第九十五面 よろしくお願いします
少年は本が好きだった。彼は古書店でとある本を手にするが、読んでいるうちに現実と本の世界が混ざり合い、やがて彼は本の世界へ飛び込むことになる。終わらない物語は、次第に彼と現実の世界との間に距離を生み出し……。
忘れてはいけない。忘れたら帰れなくなってしまう。
いじめっこに追い駆けられて、逃げ回って、彼は本に魅せられる。
書物というものは素晴らしいものである。ぼくは彼の本への情熱に魅せられた。
♥
温かい日差しが花々を照らしている。
「おはよ、有主君」
璃紗のおさげが揺れる。
「お……おは、おはよう……」
「すごい隈だよ、大丈夫?」
「緊張して眠れなくて……。本でも読めば眠くなるかなとか思ったんだけど、目が冴えちゃって四時くらいまで起きてたんだよね……」
「有主君が本読んで眠くなることなんてないと思うけど」
ごもっともです。小さい頃なんて、ぼくを眠らせようと絵本を読んだ母に対してもっと読めとせがんだらしいし、本を前にして眠くなるというやつのことがぼくには分からない。幼稚園での読み聞かせの時も「続きは明日」という先生に早く読んでと迫ったという。覚えていないけれど。
昨日の夜は『羅生門』などが収められた文庫本を一冊全部読んでしまった。昔のお話を翻案したものがいくつかあって面白かったな。今度は元となった古典作品を読んでみようかな。
璃紗に促されて、ぼくは一歩踏み出す。今日は始業式。頑張れ、ぼく。
校門のところに琉衣が立っていた。ぼく達を見付けると、笑顔で駆け寄ってくる。
「よ、おはよう」
「おはよう琉衣君」
「おはよう……」
「うわ、有主酷い顔だな」
どうせよもすがら読書でもしてたんだろ、と琉衣は言った。よく分かってるよね。
二人に連れ添われるようにしてぼくは校舎に足を踏み入れた。自分と同年代の少年少女の喧騒がぼくを包み込み、頭の中の奥深くをぐしゃぐしゃとかき混ぜられているような感じがした。無理は禁物だけれど、行けるところまで行くんだ。せめて教室で自己紹介くらいはしたい。
クラス分けは既に発表されているらしく、璃紗と琉衣は迷うことなく教室を目指していく。曰く、ぼくは二人と同じクラスらしい。それだけでも心強い。
『2年3組』という札の掲げられている教室へ入る。談笑していた生徒達がぐるりと首を動かし、一斉にこちらを見た。空席も多く、まだ全員が揃っているわけではないようだ。しかし、いくつもの目が向けられている。その視線に敵意は感じなかったけれど、体中を射抜かれているようで非常に居心地が悪かった。顔なんて覚えていないから分からないけれど、一年生の時に同じクラスだった人は何人かいるのだろう。しかし攻撃を仕掛けてはこないので、いるのはぼくのことを傍観していた人達だろう。
出席番号順に決められた席に着く。そのため、璃紗と琉衣とは離れてしまった。誰も話しかけてこないし、誰もいじりに来ないようだからひとまずは大丈夫だろうか。
リュックから本を出し、表紙を捲る。教室で本を読んでいるようなやつに近付く者は少ない。集中して読書をしていれば余計な接触を避けることができる。と思ったけれど、「やっぱり本読んでる……」という声で集中が一瞬切れた。おそらく一年生の時に同じクラスだった人だ。気にしない気にしない。続きを読もう。
主人公の「私」は学生で、ある日「先生」に出会う。「先生」には辛い過去があるんだよね。長いお話だからさすがのぼくでも読むには時間がかかりそうだ。「先生」の遺書に辿り着くまで何日かかるかな。
数ページ進んだところで担任の先生が教室に入って来た。見覚えがあると思ったら一年生の時と同じ女性教師だ。担当教科は国語。学校へ出ていなかったし関心もなかったから忘れてしまっていたけれど、今度こそ先生の名前を覚えよう。黒板にチョークで書かれていく文字を追う。なるほど、村岡先生というのか。
先生の簡単な自己紹介の後は生徒の番だ。出席番号順に立ち上がって名前と部活を述べ、そこに「よろしく」などの定型文を添えて席に着く。ある程度は覚えておいた方がいいだろう。この教室で過ごすうちに自然と覚えるだろうから、今頭に入れておく情報は必要最低限でいいはずだ。
自分の番が回って来たのでぼくは立ち上がった。教室中の視線がぼくに向けられる。条件反射的に体が強張った。みんなに見られている。みんながぼくに注目している。敵意が無くても、それだけで十分な圧迫感だった。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうなのをなんとか堪えて、口を開く。
「か、神山、有主、です……。……え、えと、帰宅部……です……」
ほとんど消える声で「よろしくお願いします」を付け足して、視線から逃れるように席に着いた。教室のどこかからひそひそと話す声がしたけれど、何を言っているのかは分からなかった。残りのクラスメイトの自己紹介を聞き流し、それが終わると体育館へ移動して始業式だ。
退屈な校長先生の話を適当に聞いて、諸連絡の後教室に戻る。そして先生が今後の日程の説明をして解散だ。ようやく解放された。
璃紗と琉衣と連れ立って帰ろうとすると、先生に呼び止められた。
「神山君」
「……先生」
「今日、どうだったかな。明日からも来られそう?」
心配そうに先生は問うてきた。
「が、頑張ります」
「何かあったらすぐに先生に言ってね」
それはおそらく言わなくてはならない定型文のようなもの。けれど、台本を読んでいるようなものではなく、先生がぼくのことを気にかけているということが分かるものだった。教師という者は好きにはなれない。でも、村岡先生のことは少しは頼ってもいいのかもしれない。こんなぼくに対して真剣になってくれるのだから。
先生は出席簿やプリントの束などを抱え直す。
「姫野さんと宮内君もいるから安心ね。それじゃあね」
「さよなら」
「先生さようなら」
教室を出て廊下を行く。登校初日は特に何もなく終わりそうだ。
そう思ったのもつかの間だった。
隣の教室から出てきた影にぶつかった。ぼくはしっかりと前を見ていたし、向こうが意図的にぶつかって来たとしか考えられない。一体誰がそんなことを、と確認をする前に琉衣に手を引かれた。
「有主、構うな」
「何っ……?」
そこにいたのはぼくをいじった主犯格的な立ち位置のグループだった。
「よお、アリスちゃんじゃねえか」
「学校来て大丈夫なのー?」
「あはははは」
ぼくの前に立ちはだかり、琉衣が咳払いをする。
「あー、どうしようかなー、ここで倒れようかなー」
「宮内おまえもはやそれ持ちネタだろ」
「でも本当に倒れたら困るんだよな」
「宮内まじでずるいな」
琉衣の人の悪そうな笑顔から逃れるように彼らは去って行った。ぼくを守ってくれるのはありがたいけれど、もっと自分の体をいたわってよ。
「有主君、大丈夫?」
「うん。絡まれただけだし……」
「宮内君っ!」
廊下の向こう側から女子生徒が歩いてきた。名札の色からして三年生だろう。琉衣の部活の先輩かな。ということは美術部の人か。三年生はにこにこと笑顔を浮かべながら琉衣の手を取る。
「宮内君、美術準備室の片付けのこと忘れてないよね?」
先輩からの笑顔の威圧を受け、琉衣は小さく身震いした。引き攣った笑みを浮かべて頷く。忘れてはいないとアピールするかのように必死に頷いている様は、忘れてしまったことを誤魔化そうとしているように見える。このままぼく達と帰宅する流れであったから忘れていたのは確かだ。
先輩に連れ去られるような形で琉衣は姿を消した。明日は入学式、新しい一年生がやってくる。各部活は受け入れ態勢を整えているのだろう。
「璃紗は? 文芸部は今日何もないの?」
「ないよ。美術部と違って片付けておかないといけないものなんてないから」
「そっか」
「琉衣君には悪いけど帰ろう」
二人で歩き出し、玄関を目指す。登校初日は無事に終わりそうだ。
一階の廊下の掲示板には部活の勧誘ポスターが貼られていた。運動系部活の賑やかなデザインのものや、文化系部活のおとなしめなデザインのものが入り乱れている。その中に一枚、特にシンプルなものがあった。白地の画用紙に控えめな文字で『図書局』と書かれている。
「図書は委員会じゃないの?」
「違う。外局扱いだから学級委員ではないの。あと、放送局も同じだね。知らなかったの?」
「うん」
『入局希望者は図書準備室もしくは生徒会室ヘ』と添えられている。
「気になるの?」
「図書室がね」
「まあそうだろうと思ったけど。……行ったことないんだよね? 確か」
「うん」
昨年度は数える程度しか学校に来ていないし、気になってはいたけれど図書室を訪れたことがない。今年度から頑張って学校に来ようと思った理由の一つが図書室の本なのだ。見たことのない本棚にはまだ出会っていない物語が収められているかもしれない。
璃紗は眼鏡のブリッジを押し上げる。
「今日は図書室閉まってるはずだから、明日……。明日は入学式か。明後日に行ってみようか? わたしも付き合うよ」
「えっ、いいの?」
「一人で校内うろうろできないでしょ」
持つべきものは友人だ。
「ありがとう璃紗」
明後日が楽しみだなあ。どんな本が待っているのだろう。




