第九十四面 世界はいつも本の中
美しい薄ピンク色の花びらは、人の命を吸って色付いている。桜の木の下に死体が埋まっているなんて怖い。でもレモンが爆弾になるのだったら、桜の下に死体が埋まっていてもおかしくはないのかな。うーん、綺麗なピンクが気持ち悪く見えてきそうだからもうやめておこう。
ぼくは文庫本を閉じてベンチから立ち上がる。
空ヶ丘公園の桜の木はまだ蕾。見頃になるのはもうしばらく先だろう。さすがにこの下に死体が埋まっているなんてことはないだろうけれど、毎年綺麗だよね。
腕時計で時間を確認する。午後三時。そろそろティータイムだ。
公園を象徴する丘を駆け下り、蕾がいっぱいの桜並木を行く。三月下旬、ポイ捨てされた空き缶を転がしていく風はまだちょっとだけ冷たい。ストールを巻き直しながらぼくは公園の外へ出た。
「もう、有主君遅いよ」
「買い物して来たんだよ」
公園を出て、あるお店に寄ってから姫野家を訪れた。璃紗はぼくが手にした袋を不思議そうに眺めている。
「見てこれ、ディンブラ」
紅茶専門店で買って来たティーバッグである。お店の人曰く常連のイギリス人が買いあさって行くくらい美味しいのだという。
「みんなで飲もう」
「いいけど……。有主君、最近紅茶に凝ってる?」
「ちょっとね」
璃紗の部屋に通される。腕組をした琉衣が難しい顔をして座っていた。前に置かれたミニテーブルには教科書とノートが広げられている。アルファベットがたくさんあるから英語だね。
「琉衣、英語得意じゃなかったっけ。分かんないの?」
「バッカだなあ有主。オマエにどうやって教えたら分かってもらえるかなあって考えてんだよ」
呆れた顔でぼくを見上げる琉衣の前髪が揺れる。留められたヘアピンには三日月の飾りが付いている。
お菓子持ってくるね、と言って璃紗が部屋を出て行った。ぼくは琉衣の向かいに座る。クッションは柔らかく座り心地がいい。軽く睨みつけるような、嘲笑うような目で琉衣はぼくを見ている。
「今日も厳しくいくからな」
「大丈夫大丈夫」
新学期から学校へ出ると宣言をしたぼくは、璃紗と琉衣にここ数日手解きを受けていた。一学期までの内容は夏休みに教えてもらっていたので、今は二学期と三学期の内容を強引に詰め込んでいる。小学生の時のことを考えると、元々勉強が苦手な方ではないからこの量も苦ではなかった。むしろ、ぼくに付き合っている二人の方が大変かもしれない。でも人に教えるのも勉強になるというから、二人にとっても悪いことではないだろう。
ぼくは鞄から出したノートと教科書をミニテーブルに置く。琉衣の教科書と並べると、ぼくのものはほとんど手を付けていないのがすぐに分かるくらい綺麗だ。
「今日は英語と数学な」
「はーい」
階段を上ってくる音がして、お盆を持った璃紗が部屋に戻ってきた。
「どんなのが合うのか分からなくて……。普通のクッキーでよかったかなあ」
「えっ、有主また紅茶買って来たの?」
「えへへ」
「名実共にアリスになりつつあるな。大丈夫か」
「うっ。も、問題ないよ。ぼく昔から紅茶派でしょ?」
璃紗はお盆を床に下ろす。やや濃いめの赤い水色、甘い香り。ディンブラは飲みやすくていいよね。そして、個包装のクッキーがいくつか入ったお皿がカップの横に置いてある。冷めないうちにお茶は飲んでしまおう。ぼくはカップを手に取る。
さて、軽く口を潤わせたら勉強だ。
途中に休憩を挟みながら、五時過ぎくらいまで勉強会は続いた。毎日付き合ってくれる璃紗と琉衣には感謝しかない。
「今日はこのくらいにしようか。有主君飲み込みが早いから助かるよ」
「これでオマエが馬鹿だったら大変だもんなあ」
よかった、馬鹿じゃなくて。
ぼく達はノートと教科書を閉じる。
「明日は国語と社会だよ。教科書読むとか、それくらいはしておいてね」
「毎日同じこと言わないでよ」
教科書だって本だ。内容はともかくとして読む行為自体はぼくにとって喜びである。特に国語の教科書は色々な作者の色々な物語が載っているし、論説文もなかなかに面白いものだ。だから国語は好き。読んでいて楽しいのは、あとは英語かな。
教科書とノート、筆入れを鞄に入れてぼくは立ち上がる。琉衣は余ったクッキーの袋を璃紗に貰っていた。おそらく美千留ちゃんにお土産として持って帰るのだろう。昨日もチョコレート持って帰っていたし。
チョコレートと言えば、バレンタインに璃紗がくれたチョコレート美味しかったな。それにふさわしいホワイトデーのお返しを探すのは大変だったけれど。
それじゃあまた明日、と言ってぼくと琉衣は姫野家を後にした。そして琉衣と別れ、自宅へ向かう。
二人のおかげで勉強に関してはどうにかなりそうだな。問題はクラスメイト、だよね。クラス替えで一体誰と同じクラスになるんだろう。璃紗と琉衣のどちらかと一緒だといいけれど、おそらくその辺りは学校側の配慮が働くと考えてもいいだろう。いやがらせの主犯格達とは離されるはずだ。
数分で神山家に辿り着く。ぼくの帰宅に気が付いたらしい母がちらりと台所から顔を覗かせた。
「どうだった?」
「まあまあかな」
「そう」
学校へ行こうと思うと告げた時、両親はほっとした様子だった。よかった、と。それと同時に、無理はしないでね、と。
辛いと思ったら保健室にでも行けばいいだろう。最悪保健室登校だ。登校していることに変わりはないのだからいいはずだ。
駄目だな。すぐそういうこと考えちゃう。いいことが起こるって思っていなきゃやる気なんて出ないや。
手洗いうがいをしてから自室に向かう。日が傾き薄暗くなった部屋の中に姿見は鎮座していた。姿見の枠は特徴的なデザインであり、絡み合う植物の中に怪物達が埋もれている。いつ見ても不気味だ。鏡面には怪訝そうな顔をしたぼくの顔が映し出されている。触れてみると水が張られているかのように波打った。
夢に見る不思議な世界はいつも本の中にあった。本を開けばぼくはどこへでも行ける。ページを捲れば、世界はそこに広がっているのだから。ぼくにとっての世界は本の中にしか存在していない。厭世的だと言われても構わないと思うくらい、ぼくは自分の生きる世界が嫌いだった。家族も、友人もいる。けれど、ぼくは逃げ出そうとした。本の中に逃げ込んで、空想に浸った。違う。逃げる場所じゃない。ぼくの求める世界は本の中にしかないのだから。
ずっとそう思っていた。
この鏡に出会うまでは。
本じゃない。夢じゃない。現実だ。ワンダーランドはここにあった。
求めてやまなかったワンダーランドだ。
こんなぼくのことを受け入れてくれた。こんなぼくの背中を押してくれた。みんなに出会えて本当によかった。
ぼくは居場所を手に入れた。
璃紗と琉衣と通う学校も、ぼくの居場所の一つになってくれればいいのだけれど。
ベッドに寝転び、公園で読んでいた本を鞄から出す。桜の木の下に死体が埋まっていたり、レモンが爆弾になったりする話が収められている。あながち間違っていないだろう。『檸檬』の主人公は悶々と悩んでいるようだったけれど、まさかレモンですっきりするとは思わなかったな。ぼくも何か一つ手にすれば変わるかな。学校にレモンを仕掛ければ爆発するだろうか。
駄目だ駄目だ。行くんだろ。爆発させちゃ駄目だよ。次の日から行けなくなる。
ハンガーにはクリーニング屋さんのビニール袋に包まれた制服がぶら下がっている。平気だよ。王様に訴えかけるのと比べればどうってことない。だから大丈夫だ。
始業式まであと少し。しっかり準備しておかないとね。




