第九十一面 いてくれてよかった
あるドミノの話。
声が聞こえた。これは、子供の声?
…………弟の声か。
『お兄ちゃぁん……』
男の子だろ、すぐ泣くんじゃねえよ。
『お兄ちゃぁん、お兄ちゃぁん……』
どうした? またいじめられたのか?
『うぁ、あ……。っく、うぐ……。ふえぇ……』
大丈夫。オレが悪いやつらなんてやっつけてやるからな。
『……ほんと?』
任せろ!
ああ、そうだ。全部俺が……俺が、倒してやる。オマエの敵を、全部……。
俺が守らなきゃ。俺が弟を守らなきゃ。家族を支えるって決めたんだ。
だから、泣かないで。
笑ってくれ、アーサー……。
○
弟不在の間家事を疎かにしていた俺は見事に叱責されることとなった。弟に叱られるのは兄として情けないしみっともないと思うが、それ以上にこうして弟が家にいることの尊さの方がはるかにまさっていた。
「このっ、馬鹿猫っ! 買い物くらい行きなさい!」
振り上げた腕を掴んで弟の動きを止める。オマエが俺に勝てるわけないだろう。ははは、悔しそうな顔しやがって、かわいいやつめ。
街まで買い出しに行った帰り、俺は昔のことを思い出していた。
まだ親父が生きていた頃、弟を連れて街に行った。あれも雪の積もった寒い冬の日だった。ショウウインドウに並んでいたおもちゃにつられて人間用の店に入ってしまい、店主に怒鳴られ大人達に追い駆け回された。あの頃は今よりも獣への偏見が強かったから散々な目に遭った。挙句弟はすっ転んでぎゃんぎゃん泣き出すし、親父にはめちゃくちゃ怒られるし、猫は好奇心で死ぬものなんだなと思った。死ななかったけれど。
思えば、あれが最後に見た親父の怒った顔だったかもしれない。
ひんやりと肌を刺すような風が俺を撫でて行った。
「風が出てきたな」
そう言って俺は弟を振り向いた。親父の作った帽子を発見して無邪気に被って喜んでいた弟は、両手に袋を持っている。
「帽子、でかいんだから飛ばされねえように……」
俺が言い切る前に強い風が俺達の間を吹き抜けていった。そして、弟の頭から帽子を奪い去って行ってしまった。目を丸くした弟は空飛ぶ帽子を見上げている。
「あ」
「何やってんだオマエ」
「父上の作品が!」
弟は手にしていた袋を放り投げ、帽子が飛ばされた方向へ走り出した。袋からぐしゃりという嫌な音がする。
「卵が割れた! おい、待て帽子屋!」
袋を拾い、二つの荷物を抱えながら俺は弟の後を追った。ぶたのしっぽ商店街と家を結ぶ獣道からやや南の方角へずれている。こっちには確か湖があったはずだ。
お袋と一緒に来たことがある。湖畔に座って微笑む彼女の姿を覚えている。今ではすっかり立ち寄ることもなくなった湖だけれど、雪が積もっていてよく見えないな。
帽子を掴んだ弟が嬉々とした様子で振り向いた。
「取った! 兄さん! 取れましたぁ!」
しかし、弟の体は吸い込まれるように後方へと倒れて行った。
「えっ……」
まさか……。
「帽子屋!」
俺は袋を地面に置いてから駆け出したが、間に合わない。水飛沫を上げて弟は凍てつく湖の中に落ちて行った。おそらく雪の所為で境目が分からなくなっていたのだろう。
待っていれば浮かんでくるだろうと思ったが、一向に浮上して来ない。ぷくぷくと泡が上って来ただけだった。あの格好では水を含んで重くなってしまい沈むのか。こうしちゃいられない。俺はコートとジャケット、靴を脱ぎ捨て、大きく息を吸い込む。そして湖に飛び込んだ。
水温は低く、水面に氷が薄く張っているのにも納得だ。弟は気を失っているのか、目を閉じたままどんどん沈んでいく。馬鹿、そのままだと死ぬぞ。俺は弟を抱き留めた。冷たいし苦しいし俺もそろそろ限界だ。しっかりと弟を抱いたまま、急いで浮上して水面に顔を出す。
「っぷは。おい、しっかりしろ。アーサー、目を開けろ」
ぐったりとした弟は呼びかけに答えない。岸まで泳いで行き、弟を引き上げる。びっしょりと濡れた髪が青白い顔に貼り付いていた。手にはしっかりと親父のボーラーハットを握っている。そっと帽子を手から離し、空いた手を握る。怖ろしいくらい冷たくなっていた。おい、死んでねえよな……?
「帽子屋、しっかりしろ」
俺の手に触れる指が小さく動いた。飲み込んでしまったらしい水を吐き出して、ぼんやりとした目で俺を見上げる。
「大丈夫か」
弟はまだ咳き込んでいる。しかし、それはつまり息があるということだ。
「よかった。驚かせるんじゃねえよ、死んだかと思っただろ」
「……兄さん」
溺死を免れた弟だったが、このことが原因で高熱にうなされることになる。いや、原因は湖に落ちたことだけではない。きっと、俺が無理をさせてしまったからだ。俺がだらしないからだ。まだ十分に体力の戻っていない弟に家のことをやらせて、疲れさせてしまったんだ。不甲斐ない兄で本当に申し訳ない。
弟を守るのならば、おそらく俺自身は障害になるのだろう。俺が頼りないから弟は世話を焼くし、そのことで身を削ることになる。俺がいなければ、その分弟は労働をせずに済むのだ。しかしそれでは本質的に弟を守ることにはならない。俺がいなくなったら、その後は誰が弟を敵から守ってやるのだ。だから、弟の苦労の源である俺を消すのは全てを壊した後だ。弟の敵、弟を傷付ける者、弟を否定する者、弟の邪魔をする者、全部俺が消してやる。オマエに依存している、俺自身のことも……。
けれど、そうしたら、弟は悲しむだろうか。きっとあの泣き虫は泣いてしまう。弟を悲しませてはいけない。そんなことをするやつは許さない。だから、俺は傍にいなければならない。いつも同じように悩んで同じ結論に至る。他から守ることが重要なのだ。
まったく、自分で自分に解けない呪いをかけてしまうなんて俺は馬鹿なやつだ。術師ではないのだから実際に何かの力が働いているわけではないはずだが、俺はもうこの呪いから逃れられない。俺は弟を、家族を守るって決めたんだ。家族の敵は、全部俺が殺してやる。失わないように。悲しくならないように。そのために守らなきゃ。失わないように。なくしてしまわないように。だから守ってやらなければならない。失わないように。この手から離れないように。絶対に守らなきゃ。
ルルーがコーカスレースから受け取った薬を飲ませてしばらくすると、幾分か落ち着いたようだった。ルルーが帰った後、ナザリオも「お大事に」と言って帰って行った。しばらくはお茶会もお預けだな。ようやく戻ってこられたのにこれじゃあ、弟がかわいそうでならない。早くよくなってくれよ。
薄く開かれた目がちらりと俺を見た。
「気分はどうだ」
「少し……よくなった、ような……」
俺は弟の額に手を当てる。まだだいぶ熱いな。でも、会話ができるのならよかった。
「夜の七時なんだけどさ、飯って食えそうか?」
「……ん。どう、かな……」
「スープくらいなら飲めるだろ? 何か腹に入れねえと薬も効かねえしよ。さっきもジンジャーティー飲んだだろ」
「分かっ、た……」
「待ってろよ、すぐに持ってくるからな」
ありがとう。という消えそうな声を背に、俺は弟の部屋を出た。慇懃無礼な丁寧語はなりをひそめ、すっかりと弱り切っているようだった。俺のことを「馬鹿猫」と罵る体力もないらしい。
ずっと弟の傍にいて俺も空腹だったから、適当にパンをつまんでスープを飲んだ。弟の分を皿に注いで部屋まで持って行ってやる。盆の上にはスープだけでなく、薬と一緒に水の入ったグラスも載せている。料理は苦手だが、弟がキッチンに立てないのなら俺がやるしかないのだ。この数日間不可解な味のするものばかり食わせてすまない。本当は今日から美味い飯に変わるはずだったのに。
零さないように慎重に歩く。ドアの隙間から明かりが漏れている。
「かわいそうに。すごい熱……」
え?
俺はドアを開ける。
「早く元気になってね。私のかわいいアーサー」
女がベッドの横に立っていた。弟の頭を撫でているように見える。俺が近付くと、女はハッとして振り向いた。長い髪がふわりと広がり、月光に煌めく。
「ニール」
「……な、何で」
女は寂しそうに笑った。水色の瞳が揺れている。
どうしているんだ。なんでここに。弟に何を。駄目だ。このままにしてはおけない。嫌だ。いなくなれ。弟に近付くな。
俺は盆を机に置き、女の右腕を掴んでベッドから引き剥がした。弟は眠っているらしい。
「痛いわ」
「どうしてオマエがここにいる」
「どうして? アーサーのことが心配だからでしょう?」
自分がここにいるのは当然のことであるというように女は言う。
「なんで風邪ひいて寝込んでるって知ってるんだ」
「それは言えないわ」
「出て行け」
俺は女の腕を引っ張る。
「今すぐ出て行け! ここはオマエの来るところじゃない! 二度と現れるな!」
「酷いこと言うのね」
「失せろ!」
女は左手を上げて俺に触れた。耳の付け根の辺りを撫でられる。
「なんっ、ぅっ……」
やめろ、撫でるな。力が抜ける。弱点を見抜かれているのか。いや、当たり前か。
「ふふふ。私のかわいいニール」
俺の腕を振り払い、女はにやりと笑う。改めて俺の頭を撫でてから部屋を出て行った。玄関のドアの開閉音が聞こえる。
弟が小さく身じろぎをして目を開けた。ゆっくりと上体を起こし、不思議そうに俺を見る。
「話し声が聞こえた気がしたけど、誰か来てたの?」
守らなきゃ。弟のことを。
「い、いや。気のせいじゃないか」
弟は顔にかかっている髪に触れる。
「なんだか、とても懐かしい感じがしたよ、兄さん」
「……夢でも見てたんじゃねえか」
「そうかな」
「ほら、スープ持ってきたからさっさと飲んで、薬飲んで寝ろ」
スープを一口飲んで、弟はほっと一息ついた。
「変な味がする」
「悪かったな不味くて」
「でも温かい。兄さんがいてくれてよかった。こんな状態で一人だったら、僕はきっと何もできないから……」
ああ、俺はオマエの傍にいるよ。だから早く元気になって、笑ってくれ。
弟の看病をしながら眠ってしまったらしく、ベッドに突っ伏した状態で目を覚ました。弟の額に触れてみるとまだ少し熱いが、昨夜と比べるとだいぶ熱は下がったようだ。
カーテンの外は明るい。時計を見ると十時を指している。もうこんな時間か。ちょっと寝すぎちまったな。俺は体を起こして部屋を出た。
顔を洗い、お湯を沸かしながら朝食の準備をしていると玄関のノッカーが鳴らされた。割ろうとしていた卵を置いて、玄関へ向かう。
訪ねてきたのはキャシーとジェラルドだった。ジェラルドは防寒対策ばっちりな重装備だが、キャシーは前を開けたコートの中に肌色がものすごく見えている。
「悪い、今起きたところだから眠いんだ。用があるなら簡単に済ませてくれるか」
「えー、チェシャ猫さん寝坊助だなあ」
「うるせえ」
「チェシャ猫、帽子屋はいるか」
家の奥を窺うようにしてジェラルドが言う。
「アイツなら風邪ひいて寝込んでるよ」
「風邪を……?」
「ほら、昨日の昼間オマエと会っただろ。その帰りに湖に落ちたんだよ」
「そう、なのか……」
キャシーとジェラルドは顔を見合わせる。ジェラルドの鉄仮面はびくともしないが、キャシーは困ったような表情を浮かべている。
「何かあったのか?」
「うっ。ううん、何もないわ! えっと……。帽子屋さん、見た目はトランプなんだからチェスには気を付けてね!」
「あん? 何を今更……。わざわざそんなこと言いに来たのか?」
「かかかかかか確認だよー!」
キャシーは手をばたばたさせて後退る。怪しいことこの上ないが今はそんなこと気にしている状況ではない。さっさと二人を追い返して弟に朝の分の薬を飲ませてやらないと。
「用が済んだなら帰ってくれるか」
俺はドアノブに手を掛ける。閉めようとすると、ジェラルドに阻まれた。ドアに手を掛け、足を玄関に滑り込ませる。そして俺を真っ直ぐに見た。
「北の森でパトロール中に黒い龍のような怪物を見た。近くに飾りの付いたシルクハットを被ったやつがいたから確認に来たんだ」
「……そうか。教えてくれてありがとな」
ジェラルドが身を引いたので俺はドアを閉めた。
謎の怪物と一緒にいる帽子の男……。
オマエは誰だ。
オマエは弟を貶めようとしているのか。それとも偶然似た格好なだけなのか。後者なら見逃してやってもいい。しかし、前者だったら絶対に許さない。
弟の敵、弟を傷付ける者、弟を否定する者、弟の邪魔をする者、全部俺が消してやる。
俺がこの手で殺してやる。




