第九十六面 君はあれだね
新一年生を勧誘しようと、画用紙や厚紙で作ったポスターや看板を手にした生徒達が廊下を歩いている。昨日が入学式だったというのに、二日目にしてこんなに先輩達の迫力満点な姿を見たら逆に怖くなってしまいそうだな。実際去年怖かったし。
「なあっ、見てくれよこれ」
昼休み、画用紙を手にした琉衣がぼくの席に近付いてきた。美術部の勧誘ポスターのようだ。青い鳥のイラストが添えられている。
「いいんじゃない」
「だろだろ? 一年生いっぱい来てくれるかなあ。二年生でもいいんだけどさ。あっ、有主入らないか?」
「ぼくは絵上手くないから」
自分に画力がないことは自分が一番知っている。小学生の時に図工の通知表が「もう少し」だったのは記憶に新しい。おそらく不器用なのだと思う。家庭科もあまりよくなかったから。
琉衣は自分で描いたポスターを嬉しそうに眺めている。
「有主君は部活とか考えてないの? 文芸部も歓迎するけど」
黙って本を読んでいた璃紗が顔を上げる。本屋さんのカバーが付いているので何を読んでいるのかは分からないけれど、最近ミステリーを読んでいると言っていたからこれもおそらくミステリーだろう。
「とりあえず学校に慣れるのが先かなって」
「んー、それもそっか。いきなり部活なんて疲れちゃうもんね」
教室の片隅には、こちらの様子を窺いながらひそひそと話合っている一団がいた。ぼくと目が合うと慌てて逸らす。はっきり言って気持ちのいいものではない。ここはおまえの来るべき場所ではないと無言で告げられているようで、学校がまだぼくの居場所になっていないということを表していた。
星夜中学校は部活必須ではないため、帰宅部は一定数いる。だからぼくもこのまま帰宅部でいてもいいのだ。けれど、部活という場を自分のものにしてしまえば多少は楽になるかもしれない。それでも怖い先輩がいたり、同学年や後輩に嫌なやつがいたりしたら嫌だな、と思って敬遠してしまっているのは事実だ。
「でも今日図書室行くんだろ?」
「別に図書局に入りたいとかじゃなくて、本を読みたいんだよ。読んだことのない本があるかもしれないし」
「有主が読んだことのなさそうなやつなんてあるかなあ」
琉衣の問いに璃紗が頷く。
「あるよ。ある。辞書とか」
「え、辞書読むの?」
「後ろに付いてる付録ページなら読むよ」
「マジか」
辞書はともかく、面白い本がたくさんあるはずだ。放課後、教室の掃除が終わったら璃紗と一緒に行こう。
給食当番や掃除当番は出席番号順に分けられた班で行う。「か」から始まるぼくは一班になったので、今日の掃除当番だった。班員とは当たり障りのない会話をして掃除をした。給食の時に近くの席の人と机をくっ付けるけれど、その時もぼくに話題が振られることはなかった。からかわれたり変な心配をされたりするよりもそっとしておいてくれた方がありがたい。
教室を出ると廊下で璃紗が待っていた。壁に凭れて本を読んでいる。ぼくが声をかけると、本を閉じて顔を上げた。昼休みに見た時よりもスピンの位置が進んでいる。相変わらず読むのが速いな。
図書室は二階の奥にある。二年生の教室も二階なので、このまま廊下を奥に進んでいけば辿り着く。一年生の勧誘へ向かった人が多いのか廊下に二年生の姿はまばらだった。美術部は勧誘に熱心だけれど、文芸部は放っておいても入りたい人はやってくるとのことで勧誘競争に参加はしていないらしい。
「ここだよ」
扉の上には『図書室』という札がある。扉の横には『図書局員募集中』と控えめな貼り紙がしてあった。璃紗に促されて中に入る。
小学校の図書室よりも本棚の数が少し多いかな、という印象だ。カウンターの中では司書さんと生徒が話をしていた。あの生徒は図書局員なのだろう。
まるで本棚が引力を持っているかのように、ぼくは図書室に吸い込まれた。本棚の森、本の群生地、言葉の集合体、文字で構成された芸術。たった一文字のたった一画さえ零れ落ちないように繋ぎ止めたものがここにある。
席に着いて難しそうな本を開きメモを取っている者、挿絵の多そうな文庫本を手にカウンターへ向かう者、手に取った本をぱらぱらと確認してから棚に戻す者。本との様々な触れあいがここでは繰り広げられている。図書館と比べるととても小さなものだけれど、この図書室にはこの中学校の生徒と本との交流が詰まっているのだ。
外国文学の棚の前に眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。邪魔をしたら悪いな。ぼくも眺めたいけれどここは彼に譲ることとしよう。司書さんに確認をしてみると、持ち込んだ本を読んでいてもいいそうなので『こゝろ』を読むことにしよう。
「少し本を読んでから帰るよ」
「……一人で帰れる?」
「大丈夫だよ」
心配そうな璃紗にひらひらと手を振ってぼくは席に着いた。読んでいるうちにあの男子生徒がいなくなるかもしれないし、少し時間を潰そう。
目が疲れてきたかもしれない。そう思って顔を上げた時、窓の外はオレンジ色に染まっていた。少し紫も混ざっていて、すっかり日が暮れている。
「すごい集中力だね」
外国文学の棚の前にいた眼鏡の男子生徒が椅子に座るぼくを見下ろしていた。名札の色によると彼は三年生で、その横に『図書』というバッジを付けている。この人、図書局員だったのか。それにしても珍しい苗字だな。
「そろそろ閉館時間だよ」
「えっ」
周囲を見回すと、先程までいたと思っていた生徒達がいなくなっていた。カウンター内にいる司書さんが困った顔でぼくを見ている。
「うわ、す、すみません!」
「いいよいいよ。本が好きな人が図書室にいて時間を忘れるなんて悪いことじゃないからね」
図書局員の男子生徒は柔らかく微笑む。
「本、好きなんでしょ? それは……夏目漱石?」
「あ……はい。『こゝろ』です。本は好きです。本を開けば、どこへだって行ける。ここではないどこかで、主人公達と一緒に色々なものを見ることができるんです。本は世界なんだって、ページを捲ればそこに世界が広がっているんだって思ってて、面白いものも、悲しいものも、たくさんたくさん体験できて……。あぁっ、すみません、いきなりこんな……」
「君はあれだね。本の虫ってやつだ」
男子生徒は左手に本を持っていた。『トム・ソーヤーの冒険』で有名なマーク・トウェインの名が記されている。タイトルは……。
ぼくの視線に気が付いたのか、彼は本をこちらに向けてくれた。『アーサー王宮廷のヤンキー』。
「タイムスリップした男が現代の……出版当時の知識や技術で六世紀の騎士達をあれこれするSF。春休みに新しい蔵書を入れようってなって、その時にボクが選んだものだよ」
「へえ、面白そうですね」
「だろう? ボクもまだ読んではいないんだけれどね。貸出が今日からだから、ようやく読めるよ」
ぱらぱらとページを捲り、男子生徒はぼくを見る。
「本はいいよね」
「はい」
「さて、そろそろ退室してもらえるかな。まだ何かあれば……本を探しているのなら手伝うけれど」
「あ……。はい……。えっと、『不思議の国のアリス』を……」
男子生徒は机に本を置くと、外国文学の棚の方へ歩いて行った。有名な作品は様々な出版社から刊行される。外国文学の場合出版社によって訳者が異なるため、その違いを楽しむことができる。母には「同じ本を何冊も買ってどうするの」と言われたけれど、どうするって読むに決まっているだろう。
学校の図書室にはまだ見たことのない訳のものがあるだろうか。
ほどなくして、かわいらしい女の子が表紙に描かれた本が目の前に提示された。何度も何度も見たタイトルと作者の名前が記されている。訳者は……。
「わ、よかった。これまだ読んでない訳のやつです」
「訳? そんなところにも拘っているんだ? 貸出手続きをするからこっち来て」
『こゝろ』をリュックにしまい、男子生徒の後ろに付いてカウンターへ向かう。『不思議の国のアリス』のバーコードを読み取ると、彼は右手をこちらに差し出してきた。
「え」
「え? 貸出カードは?」
「え?」
図書室で本を借りるのだからカードは必要だ。でも、そんなもの持っていない。
「君、二年生だよね。本が好きで二年生で……。でも、借りるの初めて?」
「う、はい」
カウンターの奥で整理をしていた司書さんが「そんな子もいるのねー」と漏らした。
「一年生の時に配られたバーコード付きのカードがあるでしょ?」
「も、もらってない……です……」
男子生徒は怪訝そうな顔でぼくを見る。
「鬼丸君、終わったら教えてね、準備室にいるから」
「はーい」
司書さんが準備室へ入る。男子生徒は『不思議の国のアリス』をカウンターに置き、外に出てきた。ぼくの目の前に立ちはだかるようにして見下ろしてくる。
「なんで持ってないの? 別に怒ってないよ。質問してるの。なくしたの?」
「……学校……ずっと休んでて……。たぶん、配られた日に欠席してて……」
「じゃあ担任の先生が保管してるかもね。行こうか」
「行くってどこに」
「職員室だよ。カードがないと借りられないんだから」
かくして、ぼくは図書局員の男子生徒と共に職員室を訪れた。村岡先生は机の中をごそごそと漁って、ラミネート加工がしてあるバーコード付きのカードをぼくに渡してくれた。渡すタイミングがなくてごめんねと先生は言っていたけれど、学校に来ないぼくが悪いのだから先生が謝ることじゃない。
図書室に戻り、貸出カードのバーコードを読み取る。
「はい、貸出期間は二週間です」
「ありがとうございます。すみませんお手数おかけしました」
「いいよいいよ。ところで、さっき先生が『部活もないのにこんな時間に』って言っていたけれど、君、帰宅部?」
「はい」
男子生徒は貸出カードと本をこちらに差し出しながら、カードに記されたぼくの名前を読み上げる。
「神山……ゆうしゅ……? あり……ある……えっと」
「なおゆきです」
「有主君。神山有主君、よかったら図書局に入らないかい?」
ぼくは貸出カードと本を受け取る。
「ボクは鬼丸栞。図書局長なんだ」
本が好きなら、ぜひ手伝ってくれないかな。と男子生徒――鬼丸先輩は言う。同じ趣味の人間を見付けて捉えた時、人は静かに歓喜する。今ぼくを見ている先輩の目はまさにそんな状態だった。本の虫は飛んで図書室に入ってしまったらしい。
司書さんに全て終わったと告げ、先輩はリュックを背負ってカウンターから出てきた。帰るのだから自然と玄関までは同じ道を進むことになる。
「事情は知らないけれど、ずっと休んでたってことは無理は禁物だよね。だから来られる時だけでいいんだ。お願いできないかな……」
鬼丸という苗字にはインパクトがあるけれど、今のところ先輩に怖いという印象は覚えない。図書局員は本が好きな人達だろうし、ぼくがひたすら読書をしていてもからかうことはないだろう。図書室を居場所にできるだろうか。
「もし入る気になったら教えてほしいな。返事はいつでもいいよ。ボクは図書室にいるし、教室に来てくれても構わない。ああ、ボクは三組ね」
「……考えておきます」
二年生と三年生それぞれの靴箱に向かい、外靴に履き替えてから合流する。
「じゃあね、神山君」
ひらりと手を振り、鬼丸先輩は一足先に帰路に着こうとする。
「あ、あの……」
「ん?」
「先輩の好きな作品って何ですか」
振り返ると、考える間もなくすぐに返答した。
「『ナルニア国物語』だよ。それじゃあね」
衣装箪笥に飛び込んでいくように、先輩は玄関の扉を潜って行った。




