第九十二面 いい夢を見られますように
あるドミノの話。
木々の向こうから弦を爪弾く音が聞こえてきた。曇り空の下で男が竪琴を引いている。
「いい音ですね」
声をかけると、男が振り向いた。シルクハットが顔に影を落としている。
「やあ、クロヴィスか」
黒いローブを纏った男が立ち上がった。薄く笑って僕を見る。
「俺に何か用かな。演奏の途中なのだけれど」
「ちょっと訊きたいことがありまして」
「演奏の邪魔はしないでほしいな」
「……どうしても確かめたいことがあるんですよ」
僕はシルクハットの男に歩み寄る。
「あれってアナタですよね」
「……何のことかな」
「しらばっくれないでくださいよ」
男は竪琴の脇に置いていた弓を手に取った。目にもとまらぬ速さで矢が放たれる。そして僕の顔のすぐ横を過ぎて木に突き刺さった。背筋がびりびりとした気がした。
「怖いな。いきなりそんなことするなんて酷いですよ」
「黒が白に会ったら、こうするのが基本だろう? 演奏の邪魔をされてちょっと機嫌も悪いのだけれど」
竪琴を弾いていた時の気品ある雰囲気は消し飛び、狂気に満ちたように口が歪められている。はぐらかすつもりだな。僕は退かないぞ。あれは間接的にあの子のことも苦しめたんだ。
僕は顔面に笑いを貼り付ける。こうしていれば少しは安心できるから。
「ワタシを射抜くつもりですか? 伝令を殺すのは良くないと思いますよぉ?」
「威嚇射撃だよ。さっさとお帰り。俺は今夜のことで頭がいっぱいなんだよ」
「……今夜? 何かあるんですか?」
男が矢を番えた。
「黄の行軍経路を掴んだからね、ここで張っているのさ。邪魔をしちゃあいけないよ、子兎ちゃん」
放たれた矢が僕のコートのフードを引っぺがした。耳に風が当たるのを感じる。
「クロヴィス、君を殺すつもりはない」
再び矢を番え、僕に向ける。
「だから邪魔をするな」
矢が僕の横を通り過ぎて木に刺さる。
「帰れ。さもなくば今から兎狩りを開始するよ」
僕はフードを被り直し、踵を返して走り出した。次々と矢が降って来る。いつもいつも同じだ。アイツは僕のことをからかって遊んでいる。殺さないのも、遊び道具が亡くなってしまうと困るから。けれど時々有益な情報をもたらすから、僕には「遭いに行かない」という選択肢は選べない。
完全にはぐらかされた。答えないのは逆に怪しい。
次にいつ会えるか分からないのに情報を聞き出せなかった。悔しい。
「っい」
矢が左肩に当たった。たまに当たる。急所に当たらないように飛ばしてくるのだから腕はいいのだ。アイツに負わされた傷は多い。追撃するつもりはないらしく、それ以上矢が飛んでくることはなかった。
掠っただけだと思っていたが、当たり所が悪かったらしく出血がなかなか止まらなかった。次第に意識が朦朧として来る。雪に点々と赤を落としながら、歪んだ森を行く。待ち合わせをしているのだ。だから、そこまでは辿り着きたい。
そして僕は目的地に着くや否や木に凭れてへたり込んだ。思ったよりも傷が深い。早く迎えに来てくれ。
視界から入る情報を遮断してなるべく頭も体力も使わないようにしよう。そう考えて目を閉じた。しばらくした頃、足音が近付いてきた。ようやく来たか。
「う、うぅ……。ん?」
目を開けた僕は言葉を失った。あの子が立っていた。
「怪我、してるの……クロヴィス……」
彼女は怯えた顔で僕を見下ろしている。どうして僕は君にそんな顔をさせてしまうのだろう。
「昔みたいに呼んでくれてもいいんだよ、ルルー」
「……昔には戻れないよ。君も、僕も」
そうか。……そうだね。もう、あの頃とは違う。けれど君の優しさは変わらない。こうして僕の手当てをしてくれるのだから。僕のことは黙っているようだし、本当に優しい子だ。そんないい子に怖い思いをさせてしまうなんて、僕は酷いやつだな。
君が謝る必要なんてないのに……。
大事そうに袋を抱えて彼女は去って行った。
僕は再び木に凭れて目を閉じる。
それから結構時間が過ぎたと思う。足音が近付いてきた。来るのが遅い。
「クロヴィスさん、お待たせしました」
「ランス君遅いよ」
走って来たらしく彼の息は上がっていた。ローブの裾が濡れている。大方いつものように湖の近くをうろついていたのだろう。
「すみません。衝撃的瞬間を目撃してしまい、気になって様子を見ていたので遅れました」
「遅いー」
「ごめんなさーい。……あれ? 怪我してます?」
僕の左肩を見てランスはそう言った。
「トリスタンにやられた」
「またですか。応急処置はご自分で?」
「……通りすがりの人が」
「へえ。帰ったらリリィさんにでも手当てしてもらいましょう」
ランスの肩を借りて僕は立ち上がる。ランスは僕よりも小柄なので、僕は若干屈む体勢になるためやや歩きにくい。しかし文句を言ってはいられない。うんしょうんしょと僕を運ぼうとしているのを見ると笑ってしまいそうになるな。
「あー。今ボクのことチビだとか思いましたね」
「思ってないよ」
「クロヴィスさんの背が高いだけですよ。ボクが低いわけじゃありません」
そういうことにしておくよ。
木々の向こうから歌が聞こえてきた。月明かりの下で少年が歌っている。
回れ回れ、歪な歯車。
迷え迷え、時の中で。
踊れ踊れ、繋がれたまま。
歌え歌え、古の詩。
くるくるくるり、きらきらら。
声をかけようかどうか迷ったけれど、かけることにした。
「ランス君」
少年が振り向く。
「クロヴィスさん。ふふ、やっぱり夜の方が調子がいいですよね。肩の具合はどうですか」
「しばらくは振り上げたり振り回したりできないかもなあ。っふふふ、でも大丈夫。ワタシにその動きは必要ないからねぇ」
会話が途切れるとランスは再び歌を口ずさみ始めた。両手を軽く広げ、くるりと回る。舞い上がった銀色のローブが鈍く光った。
凍った湖の上でくるくると回りながら歌い続けている。
この湖には名前がない。名無しの湖。地図に載っていないのだから付けるべき名前がないのだ。
しばらくして、歌い終えたらしいランスが湖畔へ歩いてきた。よく滑らずに歩けるものだなと感心する。僕なら盛大に転びそうだ。無意識に跳ねている気がするからバランスが取れていないかもしれない。
小さく溜息をついてランスは自身の右手を見つめた。
「……レイシー」
そう呟いて拳を握る。解けかけた包帯が手首から垂れていた。そして、感傷に浸っている風だったランスは顔を上げると何事も無いように笑った。君はいつもそんな作り笑いを浮かべているな。僕の言えることではないけれど。
「陛下がお出掛けのようだね」
「ああ、ボクが報告したからですね」
「……ワタシと別行動をしている間に君は何を見たのかな?」
ランスは人差し指を口に添える。
「ふふ、内緒です」
「そうかい」
「呼びに来てくれてありがとうございます。クロヴィスさんが来なかったら何時までこうしていたか……。凍えちゃいますね……」
真面目そうだけれど馬鹿なのだろうか。長い付き合いになるけれどいまいち彼の本性は分からないな。
にこにこと笑いながら僕にくっ付いてくる様は従順な後輩のようだ。しかし、その実態は陛下のお気に入りだ。雑に扱うのはやめた方がいいだろう。騎士様のことは丁重に扱うに限る。
基地に戻ると、陛下もちょうど戻ってきたところのようだった。傍に鎧を纏ったリリィがついている。昼間、手当てをしてくれた時にふわふわのフレアスカートを着ていた彼女とはまるで別人のような凛々しさだった。
「あら、お帰りなさい。クロヴィス、ランスロット」
「クイーン、お帰りなさい」
駆け寄ったランスのことを愛おしそうに撫でながら、陛下は僕に微笑みかける。まるで母親のような温かさだ。母の温かさなんて知らないから想像に過ぎないけれど。
エントランスで陛下とリリィと別れ、僕とランスは薄暗い廊下を進む。
「クイーンが、アリスの件はボクに一任すると言っていました。いいんでしょうか、ボクなんかで」
「元々ランス君の主導で動いていたんだからいいんじゃないのかい」
「……あぁ、アリス……君をいずれこの手に……」
アリスが絡むとすぐに目付きが変わるな。危ない笑いを浮かべているランスと別れ、自室に入る。
机の上に置かれた写真立てが起きていた。倒していたはずなのに、勝手に部屋に入って勝手に掃除をしていったポーンが起こしていったに違いない。写っているのはツーショット。心のどこかに躊躇いを感じたけれど、僕はそのまま写真立てを倒した。
壁にかけている小銃を手に取り、軽く手入れをしてからかけ直す。あまり戦闘はしないけれど、放置しているとよくないかな。使った方がいいのだろうか。今は左肩を痛めているから使えないか。
寝間着に着替えてベッドに飛び込み、布団に潜る。昼間活動したのだから夜は寝よう。僕が働かなくとも、他の者が夜に動いてくれるさ。
お休み、ルルー。君もいい夢を見られますように。
そして、
「白の陣に栄光あれ」




