第三章
休みの日からようやく五日が過ぎた。たった一日休んだだけで、身体は怠けを覚え、勘を取り戻すのにひたすら苦労する日々が続く。それはクウトだけが感じている事ではなく、他の“リディアの戦士”たちも同じように見えた。
貧弱なクウトだけならまだしも何故、他の皆までもバテているのか、気にはなったが聞ける立場ではない為、今日も休憩中、遠目で皆の様子を見ていた。
胡坐を掻いて座っていたり、木に凭れかかって呼吸を整えている者、地面に大の字で倒れている者。胸を押さえて横たわる者がいる。
訓練内容はいつもと変わらないのに、何故……。
クウトはハッと気付き息を呑んだ。
「これって……」
「日照りのせいだな」
雲ひとつ無い快晴の空と練習場から離れて座っているクウトの上から降ってきた声は、聞き覚えのありすぎたものなので、クウトは振り向かずに話しに乗った。
「どんどん、深刻になってるよね」
「あぁ……」
「この前も、病気になってしまった人がいるし、何より“リディアの戦士”の人にも影響が出るのはマズいよね?」
クウトの問いに、クルドは沈黙で答えた。
“リディアの戦士”になった者たちには、他の者たちがあまり口にする事のできない小さくて栄養価の高い果物が支給される事になっている。
“リディアの戦士”は村の一大事を背負う大切な職業であり、象徴とも呼べる集団。そんな“リディアの戦士”たちが体調不良で倒れる事があれば、村にとって不名誉この上ないことなので、最悪、“リディアの戦士”を解雇されることになるだろう。
クウトにも栄養価の高い果物の支給はされているが、いつもサラと半分個をしているため、栄養価がどうなっているのかは分からなかった。本当は全部、サラに食べさせてあげたかったが、それを言うとサラはかなり怒るので、今では半分に切って一緒に食べるのが日課となっている。
クウトは口元から漏れた笑みを、頬を軽く叩いて消し、また真剣な眼差しを皆に向けた。
「水も後数週間分もないし、村長はどうするつもりなんだろう」
クウトの頭で考えられる事は二つ。島を捨てるか、皆で干からびるか。
前者は何百年もこの地を守ってきてくれた先祖に面目が立たないというのもあるが、クウトは何よりも肉親の骨が埋まっているこの地を離れたくなかった。サラが生まれてしばらくして亡くなってしまったせいで顔もろくに覚えていないが、温かい手の感触はまだクウトの心に残っている。
大切な家族を捨ててまで、この地を去ることはしたくない。しかし、それでは今、生きているサラを見捨てるという事になる。それは死んでも嫌だ。
辛い時も、楽しい時も、ずっと側にいて、笑って、泣いて、怒って、クウトの小さな世界に色を付けてくれたのは、他でもないサラの存在だ。
クウトは無意識に握った拳を胸に押し当てて、振り返りクルドを見上げる。鋭い双眸がクウトを見て離さない。が、クウトも負けじと睨み上げる。
「僕は、妹が幸せになる為なら、どんな事でもしてみせる!」
「…………」
クウトは自分の意思を言葉に変えて、より強固な剣として胸の奥で掲げて見せた。
対するクルドはまるで真冬の山に現れる氷のような瞳をしている。草木の青々しさを奪い、人も、動物も、植物すら呑み込み白くする絶対的存在。黒が世界を塗り潰す事は、自然界ではありえないが、白に塗りつぶす事はできる。
クウトの掲げた剣も、彼の前では白に変えられ、空を掴む感覚に戻されてしまう。胸の奥底を長い棒で掻き回されてるかのように、精神が逆上を始めた。
長い沈黙を経て、クルドは小さく呟いた。
「……強くなければ、価値はない」
冷水を頭から掛けられても、ここまで身を凍らせる事はないだろう。クウトは得体の知れない何かが自分の四肢に絡みつくのを感じた。
心臓に、頭に、クルドの言葉が刻まれ思考に亀裂を入れられる。
太陽の光りは燦々と大地に降り注ぎ、容赦なく日中の温度を上げ続けた。変わらない現状。突きつけられる言葉の意味が分からないほど、クウトの知能は衰えられていない。
価値がない。即ち、今のクウトは完全に“リディアの戦士”たちの足手纏いだと言われたのだ。今まで、自分で思ってはいたが、こうまではっきりと言われるとは思っていなかった。
思考がぼんやりと影を作る。
今まで、自分がやってきた事は、子供の遊び事に毛を生やした程度だったのだろうか。それとも、無意味な球の取り合い。
クウトは額に手を添えて、滲み出る汗を指先で払い、ようやく暑いと感じられる事ができた。思考がはっきりとしないのは暑さのせい。
そう自分に言い聞かせるように、クルドの横を通り過ぎた。
「お前はお前のできる事をすればいい」
振り返りクルドを見上げるが、クルドは微動だにせず正面を向いたままだった。
「今の……」
手を伸ばし、問い返そうとした時、後方の茂みが大きく揺れ、数枚の木の葉を飛ばして現れた。
「お兄ちゃん!」
反応が遅れた。どうしてサラがここに居る。
休んでいた“リディアの戦士”たちも億劫そうに身体を起こし、突然の来訪者に視線を集中させた。
サラは確か居住区を軸にして、ここの反対にある職人たちの工房で糸を紡ぐ手伝いをしていたはずだ。そこから一気に走ってきたのだろう。
額から、手足から、汗は淀みなく流れ、妹の体力を消耗させている。まともに呼吸ができないのか、落ち着くまでは肩で息をし、兄の両腕にしがみ付く様に頭をクウトの腹部に押し付けて項垂れた。
「……ザ、ザギが………」
サラの知らせは、その場にいる全員に伝わり、現場へ向かった。
『ザギの働いている所の人たちが、ほとんど倒れて外に運び出された』
世界から色が失ったみたいに周りが白黒に写る。“リディアの戦士”の鍛錬場から、どうやってこの場に来たのかは覚えていない。ただ、ただ目の前に広がる光景に息を呑み、温か味のないサラの手を加減も知らずに握っていた。
人々の声だけがクウトの耳を右から左へと流れ、情報だけが頭に収納されていく。
曰く、ロクに水分も取らせてくれない中で行われた工房作業は、労働者たちの体内の水分を奪い続け、人の限界を超えてしまったという管理不届きが原因だという。
今までに数人、倒れる事はあったが、何十人もの人々が倒れたとなっては、村長も黙ってはいまい。早急な手立てが必要になり、すると、“リディアの戦士”たちの出番と言う訳だ。クウトにとっては初陣となる大事な戦い。
周りが色々と囃し立てている中、クウトは倒れている人々の中から、ザギを見つける事ができた。傍らで、ザギの母親や、兄が何かを言っている。周りの声はやけにはっきりと聞こえるのに、そこだけ音がないみたいに聞こえない。
クウトは耐え切れず、その場から背を向けた。サラの手が自分から離れたと気付いても、引き返す事はできなかった。
あんな姿の友人を見るのは初めてだ。いつも馬鹿みたいに笑っていたザギが、今は死人のような表情で眠っているなんて信じたくなかった。
数日前まで、子供の頃のように話していたのが嘘のようだ。
フワフワとした地面を歩き続け、視界に巨大な壁が現れ立ち止まる。見上げると、クルドだった。
「集合だ。村長の家に行くぞ」
短く重い言葉がクウトの両肩に圧し掛かる。“リディアの戦士”になった時点で分かりきっていた事だ。この先、何があってもクウトの意思は変わらないはずだった。それが揺れ動いている。
サラだけを守れればそれで良かったと思っていた。それが友人がいなくなるかもしれない恐怖でクウトの中は不安で満ち溢れていた。
滾々と湧き出る負の泉が、クウトの中で生まれて、また別の何かが泉の上に立っていた。
(誰?)
前にも会った気がする。顔は見えず、ただ黒い靄でできた人の形にも見え、それは手を伸ばしてきた。
クウトは自分の手と交互に見合わせて握り返そうと、腕を伸ばした。
「おい」
低い声がクウトの幻影を打ち砕く。顔を上げると、クルドの険しい形相がこちらを睨み下げている。
「行くぞ」
「は、はい!」
クウトは早足で彼に駆け寄った。最近は見ていなかった白昼夢が、再びクウトの目の前に現れた。実体を持たないその存在はクウトの胸の奥底、背中から湧き出る熱い何かのように思えてならない。
空想が現実になる時、目の前には理想郷が現れるのか、それとも地獄の開門への道が拓かれる時か。
クウトは生唾を呑み込み、自分の考えを頭の奥へと押しやった。




