第九十七面 衣装箪笥みたいですね
衣装箪笥の先には不思議な世界が広がっていた。しんしんと雪の降り積もる森の中で、少女はフォーンと出会う。イギリスではない、どこか遠い世界。一番最初にそこに辿り着いたのは、四兄弟の末っ子・ルーシィだった。
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図書室のカウンターの中で彼は本を読んでいた。マーク・トウェイン著『アーサー王宮廷のヤンキー』。昨日借りたのだからまだ二日目なのに、随分と読み進めているようだった。『不思議の国のアリス』を手にカウンターに近付くと、ぼくの気配に気が付いた彼が顔を上げた。照明を反射して眼鏡がきらりと光る。
「やあ、神山君」
「あ、あの、返却ってどうすれば……」
「もう読んだの?」
鬼丸先輩はレンズの奥で目を丸くした。先輩の読む速度も結構なものだと思いますけど。
「返却する時はそこの棚に入れておいてくれるかな。後で確認をしてから局員が元の場所に戻すから」
言われた通り、ぼくは本を棚に入れる。返却棚に並ぶ本はなんだか乱雑な状態だった。返しに来た生徒がぽいぽい入れていっているのだろう。本がきっちりかっちり並んでいない様子は非常に不愉快なので並べ直そう。
再び本を読もうとしていた先輩が顔を上げる。
「……ああ、ありがとう」
「いえ、気になったので」
並べ直し、カウンターに向き直る。
「あ、あの、先輩」
「ん?」
「……図書局……やってみようかなって……」
先輩は本を手にしたまま立ち上がった。カウンターに手をつき、身を乗り出してくる。
「本当かいっ?」
ここはきっとぼくの居場所になってくれる。学校の中にも居場所を持つことができれば、そこから少しずつ進むことができるのではないだろうか。けれどおそらく、進みたいのではなくて本に囲まれていたいのだ。
先輩は弾むような足取りで準備室に消えると入部届を手に戻ってきた。カウンターに置き、備え付けのボールペンを差し出してくる。学年組出席番号、氏名など必要事項を記入して、これでぼくは図書局員だ。担任の先生にこれを提出すればいいらしい。
「あ、で、でも、まだ学校慣れてなくて……。休むことが多いかもしれないんですけど……」
「構わないよ。来られる時だけでいいから」
「は、はい。よろしくお願いします、鬼丸先輩」
「よろしくね、神山君」
かくしてぼくは、学校の中でいてもいいよと受け入れてもらえる場所を作ることに成功したのである。他の局員には一年生も含めて後日自己紹介しようか、と先輩は言う。璃紗と琉衣以外でぼくに優しくしてくれる生徒なんて、先輩が初めてだ。その所為か、なんだか美化して見ている気がする。
「図書室はいいよねえ。扉を開いて飛び込めば素敵な世界が広がっているんだから」
「衣装箪笥みたいですね」
「なるほど、じゃあボクはルーシィだ。男だからエドマンドの方がいいかな……」
「ルーシィでいいと思いますよ」
じゃあ神山君は? と訊ねられる。
「ぼくはアリスですね。名前もそうやってからかわれることあるし……」
「からかわれる?」
「いや、まあ、このことはまた別の機会に話しましょう。先輩、ぼくとおしゃべりしてて大丈夫なんですか?」
先輩は図書室を見回す。本を手にした生徒がこちらへ向かって歩いていた。
「仕事しなきゃ駄目だね。それじゃあ神山君、それを担任の先生にちゃんと提出してね」
「はい。では、今日はこれで」
「またね」
入部届を手に図書室を出る。目指すは職員室だ。
廊下を行く生徒の波も怖くない。たぶん。これからのぼくには図書室があるのだ。自信を持て。けれどやっぱり緊張してしまうので、極力人ごみを避けて歩く。
職員室の扉を軽くノックして中に入る。村岡先生は席に着いてパソコンを見ていた。ぼくが歩み寄ると「どうしたの」と訊いてきた。大方、ぼくがまた何か不安に思っていることでもあるのではないかと心配しているのだろう。大丈夫です先生。今日はそういう相談ではないので。
ぼくは入部届を先生に見せる。ぼくが差し出すようなものではないので、最初先生は驚いた様子だった。入部届とぼくを交互に見て、小さく「え」と声を漏らす。
「神山君、図書局に入るの?」
「はい。あ、あと、顧問の先生にも出さなきゃいけないみたいなんですけど、顧問は……」
「あら。鬼丸君教えてくれなかったの? 図書局の顧問は私です」
「ほえ」
先生は入部届を二枚とも受け取る。そして、ぽんっとハンコを押してクリアファイルにしまってしまった。知らない先生のところまで顧問提出用の届けを出しに行かなくてはいけないのだろうかと思っていたけれど、その心配はなくなった。先生が顧問でよかった。他の教科担任の先生とはまだ二日だから会話なんてできたものではないけれど村岡先生なら話は別だ。
見知らぬ相手だから会話できない。それは間違っていない。けれど、他の先生と話そうと思えない理由はそれだけではないだろう。去年のぼくのあの状態を見て動こうとしなかった人達なんだから信用なんてできたものではないんだ。おそらく他の先生の中にもいい人はいる。それでもやっぱり、まだ近付きたくない。
「神山君、小学生の時は委員会入ってたの?」
「必須だったので、生物委員を」
光星小は兎や鶏のいる小学校ではないので、生物委員の主な仕事は小動物の小屋の掃除ではなく金魚やグッピーに餌をあげることだ。鯉が餌に群がる勢いって怖いんだよなあ。
「そう。それなら課外活動をしたことがないというわけではないね。図書局は毎日忙しいというわけではないから気楽にね。登校と同じで、仕事も無理しなくていいから」
教室にいるのが辛くなったらいつでも保健室へ行っていいと言われている。そして、来たくなかったら休んでもいいと。ただ、休む時はちゃんと連絡してねと言われている。図書局の仕事も同じだと先生は言う。学校を休んだ時はもちろん仕事も休んでいいし、学校に来ていても今日は難しいなと思ったら先生に言えば帰っても構わないと。
詳しいことは後日一年生の新入部員も含めた全体会議の時に話すそうだ。鬼丸先輩が言っていた自己紹介の日のことかな。
「一気になんでもかんでもやったら疲れちゃうから、ちょっとずつゆっくりね」
「はい」
ちりも積もれば山となる。できることから少しずつ。
本に囲まれて学校生活を送るためだ。頑張るぞ。
◇
「と、いうわけで、ぼくは一歩前進したんですよ」
紅茶を一口飲む。アッサムに似たコクのある茶葉はミルクティーにすると美味しいそうだ。薄茶色になったお茶がティーカップの中で揺れている。
「……じゃあなんでこの時間にいるんだよオマエ」
カップを傾けながらニールさんが言う。
「あー、えっと、それはですねえ、今日学校が休みだからですね」
「平日じゃねえか」
諸事情でしばらく休校が続きそうである。三学期の後半もほとんど休みだったらしいけれど、その時はずっと家にいたのでぼくは変わらない生活を送っていた。今回は新年度が始まってようやく頑張れそうと意気込んだのに、なんだか出鼻をくじかれた気分だな。身の安全には変えられないのだけれど……。
「えっとその、悪い風邪? 病気? が流行ってるらしくて」
「ふーん。オマエの世界も大変なんだな」
先程からアーサーさんは沈黙を保っている。彼の前に置かれたティーカップは既に空になっていて、追加を淹れることもなく隣に座るニールさんに凭れかかっていた。どうやら眠っているらしい。ワイシャツの袖から覗く右手首には包帯が巻かれている。
「あの、アーサーさん何かあったんですか」
「昨日の夜ちょっとな。人間と間違えられてチェスに追い駆けられちまって、逃げる時に転んで捻ったんだ。途中でトランプの死体を見たから具合も悪くして散々でな、夜眠れなかったみたいで。最近チェスの被害が増えてるんだよなぁ」
「なんでわざわざ夜に外出したんですか。アーサーさんがトランプに間違われるなんてよくあることなんですよね?」
ニールさんは溜息をついた。足元で丸くなっているナザリオを軽く蹴飛ばす。
「この寝坊助の所為だ」
「あううう、痛いよお」
「帰ったと思ったらずっと寝てたんだよ。だから家まで送って行ってやったんだ。その帰りにな。ほんとは俺だけでよかったんだけど、帽子屋のやつたまに星が見たいとか言い出しやがって、それで」
ぼくの隣に座るルルーさんが嬉しそうに体を揺らした。
「アーサーはお空の星とか綺麗なお花とか、水面に映る太陽とか好きだもんね。自然が好きなんだよ。きっとその自然の中で紅茶を飲みたいって考えてるんだろうけどさ」
全ては紅茶のため、か。
ぼくがこうして美味しい紅茶を飲むことができるのも、アーサーさんの紅茶に対する情熱のおかげなんだろうな。
蹴られるだけではなくて今にも踏んづけられてしまいそうなナザリオが心配だったので、ぼくはテーブルの下に手を伸ばして枕を引っ張った。餌に喰いつく魚のように枕から手を離さないナザリオがずるずると這い出てくる。すると、何かがぽろりと絨毯に転がった。
拾ってみると、真っ赤な薔薇のモチーフのイヤリングだ。枕のカバーに挟まっていたらしい。しかし、ここにいる人の中に持ち主がいるとは思えない。獣耳の三人はこの明らかにヒトの耳に適していそうな形のものを使わないだろうし、アーサーさんがピアスやイヤリングの類を付けているのを見たことはない。
「あん? それミレイユのだな。この間落としてなくしたとか言ってたけど、うちにあったのか」
「じゃあ届けてあげた方がいいですかね。ぼく、行ってきます」
「アリス君一人で大丈夫?」
眠っているアーサーさん以外の三人が揃って心配そうな目をぼくに向ける。ぼくは薔薇のイヤリングをジャンパーのポケットに突っ込んだ。
「昼間だから問題ないでしょう。それに、この家で世話になっているアレクシス少年が外に出ているのをあまり見ないのはどうしてだろうって思われても困るじゃないですか」
「誰にそう思われるんだよ」
「気を付けて行って来てねえ、アリスぅ」
残っていたお茶を飲み干し、ぼくは猫と帽子屋の家を出た。公爵夫人のログハウスまでの道は何度も通って来たから頭に入っている。一人でも辿り着けるはずだ。
春の森は緑だけでなく色とりどりの花で彩られている。もしも自分が花粉や蜜を集める虫だったなら、弾む足取り、自然と漏れる鼻歌、踊るような飛び方、実に楽しく愉快に道を行くことだろう。まるで大冒険に出発した小さな蜂の女の子のように。
文字通りの獣道を進んでいると、どこからか鼻歌が聞こえてきた。少しくらい寄り道してもいいだろう。ぼくは鼻歌の聞こえてくる方へと草を掻き分けて進んだ。
少し開けた所に出て、木の下に佇む人影を見付けた。軽く足踏みをしてリズムを取りながらメロディを刻んでいる。伴奏なんてないし、鼻歌だから歌詞も分からない、それでも綺麗な曲だと思った。その人の足元には土が盛り上がっている部分がある。十五センチほどだろうか、そしててっぺんに木の枝が立っている。小学生の時、学校で飼っていた金魚が死んだ。その時に花壇に作ったお墓が丁度そんな感じだった。
ぼくの気配に気が付いたらしい人物が振り向く。体の動きに合わせて、金色の髪と薄紫色のローブが広がった。ちらりと見えたローブの中は王宮騎士団の制服だ。
「……やあ、こんにちは」
ぱっと見た感じクラウスやナザリオと同じくらいの歳だろうか。王宮騎士は周囲の花をその身に取り込んだかのような柔らかい笑みを浮かべた。




