多くの人が賞賛し、母もそれを疑わなかった。
執拗な反復練習と厳しい要求が増えた。
母親から笑顔が消えていた。
そして妹の「愛」が産まれる。
愛にはバイオリンが与えられた。
好は中学、高校と多くのコンクールに出場し賞を取る。
それでも母の笑顔は見られなかった。
バイオリンの発表会。
愛の演奏は聞くに堪えない。
両親の喝采。笑顔での称賛。
好はその夜、玩具のピアノを叩き壊した。
母親が好に笑顔を見せなくなったように、
好も母親の前で笑わなくなった。
他人行儀な父親
何も知らない無邪気な妹
その全てが好を不機嫌にさせ、
呆れたような溜息だけが、家族との会話になった。
好は大学への入学と同時に家を出て一人暮らしを始めた。
奨学金とアルバイトで親に頼らず何とか生活はしていた。
苦しくはあったが解放された喜びがそれに勝っていた。
理論専攻の講師、勅使河原と出会う。
やや痩せ気味の何処にでもいる中年男性。
彼はいつも左手をポケットに入れている
頭でっかちの理論派を気取り、
実技の成績だけは良かった好のピアノを評した最初の講義から
彼女はこの男が嫌いになった。
「退屈だ。」
「なんだと?」
作曲者の性格だの、歴史だの背景だのごちゃごちゃ言わず
「じゃあお前が弾いてみろ。」
作曲者の人格とその形成に関わった全ての事象。
確かに好には空っぽの引き出しだった。
好の拠り所は手先の技術。
譜面を見て、鍵盤に触れる。この繰り返し。
”死人にピアノが弾けるか”
好は最初の論文のタイトルで、講師に挑戦した。
対する勅使河原の返答は
「理論、歴史、背景、それらを全て技術として組み入れろ。」
「感情は喜怒哀楽だけじゃない。」
先ずは有名な作曲家からと、バッハやベートーベン、ハイドン、ショパン・・・
(モーツァルトはイメージが強すぎて好きになれなかったようだ)
過去を知っても、知識を覚えても技術的な上達は感じられなかった。
歴史を学んでも感情表現が豊かになるとは思えない。
納得できないままただ歴史を詰め込む日々が続いた。
あるとき、勅使河原からSDカードを渡される。
ジャズの詰め合わせ。誰の演奏か判らない。
どこかで聞いた事のある歌、
スタンダードなジャズやビートルズのアレンジ、
有名なクラシックのジャズアレンジ。
聞きなれている筈なのに聞き慣れていない旋律。
幼い頃見て聞いた母の演奏とシンクロする。
曲に対する音の流れ、捉え方の違和感はすぐに解消された。
母は、子供達を「解す」作業として
当時の流行りのアニメの主題歌を弾いて聞かせ歌わせていた。
譜面もなく、ただ子供達が歌いやすいようにと手を加え弾いたピアノ。
知識や理論を詰め込むように勧めた勅使河原が
何故今ジャズを聞かせたのか判らなかった。
判らないまま、つい真似して弾いてみる。
ぎこちない指遣いも、そのぎこちなさが楽しかった。
同じピアノがとても新鮮に感じられた。
勅使河原は好と他数人の生徒を
この街の古いホテルへと連れ行く。
「素晴らしいピアニストがいる。きっと君達の糧になる。」
ラウンジのピアノの前にボサボサの頭と大きな眼鏡の青年が座る。
ボタンを留めていないヨレヨレのシャツ。その下には白いTシャツ。紺のジーンズ。
他の学生達と異なり、好はその格好に興味を示さなかった。
ただ音だけが響いた。
「何だこりゃ。」
「苦痛?」
「恐怖?」
玩具のピアノを叩き壊したあの夜が蘇る。
ピアノの音と共に、その青年の声が聞こえる。
「僕はここにいる。」
「誰か、見付けて。」
「誰か、助けて。」
一心不乱にピアノに立ち向かう姿にただ圧倒された。
勅使河原が好に声をかける。
「隣に座って弾いてみろ。」
「なんだと?」