第107話「安らぎの一夜なのじゃ!」
クルト帝国 シュレー男爵邸付近の森 ──
屋根裏を素早く走りぬけシュレー男爵邸を脱出したラッツは、出血のため意識を失ったマリーを抱えたまま、屋敷の裏手にある森を走っていた。マリーが特別に重いということはないが、さすがに人を一人抱えて走り続けているラッツはかなり息が乱れていた。
「はぁはぁ……うわっ」
疲れてきていたラッツは木の根に躓いて倒れてしまった。後ろを振り向くとかなり遠いところに、松明の灯りがいくつか見えている。手探りでマリーを引き寄せると彼女を抱きしめて、背中から鼓動を確認する。心臓は弱々しく動いているが、頬に触れると肌には生気があまり感じられなかった。
「このままじゃまずい……えっと、確か鞄の中に」
ゴソゴソと腰の鞄の中を漁って、小瓶を二本引っ張り出すとマリーの口に流し込む。
「……カハッ」
覚醒したマリーが咳き込みながら口を押さえる。ラッツがマリーに飲ませたのは、魔法が使えない者でも飲ませることで、治癒の魔法と同じ効果が発動できる魔法薬だ。
「マリーさん! よかった……もう一本飲めますか?」
ラッツは安心した表情で同じ魔法薬をマリーに差し出す。マリーは黙って、それを受け取ると蓋を開けて一気に飲み干した。そして辺りを探るように見回しながら尋ねる。
「……ここは?」
「屋敷の北側にある森の中です。南の方向から追っ手が迫っています」
マリーはまだ遠くで揺らめく松明の灯りを確認すると、立ち上がろうとしたが脚に力が入らず、バランスを崩してラッツに倒れ掛かってしまう。治癒の効果で多少回復してはいても、抜けてしまった血はすぐには戻ってこないのだ。
「ダメね……脚に力が入らないわ。やっぱり私は置いて……きゃっ!」
マリーが諦めの言葉を言い終わる前に、ラッツは再びマリーを担ぎ上げて右肩に乗せる。
「出来るわけないでしょ!」
そして、そのまま北に向かって歩き始めた。
しばらく歩き続けたあと、街道に出たところで再び膝をついてしまうラッツ。マリーは再び意識を失っていた。
後ろを振り向くと、追っ手の灯りがだいぶ近付いて来ているのが見えていた。腰の鞄から先ほどの魔法薬を一本取り出して一気に飲み干す。この魔法薬で回復しながら、休憩を挟まず歩き続けていたのだ。
「今のが最後の一本か……」
ラッツもこのままでは追いつかれて二人ともやられてしまうと、頭ではわかっていたがどうしてもマリーを手放すつもりはなかった。そんなラッツの耳に、前方から馬が駆ける音が聞こえてきた。
「馬の音? 廻りこまれたか!?」
ラッツは咄嗟に腰のフックダガーに手を伸ばす。たとえ騎士の鎧と言えど、フックダガーの近距離からの射出であれば倒せるはずと考えてのことだった。
しかし、ラッツの前に現れたのは騎士ではなく……
「お……おっちゃん!?」
数日前に報告書を託して別れた中年の密偵だった。馬上の彼はニカッと笑う。
「よかった。まだ生きてたか、坊主!」
「ど……どうして、ここに?」
あまりに突然の登場に、ラッツが唖然として尋ねる。
「隣町まで行って、手紙を他の密偵に渡してから、坊主が心配で戻ってきたんだよ! あの秘密基地に行ったら、逃走経路を描いた地図が残ってるじゃねぇか、無用心すぎだぜ? ほれ、いいからこいつに乗りなっ!」
中年の密偵は、もう一頭連れてきていた馬の手綱をラッツに放り投げる。それを受け取ったラッツは、マリーを乗せてから自分も鐙に脚をかけて馬に飛び乗った。
馬上から松明の方を見ると、かなり速度を上げて迫ってきていた。
「見つかったか!?」
「坊主、行きなっ! 俺がちょっと時間を稼いでやるぜ」
「そんな、無茶だよ! ……おわっ!?」
ラッツたちが乗った馬が急に走り出した。中年の密偵がラッツたちが乗った馬の尻を叩いたのだ。急に走り出した馬に落とされないように、バランスを取りながら振りかえるラッツ。
「な……なんで!?」
「いいから行け! 言ったろ、お前は俺の命の恩人だってなっ!」
これが離れていく馬上で交わした最後の言葉だった。
◇◇◆◇◇
クルト帝国 レティ領 山小屋 ──
森での追っ手を振りきったラッツたちだったが、血塗れのマリーを連れて街や村には入るわけにはいかなかったため、しばらく使ってないと思われる山小屋に身を隠すことにした。
翌朝、山小屋で目を覚ましたラッツは周りを見回すが、そこにはマリーの姿がなかった。ラッツが慌てた様子で飛び起きて山小屋の扉を開けると、頭から水に濡れたマリーがフラフラとした足取りで、山小屋に向かって歩いてきていた。
「マリーさん!」
「あっ、ラッツさん……おはようございます」
弱々しく微笑むマリーの笑顔に、ラッツは駆け寄って抱き締めた。
「ちょっ!? ラッツさん?」
「もう歩けるようになったんですね?」
「えぇ、なんとか……それより、この格好で抱き締められると、さすがに恥ずかしいのですが……」
マリーの言葉に、ラッツは慌てて離れて彼女の姿を確認する。マリーは薄手の服を着ており、水に濡れているせいか色々と透けて、かなり扇情的な格好をしていた。それに染料を落としたのか、髪の色が本来の青色に戻っていた。
「あわわ……すみません!」
慌てて顔を赤くしながら視線を逸らすラッツに、マリーはクスッと笑って尋ねる。
「すぐそこに川が流れていましたよ。ラッツさんも汚れを流してきたらどうですか?」
ラッツはぎこちなくカクカクと頷くと、そのまま川がある方へ走っていった。
その後、戻って来たラッツとマリーの話し合いの結果、マリーの体力が回復するまで、この山小屋で身を隠すことになったのである。
◇◇◆◇◇
クルト帝国 レティ領 山小屋 ──
数日後、マリーの体力はだいぶ回復してきていた。傷、特に背中に負った傷が少し痛むが、歩くのには支障がない程度になってきている。
そろそろ出発することを考えたラッツは周辺や追っ手の状況を確認するために、下山して近くの村に向かっている。マリーは、そんなラッツの帰りを待ちながら食事を用意していた。
脱出用カバンに入っていた物や周辺で取れた食材を黒狼で切り、山小屋にあった鍋に放り込みグツグツと煮ている。マリーはじーっと湯気を眺めながら
「ふふ……なんだか夫婦みたいで変な感じね」
と呟いた。
この八年間……復讐鬼として生き、そして復讐を果たし、そのまま死のうと思っていたところを助け出され、生きるために食事を用意している。そのことがあまりに滑稽で思わず笑ってしまうのだった。
しばらくしてラッツが暗い顔をして帰ってきた。その表情に驚いたマリーが尋ねる。
「どうしたのです? 顔の色がすぐれませんが?」
「実は……」
ラッツはマリーの前に座ると、村で仕入れてきた情報を語り始めた。
驚くべきことに男爵暗殺の件は『身元不明の暗殺者が、騎士によって討たれた』ということで決着がついており、追っ手はすでにないらしい。
それ自体は朗報であったが、騎士によって討たれたという暗殺者は中年の男性だと言う。ラッツはこれを時間を稼ぐために残ってくれた、中年の密偵ではないかと考えているのだ。
あそこで一緒に逃げていればという思いもあり、後悔の念に押しつぶされそうになっているラッツの頭を、マリーは優しく包み込むように抱きしめると
「まだ、そうだと決まったわけではありませんよ……」
と言って、子供をあやすように頭を優しく撫でる。ラッツは特に抵抗することなく身を任せていた。その夜、沈んでいたラッツが愛しの女性に、安らぎを求めてしまったのは仕方のないことかもしれない。
◇◇◆◇◇
翌朝、クルト帝国 レティ領 山小屋 ──
マリーは目を覚ますと隣で寝ているラッツが目覚めないように、起き上がると脱出用バックに入っていた旅人用の服に着替える。全体的に渋い色味のシャツとズボン、それに茶色いフード付きのマントとブーツ、彼女の美貌とは合ってないがどこから見ても旅人の服装だ。
そして結局昨日は食べなかった鍋に再び火をかけると、湯気を眺めていた。しばらくするといい匂いが漂い始め、それに釣られてラッツがモゾモゾと目を覚まし始めた。
「……いい匂いだ。おはようございます、マリーさん」
その声にマリーは微笑みながら振り返るが、すぐに微妙な表情に変わる。
「おはようございます、ラッツさん。……服は着てくださいね」
「えっ!? あぁ、す……すみませんっ!」
久しぶりに見たマリーの冷めた視線に、ラッツは慌てて体を隠す。その様子にマリーはクスッと笑い。それに釣られてラッツも照れたように微笑むのだった。
そして食事を取ったラッツとマリーは外に繋いであった馬に跨り、一路リスタ王国へ向かい出発するのだった。
◆◆◆◆◆
『男爵暗殺事件の終幕』
男爵が手つきにしようとしたメイドによって殺害されたことは、すぐに男爵夫人に伝えられた。
「あの人に相応しい死に方ね……」
そして騎士たちによって暗殺者を取り逃がしてしまった報告を受けた男爵夫人は、笑みを浮かべながら
「帝国の男爵が、情事の上にメイドに殺されるなど醜聞もよいところです。夫を殺したのは男の暗殺者、そして暗殺者は騎士によって討たれたことになさい」
と告げたのだった。騎士も主を暗殺されて、おめおめと犯人を逃がしたとあっては、周囲から無能者呼ばわりされるのは間違いなく、それは耐えがたい状況だと言えた。
こうして男爵家と騎士の両者の面目を保つために、公式発表では『身元不明の暗殺者が、騎士によって討たれた』となったのである。