第九十面 昔には戻れないよ
あるドミノの話。
久し振りに姿を見た。元気そうだった。
ほっとすると同時に、なんだかもやもやした。
どうして今まで姿を現さなかったの? どうしていきなり現れたの? 僕に会いに来てはくれないのに。
ねえ、クロヴィス。
○
彼に会ったことは両親には言っていない。言ったらきっと余計な心配をかけてしまう。もう忘れてしまおうとすら思っているのに。そうだ、忘れてしまえばいい。きっとその方がいい。
「お嬢様、おでかけですか?」
「うん。お茶会に」
僕が答えると、家政婦はにこやかにほほ笑んだ。
「お気をつけて」
僕知ってるよ。その笑顔は作り笑いなんだよね。
廊下の角を曲がった時、家政婦達がひそひそと話している声が後ろから聞こえてきた。
「お嬢様ったら、いつもいつもお茶会お茶会って」
「男と遊んでいるって聞いたわよ」
「嫌よねえ、あんな男みたいな格好して」
「もう少しレディとしてのたしなみを……」
「遊び相手の男って、確かこの前捕まったんじゃ……」
「ええー、嫌ねえ」
僕がどんな服を着て、どこで誰とお茶をしようが自由でしょ。放っておいてよ。女の子らしくしろって、女の子がこういう格好しちゃダメって決まりなんかないんだからいいじゃないか。勝手な理想を押し付けるな。僕はおまえ達のお人形じゃない。
現実から逃げているのはアリス君じゃなくて僕なのかもしれない。あんな家にいたくない。小さい頃は自由なんてなかったし、ふりふりの服ばかり着せられた。僕は……「僕」は小さな抵抗だったけれど、「そんな喋り方いけません」と言われた。知るかそんなの。
いつものように屋敷を出て、真っ直ぐに猫と帽子屋の家に向かう。
二人のことは好き。僕を初めて見た時にも変な顔しなかったし、お茶を飲ませてくれた。美味しかった。いつも優しいし、一緒にいると楽しい。
家に着くと、ドアの前にナザリオが佇んでいた。寒そうに両手を揉んでいる。
「ナザリオ」
「あ、ルルー」
「二人は?」
「出かけてるみたいなんだ。時間的に、もう戻ってくると思うけど」
ナザリオは手をもみもみしている。
「手袋どうしたの?」
「あうう、落としちゃったみたいで……」
「もう、ドジっ子なんだから。僕の貸してあげるよ。はい」
僕は自分の手から手袋を外し、ナザリオに渡す。
「僕は大丈夫だから」
「はわ、ありがとう」
ナザリオと一緒にしばらく待っていると、ニールとアーサーが袋を手に戻ってきた。買い物に行っていたみたいだね。
二人は揃ってびしょ濡れだった。何があったのか訊ねると、湖に落ちたのだという。雪が積もっていて地形が分かりにくくなっているもんね、気を付けなきゃ。
びしょ濡れの二人が着替えて、アリス君もやって来て、ようやくお茶にできると思った時だった。
「……帽子屋?」
アーサーがニールに倒れ込んだ。アリス君に言われるままおでこに手を当てたニールが慌てた様子で僕達を振り向く。
「おい、ルルー、手を貸せ。部屋まで運ぶぞ」
「そんなに酷いの」
「すごい熱だ」
僕は暖炉の傍へ駆けよる。ニールに寄り掛かっているアーサーは苦しそうな息を漏らしている。ぼんやりとどこかを見上げて、縋るようにニールの服の袖を掴んでいた。
ナザリオとアリス君に氷枕の準備を頼み、僕とニールはアーサーを部屋まで運ぶ。ベッドに寝かせて布団を掛けてあげたタイミングでアリス君が氷枕を手に部屋に入って来た。枕を取り換えてあげて、ニールはアーサーの前髪をそっと撫でる。
「無理させちまったのかもしれない……。ごめんな」
「ナザリオがお医者さんを呼びに行ってます。……あの。ぼく帰った方がいいんでしょうか」
アリス君は姿見をちらりと見る。
「アーサーさんの具合がよくなるまで、来ない方がいいですよね。正直なところ風邪うつりたくないし……」
「そうだな。姿見の前に何か置いておくよ。帽子屋が元気になったらそれをよけるからさ」
「分かりました」
頷いて、アリス君は姿見に片足を入れる。
「お大事に」
そう言い残して鏡の向こう側へ消えて行った。
しばらくしてお医者さんがやって来た。大掃除の時に間違えて薬を捨ててしまったというニールに対して呆れた顔をしながら、薬ならコーカスレースが持っているはずだという。
ナザリオは病院まで走って疲れて眠っているし、ニールはアーサーの傍にいた方がいいだろう。
「僕がコーカスレースまで行ってくるよ。先生、そのお薬を飲ませれば大丈夫なんだよね」
「ただの風邪だからね」
「よし、行ってくるね」
外に出てから手袋をナザリオに渡したままだと気が付いた。仕方ない、ちょっと冷えるけどこのまま行こう。家に戻っていたら時間が勿体ないからね。
森の中を北東の方向へ進み岩の広場を目指す。
無事に薬を受け取り、僕は家へ急ぐ。早く届けてあげないと。
しかし、僕の足は止まってしまった。自分が今どんな顔をしているのか分からない。
「う、うぅ……。ん?」
コートのフードを深く被った男が木に寄り掛かって座っていた。驚いた顔で僕を見ている。そうか、きっと僕も今そんな顔だ。
男は左肩を押さえていた。血が滲んでいるのが見える。
「怪我、してるの……クロヴィス……」
クロヴィスの呼吸は荒い。腕を伝った血が指先から雪に落ちていた。結構出血があるみたいだ。
「昔みたいに呼んでくれてもいいんだよ、ルルー」
「……昔には戻れないよ。君も、僕も」
僕はクロヴィスに歩み寄り、コートのボタンを外した。そしてシャツの首に留めていたリボンを解き、引き裂く。
「押さえておかないと」
傷口を覆うようにリボンを結び付ける。そんな僕のことをクロヴィスは不思議そうに見ていた。リボンを結んで離そうとした手を掴まれる。手袋をしていなかった僕にとっては、とても暖かなものだった。けれど手が震えてしまう。
少し長めの栗毛の奥から、青い瞳が悲しそうに僕を見る。目を合わせるのが怖くて僕はすぐに視線を逸らしてしまった。まだ手は離してくれない。
「ワタシに会ったこと、言ったのか」
「言ってないよ。知られたくないでしょ、クロヴィスも」
「はは、そうか……」
手を離し、目を閉じる。
「それならよかった……」
「早くちゃんと手当てしないと駄目だよ。お医者さんに診てもらおう?」
「君が気にすることはない。迎えが来るから大丈夫……」
「でも」
目を開いて、クロヴィスは僕を見上げた。右手を上げて僕が手にした袋を指差す。
「コーカスレースのロゴが付いている。何か大事なものを運んでいる途中なんじゃないかな?」
「あ、これは……」
「早く届けなよ。ワタシは大丈夫だから」
貰った薬を早くアーサーに届けてあげなきゃ。僕がこうしている間にも熱が上がっているかもしれない。苦しんでいるかもしれない。でも、負傷しているクロヴィスを放っておくなんてできない。
「君はワタシが怖いんだろう?」
「ち、ちがっ……」
「さっきから震えているよ。子兎ちゃん」
止まらない。体の震えが。大丈夫だと思おうとしても、心のどこかで恐怖を感じている。
「ごめん……。ごめんね、クロヴィス……」
「いいよ、別に」
「ね、ねえ。本当にお迎えが来てくれるんだよね? ここで待っていればお友達が助けに来てくれるんだよね?」
「ああ、そうだよ」
「それなら、後はそのお友達に任せるよ。……じゃあね」
逃げるようにその場を離れた。できることなら僕の手で助けてあげたい。けれど、もう昔とは違うんだ。僕はすっかり彼のことを怖い存在だと刷り込まれてしまっているし、彼も僕が近付くことは好んでいないように見えた。
猫と帽子屋の家に戻った僕を出迎えてくれたナザリオが目を丸くした。
「ルルー、泣いてるの?」
「えっ」
顔に手を当てると、指先が濡れた。
「アーサーのことそんなに心配なんだね」
「……あ、ああ、そう、だね」
違う。この涙はそういう意味じゃない。きっと。
僕は涙を拭ってアーサーの部屋に向かう。枕元に椅子を置いて、ニールが船を漕いでいた。
「ニール、起きて」
「ん……。あ。お帰り、ルルー。薬は?」
「はい、どうぞ」
「ありがとな」
薬を受け取ると、ニールはほっとした顔になった。本当にニールはアーサーのことを大事に思っているよね。いいお兄ちゃんだよね、ニールって。
姿見の前には小振りの棚が置かれていて通れないようになっている。アリス君はしばらく来られそうにないな。アーサー、早くよくなるといいな。
「僕、今日はもう帰るね」
「おう、またな」
帰りたくないけど帰らなきゃ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
僕が通りすぎた後ろで家政婦達がひそひそと話す。わざと聞こえるように言ってるんだよね。嫌な人達。でもこの人達が掃除とかやってくれてるんだよね。いなくなると困るか。パパンもママンももっといい人雇えばいいのに。いや、本当にヒトが来たら困るんだけどさ。
自室に入り、コートを脱ぐ。視界に何か映ったので手を見ると、指先に血が薄っすら付いていた。リボンを結んであげた時に付いてしまったのかもしれない。この程度なら薬の袋には付いていないだろう。付いていたらニールに「どうしたんだ」って問い詰められただろうし。
机の上に写真立てがある。お掃除の人が勝手に掃除に来て勝手に起こしちゃったんだな。僕は写真立てを倒す。写っているのは、忘れたいけれど捨てられないツーショット……。




