第106話「初めての盗みなのじゃ!」
クルト帝国 レティ領 シュレー男爵邸 食堂 ──
シュレー男爵邸の食堂ではシュレー男爵とその妻、そして娘二人が席に着いており、給仕として執事とメイドが何人か働いていた。
部屋自体はリスタ王城よりも豪華な食堂で、絵画や彫像などの装飾品に囲まれており煌びやかな様子だった。しかし、それらは会話もなく黙々と食事する家族の姿を、逆に冷めた印象として浮かび上がらせるものになっていた。
そんな中、男爵夫人がようやく口を開く。
「貴方、昨晩賊が屋敷に侵入したそうですね?」
「そのような些事、お前が気にすることではないっ!」
ようやく出来た会話の糸口も男爵の有無を言わさぬ態度に、夫人は再び口を噤んでしまうのだった。その様子に給仕をしていたマーベットは、鼻で笑うと小声で呟いた。
「……惨めなものね」
しばらくして食事が終わると男爵は、この日初めて給仕に入ったマーベットに気が付き声を掛ける。
「そこの女中……初めてみる顔だな?」
マーベットは綺麗なカーテシーをすると、男爵に微笑みながら挨拶をする。
「はい、旦那様。一月ほど前から雇っていただいております。マーベットでございます」
「うむ、美しいな……後で寝酒を持ってきてくれぬか?」
男爵は厭らしく頬を緩めながら尋ねる。これは所謂そういう誘いであり、男爵夫人は涙を浮かべながら部屋から出て行ってしまった。
「お……お父様!?」
「なんだ?」
さすがに娘たちも抗議するが、男爵の一睨みで黙ってしまう。どうやらこの家では男爵の意向は絶対のようだった。マーベットは極力表情を崩さないように一礼をすると
「かしこまりました。旦那様」
と答えた。その様子に娘たちからは蔑みの目で睨まれるのだった。
◇◇◆◇◇
クルト帝国 シュレー男爵邸 男爵の寝室 ──
シュレー男爵の寝室は、夫人のものとは別れており完全な個室だった。扉の前には衛兵が二人待機しており、マーベットが酒のボトルとグラスをトレイに乗せて現れると、下品な笑みを浮かべつつ扉を開けた。
マーベットは部屋に入り片手でスカートを少し摘んで挨拶してから、サイドテーブルまで歩き酒の準備を始めた。しかし、その左手を突然に男爵に掴まれる。
「お……おやめください、旦那様!」
悲壮感たっぷりに腕を振りほどこうとするマーベットの姿に、被虐心が煽られたのか男爵はニヤリと笑うと
「何を言っておる、わかっててきたのであろう?」
と言いながら、マーベットを引き寄せようとその左手を引っ張った。その瞬間二回、風を切るような音が男爵の耳に届いたのである。
「…………」
何か喋ろうとしても声が出ない男爵は、右手を自分の喉に当てるとヌルリと生暖かいものが手についた。恐る恐る手を見ると真っ赤な血がべっとりとついていた。
「やめろといっているのですよ、旦那様?」
大きいナイフを手にした赤い瞳をしたメイドは、そう言いながらニヤリと笑うのだった。
男爵は手を放して声にならない悲鳴を上げると、腰を抜かしながら四つん這いで部屋の奥へ逃げていく。その左肩には切り取られた左耳が張り付いており、頬から肩にかけても同じように生暖かいものが流れていた。
「人の話が聞こえない耳もご不要でございましょう、旦那様?」
男爵は近くにある物を手当たり次第投げて抵抗を始めた。かなり大きめな破壊音が部屋中に鳴り響く。声が出ないので大きな音を立てて、扉の前の衛兵に助けを求めようとしたのだ。
その反応に、マーベットはつまらなそうに扉の方を見ると
「あぁ……だ……旦那様! おやめくださいっ! お……お許しを……あぁ、あぁぁ!」
と悲壮感を込めて叫ぶのだった。その後、しばらく待ってみても扉が開くことがないことを確認すると、男爵に向かってニヤリと笑う。
「これも日頃の行いのせいでございますね、旦那様?」
その笑顔に男爵はすでに怯えきった表情で震えていた。マーベットは男爵の前まで近付くと、美しいカーテシーをして
「改めまして、私はマリーと申します。短い間ですがどうぞお見知りおきを」
と微笑みながら挨拶をした。しかし、その瞳は決して笑っていないかった。
「貴方に聞きたいことは、一つです。八年前……リスタ王国の国王ロイド陛下を、暗殺させたのは貴方ですね?」
男爵が恐怖に歪んだ顔で首を振ると、再び風を切るような音が聞こえ、視界が半分闇に消えた。再び声にならない悲鳴を上げて、転がりまわる男爵にマリーは冷たい視線を送る。
「八年です。貴方を捜し当てるまで、八年も掛かりました。暗殺集団ザハの牙でも珍しい傀儡術の使い手である貴方を捜し出すまでにね」
徐々に切り刻まれていく男爵は、すでに意識が朦朧としてきていた。そんな男爵にマリーは再び尋ねる。
「もう一度聞きます。素直に答えれば、もう許して差し上げますよ、旦那様? ……ロイド様を暗殺させたのは貴方ですね?」
その問いに、もはや抵抗できるはずもなく男爵は力なく頷いた。その瞬間トスッという音と共に彼の胸にはナイフが刺さっていた。
「ロイド様……ついに仇を取りましたよ」
マリーは呆然と立ち尽くしながら、そう呟くのだった。
◇◇◆◇◇
クルト帝国 レティ領 シュレー男爵邸 通路 ──
血まみれのメイドが男爵の寝室から出てきたことで、館の中は騒然としていた。マリーはあまりの出来事に呆然としている衛兵を横目に、そのまま何事もなかったように廊下を歩いていく。
しばらく後、館の通路でマリーを館の騎士や衛兵たちが取り囲んでいた。その数は騎士が五人、衛兵が十人程度である。彼らは口々に
「男爵様の仇!」
「逃がすな、殺せぇ!」
などと喚きながら、マリーに武器を突きつけている。衛兵の一人がマリーに斬りかかると、その攻撃を避けてナイフで首筋を斬りつけ、衛兵は血を噴き出しながら倒れる。それが引き金になり、囲んでいた男たちは一斉にマリーに斬りかかった。
しばらく……時間にして五分も掛からぬうちに、マリーは膝をついていた。その周辺には衛兵が八名倒れていたが、彼女自身も肩口から背中に掛けてザックリ斬られた傷に、その他細かな傷からも血を流し相手の返り血と、自身の血で全身真っ赤になっていた。
「まさに血染めね……」
マリーは力なくそう自嘲気味に呟くと、折れてしまったナイフを手放した。衛兵はともかくフル武装の騎士の鎧には、マリーのナイフは通らなかったのである。
「陛下……すみません、ここまでのようです」
騎士が剣を振り上げてマリーにトドメを刺そうとした瞬間、天井の板が彼の上に降って来た。落ちてきた板に直撃した騎士は、よろめきながら数歩後退し天井の穴を睨みつけた。
その穴からはダガーを二本腰に差した、全身黒装束が飛び降りてきたのである。振り返ってマリーの方を見た、その黒装束の頭巾からは微かに金髪がもれていた。
「あ……貴方が、なぜここにいるのです……?」
それを答える前に騎士の一人が、黒装束に斬りかかってきた。その一撃を何とか避けるが頭巾をかすめ、金髪の青年ラッツの顔が露になる。
ラッツはなんとか避けながらも、相手の胴をダガーを横に薙いだ。
キィィィィィィ
という耳障りの音とともに、ダガーの刃は騎士の鎧を通らず、横に滑ってしまった。ラッツはそのまま右足で相手の右膝の裏を踏みつけ、体勢が崩れたところを体当たりの要領で吹き飛ばした。
相手の武器が鎧を通らないと見ると騎士たちはラッツを取り囲むように動き始める。マリーは落ちていた衛兵の剣を拾いながら、よろよろと立ち上がった。
「貴方だけでも……逃げてください。私のことは、もう良いのです……生きる目的も……果たすべき役目も全て終わったのですから……」
力なく微笑むその顔には、生きる気力のようなものがまったく感じられなかった。ラッツはダガーをしまい胸の黒狼を引き抜くと叫ぶ。
「そんなに人生に未練がないのなら、俺にくれ! いや、たとえくれなくてもいい……勝手に貰っていく! 貴女は俺が自分のためにする盗む初めての人だ」
いきなりの告白のような言葉に目を丸くしているマリー。
ラッツは斬りかかってくる騎士の斬撃を避けながら、黒狼を相手の胴体に突き立てる。その刃は騎士の鎧を難なく突き破り、騎士の胸まで突き刺さった。
「ぐぁ!」
騎士が一人やられたことで怯んだ騎士と衛兵に、ラッツは腰のポーチから取り出した煙幕玉を投げつけた。煙幕玉からは凄い勢いで煙が噴き出し、通路中に撒き散らされる。
ラッツは煙幕の中、マリーを右肩に抱き上げると左手でフックダガーを引き抜き、切っ先を天井に向けて射出した。そのまま口で柄の底の装置を引っ張ると、フックダガーはワイヤーを巻き上げ、ラッツたちを天井裏まで引き上げるのだった。
◆◆◆◆◆
『扉の前の衛兵たち』
部屋の中で大きな音と共に、メイドの悲壮感漂う叫び声が聞こえると、衛兵の二人は顔を見合わせて呆れた表情で首を振る。
「今日は随分と激しいな」
「あれほどの上玉だ。男爵様も張り切っていられるのだろうよ」
「はっははは、まったく羨ましい限りだぜ」
衛兵たちは、まるでいつもの事という感じで、ニヤニヤと笑いあうのだった。