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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十二冊目 セバストポリ
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第九十三面 あぁ、紅茶は素晴らしい

あるドミノの話。

 あの時、湖の底に何かが見えたような気がした。けれどあのような状態だったし、意識が朦朧としていたから幻覚だったのかもしれない。光っていたのはただの日光だろうか……。





 二月の何でもないある日。


 目の前に置かれたティーカップからは湯気が緩やかに上っている。


「もう大丈夫そうだな」

「心配性ですねえ」


 兄さんの手が私の額から離される。


「あんなになってんのに心配しない方がおかしいだろ」


 湖に落ちた私は十日間寝込んだ。あれほどまでに酷く風邪をこじらせたのは初めてで、慌てふためく兄さんの姿を見ながら死んでいくのかと思うほどだった。辛すぎて紅茶も喉を通らないレベルだったので間違えたら本当に死んでいたかもしれない。


 こうしてのんびりと紅茶を飲むことができるのは久し振りだ。ようやく体が落ち着いた気がする。お茶が体に染み渡って行くようだ。


「あぁ、紅茶は素晴らしい」

「オマエ最近親父に似てきたな」

「そうですか?」


 にやにや笑いながら兄さんはカップに口を付ける。兄さんは私よりも父上について知っていることが多い。私の微かな記憶に断片的に残る姿よりも、もっとはっきりとしたことを覚えているのだろう。優しく笑えていた頃の母上のことも、きっと。


「アーサーが元気になってよかったよ」


 そう言うルルーは何やら浮かない様子だ。あの日、裁判所の前でクロヴィスに会ってから様子がおかしい。無理をしていつもの調子を装っているようだが、長い付き合いの私には分かる。おそらく兄さんも気が付いているだろう。ただ、ナザリオとアリス君のことはうまく誤魔化せているようだ。


 ナザリオと一緒にビスケットを頬張っていたアリス君が手を止めた。真剣な面持ちで私達のことを見回し、居住まいを正す。


「あ、ああ、あの。ぼ、ぼく、頑張ります……。……新年度から、少しずつ学校に行ってみようかなって。行きたいわけじゃないんです。本当なら行きたくない。でも、友達が待っているから」


 無理は禁物。けれど、義務教育は文字通り義務なのだからないがしろにするのは良くないのだろう。学校というものを知らない私には分からないが、その存在が彼をここまで追いつめているということは分かる。私達はこの子の受け皿にならなくてはいけない。逃げてしまった時、迎え入れることのできる存在に。


「学校の図書室の本も読みたいし……」


 本当に本が好きなんだな。


 突き落とすのではない、背中を押して送り出すのだ。


「行こうと思うのなら行けばいいのでは」

「が、頑張り、ます……」


 受け止める。けれど、いつまでもそうしていていいのだろうか。彼が生きるべきなのはあちら側の世界なのだ。ここにずっといるわけにはいかないだろう。


 すぐ帰すつもりだった。それなのに八ヶ月も過ぎてしまった。


 貴方が『アリス』なら、もう来ない方がいい。


 そう言った。けれど、どうしてだろう。自分がなぜそんなことを言ったのか分からない。ここはオマエの世界じゃないんだからさっさと帰れ。それで済んだはずだろう。それに、うやむやになってしまっているけれど手鏡がどこから彼の手に渡ったのか分かっていない。なぜ手鏡が姿見に変わってしまったのかも。


 手鏡のままならば、返して貰ってお別れになったはずなのだ。彼をこの世界に繋ぎ止めて置く必要があるとでもいうのだろうか。


「……帽子屋。ぼんやりしてどうした?」

「あ。……少し、考え事を」


 紅茶がぬるくなっている。


 まだ具合悪いのか? と覗き込んでくる兄さんを叩いて撃退し、ぬるい紅茶を飲む。考えても分からないことは一旦思考の外に追いやった方がいい。後でまた考えればいいだろう。





 あの鏡のことを、父上なら知っていたのだろう。どのようなものであるのかを。先代女王も父上もいない今では分からないことばかりだ。母上は父上から何か聞いてはいなかったのだろうか……。


 あの鏡を所持していることは私達にとって切り札である。裁判の時に国王が狼狽えていた様からも分かることだ。あれは公にしてはいけないもの。知っているのは、公爵夫人とマミとエドウィンだけ。貴族の中に何か知っている者もいるかもしれないが、私が把握している人間トランプはこれだけだ。他の者に知られたら大事になるのは目に見えている。私達兄弟にとっても、国にとっても、あれは秘密にしておかなくてはいけないもの。


 どうして先代はそんなものを父上に……。





 森中が寝静まり、チェスが闊歩し始める頃。私はボーラーハットを手にしていた。あの日私と共に水没した帽子は、少々歪んだ気もするがほとんど元通りだ。取り付けられている時計の飾りは六時を指している。午前だろうか、午後だろうか。


 作品には作った者の心が映し出されるものだと私は思っている。父上は何を思ってこの帽子を作ったのだろう。家に残っているということは、依頼主の手には渡らなかったのか、それとも、オーダーではなく自分で作ろうとして残しておいたものなのか。


 カーテンの隙間から差し込む月明かりが文字盤に反射する。


「帽子屋」


 ドアがノックされた。軽く開けられた隙間から兄さんが睨んでいる。


「病み上がりなんだから早く寝ろよ」

「ええ、分かっています」

「お休み」

「お休みなさい」


 ドアが閉められる。兄さんは私に隠し事があるようだ。私が熱を出した次の日、朝食を持ってきてくれた時に怖い顔をしていた。来客があったようだったから、誰かに何かを聞いたのだろう。そのことが兄さんに引っ掛かっている。私に知られたくないようなことだったのだろう。一体どんな情報を仕入れたのやら。





――あぁ、紅茶は素晴らしい。そうは思わないか?


――これは戒めだよ、アーサー。よくお聞き。


――そういうものだと思い込んでしまえば、何でもないものも力を持つ。


――オマエはオマエ自身を見失わないように、これから先……。





 朝、父上の書斎兼作業場だった部屋にボーラーハットを置きに向かった。フェルトの切れ端や型紙が積み上げられていて、その上には埃が被っている。私も使ってはいるが、イレブンバック氏に作って以来新作に手を出してはいない。帽子屋とは名ばかりだ。


 ボーラーハットを箱に入れて机に置く。部屋を出ようとして、床に落ちていたフェルトを踏みつけた。滑りだすフェルトに足を取られ、私はバランスを崩す。本棚に掴まって踏み止まったが、半ばぶつかるような勢いだったため本が数冊落ちてしまった。書籍に混ざってノートが一冊ある。父上の物なのかどうか疑いたくなるくらい古びたノートだ。


 他の本を棚に戻してから古びたノートを手に取る。表紙はぼろぼろでページは黄ばんでいる。崩さないようにして捲ってみると、詩のようなものがつらつらと綴ってあった。父上の筆跡ではない。


 そして、詩のようなもの、と言っても読めるものではなかった。文字だ、というのは分かる。文字列の並びから散文ではなく韻文なのは見て分かるので、これは詩だ。しかし、肝心の文字が読めない。英語ワンダーもじではないのは一目瞭然で、辛うじて読むことのできる日本語イーハトヴもじでもないようだ。それどころか、フランス語ブルーもじドイツ語ネルケもじロシア語ラミアもじのどれでもないらしい。では、キャロリング大陸外の国の文字だろうか。


 いや、それとも、遥か昔の文字だろうか……。


 父上はなぜこのようなものを持っていたのだろう。誰かに貰ったのか、どこかで手に入れたのか。


「帽子屋ぁ、朝飯ぃ」


 廊下から兄さんが顔を覗かせた。


「ん。何か見付けたのか?」


 私はノートを本棚に突っ込む。


「い、いえ……。本を落としてしまったので拾っていたのです」

「ふぅん? なぁ、早く飯作ってくれ、腹減ってんだよ」

「はい、ただ今……」


 父上にはおかしなものを集める趣味があったから、あのノートもおそらくその一環だろう。その趣味の所為で光る蝙蝠などというものを探しに行ってしまったわけだが。


 兄さんを追ってリビングへ向かう。


 今日も美味しい紅茶が飲めますように。











一段目読了。

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