契約
「じゃあ、この契約書にサインして」
目の前に突き出された紙。当然すべて英語だった。
留学先のアメリカで、ルームメイトのクリスに誘われて来たバイトの面接先の事務所で
江里子はちょっとだけ途方に暮れていた。
「脱いだりなんて絶対しないよ。髪をカットしているところをビデオに撮るだけ」
クリスはそう説明してくれたし、彼女はこれで三回目だと言う。
(クリスと二人だから、大丈夫だよね)
そう思うと、江里子はとりあえずざっと英文に目を通したものの
半分も理解出来ないまま、一番下にサインをした。
隣では、クリスが同じように契約書にサインをしていた。
「じゃあ、これギャラね。クリスの方が少し少ないよ」
契約書のサインを確認した男が、封筒を二人に渡した。
(え?何でクリスの方が少ないの?)
不思議に思ったけど、クリスは了解、と言うような顔をしているし…
江里子は、その封筒を受け取り、バッグにしまった。
「じゃ、スタジオの方に移動して。早速始めよう」
事務所の隣がすぐにスタジオになっていた。
スタジオと言っても、壁の前に、カーテンが張ってあって
その少し離れた横に、イス。その前にカメラやライトの撮影機材があるだけだった。
「じゃあ、そのカーテンの前に立って。二人一緒に。適当にじゃれてていいよ」
事務所から付いてきた男が笑いながら指示を出す。
カメラマンは二人、照明係が一人。
江里子の手を取って、クリスがそのカーテンの前に歩き出した。
「大丈夫、緊張する事ないって!ハイ、エリー、笑って笑って」
クリスがそう言ってわざと面白い顔をする。
江里子はその顔を見て、可笑しくなった、顔が自然と笑う。
「いいねえ~二人とも、こっち向いて。顔寄せてみてよ。うん、いいねえ~」
カメラマンの男が、明るく言う。
ビデオカメラと、普通のカメラとで撮られている。ライトが眩しい。
「じゃあ、次はお互いの髪を触ってみようか。クシャクシャってしたり…」
そう言われて、クリスが江里子の長い髪に手を伸ばす。真っ黒なストレートの髪
こっちに来てからカットしていないので、かなり伸びていた。
江里子もクリスのブロンドのショートヘアを触る。
クシャクシャとまるでシャンプーするかのように、クリスの髪をかき上げる。
「いいねえ~二人ともすごく良いよ~はい、じゃあ本番行こうか」
一旦カメラを止めて、二人はカーテンの前から離れた。
誰かが呼びに行ったのか、ドアが開き、また別の男が出てきた。
ちょっと太った中年の男だった。
「ハイ、クリス!」クリスの顔を見て声を掛けた。
「じゃあ、君から行こうか」
そう言われて、クリスはライトの当たっているイスの方に歩いて行った。
「じゃ、お先に♪」途中振り返って、江里子にウインクをした。
クリスはそのイスに、江里子は反対側の壁の前にあったイスに座った。
カメラの前のイスに座ったクリスの首に、カットクロスが巻き付けられた。
(そうよね、カットモデルなんだから、当たり前か…)
江里子はそう思ったものの、どんな風にカットされるか
打ち合わせも何もしてない事に、今更ながら気が付いた。
事務所についてすぐに、OKと言われ、契約書にサインして、
すぐにここに連れて来られた。聞く暇もなかった。
(これからそう言う話があるのかな?)
そう思って、クリスの方に目をやった江里子は信じられない光景を見た。
男が手に持っているのは、バリカンだった。
壁のコンセントにコードが繋がっている、かなり大きいバリカン…
(えっ、ちょっと待って…)
江里子が声にならない声でそう言っているのとは反対に、
クリスは男からの問いかけに「YES」と頷いていた。
バリカンが音を立てて動き出し、男の左手がクリスの前髪にそっと触れた。
そして、その額の生際に、バリカンが向かって行く。
(うそっ…)
江里子は目を見開いた。クリスの額の真ん中の髪に
そのバリカンが潜り込んでいくのを、しっかりと見てしまった。
あっという間に後ろの方まで髪を刈ってしまうと
また前に戻された。すぐその横にバリカンを入れる。
刈られた後は、1ミリにも満たない髪があるだけ。
いや、髪ではなく、見えているのは、ほとんど地肌だった。
「わおぉーーー♪」クリスは笑いながら、はしゃいだような声を出している。
(な、なんでそんなに楽しそうなの?自分が何されているかわかってるの?)
江里子は心の中で、クリスにそう言っていたけど
クリス自身は、自分の髪が刈られる事を、実際楽しんでいた。
トップの髪はもうすっかり刈られて、今度は横だった。
イスを回転させて、横の髪を刈る所がカメラに映るようにしている。
ショートヘアとは言え、落ちている髪は多かった。
江里子は、まだ何が起こっているのか理解出来ないまま
何度も唾を飲み込もうとした。でも喉がカラカラで上手く飲み込めない。
「どう?」
さっき事務所で契約書を出した男が、いつの間にか江里子の横に立っていた。
「どうって…」
江里子がなんと答えて良いか考えている間に、更に男は言った。
「次は君の番だよ」
男が江里子の長い髪に触れる。反射的にその手を避けて身体を動かした。
「NO…NO…」
首を横に振る
「今更NOは通用しないよ、君は契約書にサインしたんだからね」
男がなだめるように、でもビシッと言った。
「だって、知らなかったから…まさか、そんな…」
「それこそNOだよ、知らなくても何でも契約は契約なんだよ」
それに…男が続けて言う。
「今、君が止めたら、二人のギャラは勿論全額返してもらうし、違約金も発生するよ。
機材を使って、ビデオも撮ってしまっているんだからね
ほら、それより、見てごらん、後ろを刈って、仕上げにキレイに剃られてしまうよ」
男があごでクリスの方を指す
イスを後ろに向けて、クリスは残った後ろの髪を刈られていた。
バリカンが襟足から入り、キレイに後ろの髪を刈り落としていく。
上まで刈ってしまうと、また下に戻り、また上がっていく…
クリスはうつむいて何やらくすぐったいような、
恥ずかしそうな顔をしているようだった。
「クリスはね、もう3回目かな。もっと伸ばしてから来れば良いのに
我慢出来ずに、ショートヘアになる頃には来ちゃうんだ。だからギャラも少し安いんだよ」
男はそう言って笑った。
(我慢出来ずに…って)
江里子の顔を見て男が続けた。
「クリスはスキンヘッドが好きなんだよ。君の前にいたルームメイトも…
確かオーストリアから来た子だったかなあ~きれいな子で君のようにロングヘアだった。
その子とも、一緒に来て、やっていったよ」
クリスはバリカンですべて刈られた頭に、シェービングクリームを塗られて
シェーバーで剃られていた。
形の良い頭がすっかり剥き出しになり、ゆで卵のように見えた。
顔は上気しているようで、頬がほんのり赤かった。
「さて、終わったようだね、次は君の番だよ」
男がそう言って、江里子の腕を掴んだ。
逃げ出したい…髪を、あんなに切られるなんて…丸坊主にされて、剃られるなんて…
そう思っていたけど、逃げる事も出来ない。
クリスがまたカーテンの前に立ち、カメラの前で自分のつるつるになった頭を触りながら
笑ったり、何か呟いたりしている。
(ダメ、私には、出来ない…)
けれど、江里子は男に腕を掴まれたまま、ライトの当たるイスの方へと
半ば引っ張るように連れて行かれるしかなかった。
暴れるとか、騒ぐとか、したくても出来ない…契約をしたの事実なのだから。
「君が終わったら、二人でスキンヘッドになった姿も、ビデオに撮るからね」
男にそう言われた。刈り役の男が江里子に手招きをしている。
江里子はもう、そのイスに座るしかなかった。
そしてカットクロスが付けられる。
男の手が伸びてきた。
クリスの時は、いきなり刈り始めたのに、江里子はロングヘアだからだろうか
櫛で梳かしたり、ポニーテイルのように、手でまとめてみたりしている。
クリスが、さっき江里子が座っていたイスの方で、事務所にいた男と話をしているのが見えた。
しきりに自分の頭を触っている。嬉しそうに見えた。
刈り役の男が、江里子に何か話しかけていたけど、江里子は頭の中が真っ白だった。
これから、自分の髪が切られる…すべて、切り落として、そして剃られる…
考えたくなかった。このままカットクロスを取って、逃げ出したかった。
「…OK?」
バリカンを持った男が江里子の肩に手を置く。答えたくない…
YESと言ってしまえば、カットが始まってしまう。
泣き出したい、泣いて許して貰えるなら、いくらだって泣きたかった。
シーンと静まり返るスタジオ。クリスもこちらを見ていた。
男がもう一度聞く。いやだ、答えたくない…
けれど、そう言う訳にもいかなかった。仕方なくコクンと頷いた。それがスタートの合図。
バリカンが動き出した。男の手が、江里子の前髪に触れる。
「いや、来ないで…」つい日本語が口に出る。
でも、そんな事にはお構いなしに、バリカンが額に向かって近づいて来た。
「長いから、刈るのが楽しみだ」
男の口から、そんな言葉が漏れた。
そして…
ジジジ…長い髪を根元から刈り落としながら、バリカンは江里子の頭の上を移動していった。
クリスが嬉しそうに、江里子の断髪を見つめていた。