第八面 本はいいよ、とてもね
ハンカチの持ち主はまだ現れていない。交番のお巡りさん曰く、三ヶ月経っても持ち主が現れなかったら落し物は拾った人がもらえるらしい。女の人のハンカチもらっても困るけど……。
「神山君、だね。三ヶ月経ったら電話しようか?」
「え……」
お巡りさんは先日ぼくが書いた書類を見ながら、ふんふん頷いている。このままだと三ヶ月経った時あの白いハンカチはぼくのものになる。別にいいです。と言おうとしたけれど、お巡りさんは手に持っていたバインダーを閉じてしまった。
「わざわざ確認ありがとうね。見付かった時にも連絡させてもらうよ」
「あ、はい……」
「えーと、ん? 中学生? だよね……。どうしてこんな時間に……」
軽く一礼して、ぼくは交番を走り出た。
ちょっと、君ぃ! というお巡りさんの声を背後に聞きながら、とてとて走る。
油断していた。こんな平日の昼間に中学生がぶらぶらしているだけで怪しいのに、自分から交番に飛び込むなんて無謀すぎる。どうしたの、と聞かれるに決まっているじゃあないか。
お巡りさんはさすがに追い駆けてはこない。ここまで来ればいいだろう。
この前、白い女の人を見たのはこの辺りかな。
いつもの本屋さんが少し先に見える。本を買った帰りに見たのだからこの辺りで間違いないだろう。
スーパーのレジ袋を持った親子が通り過ぎていく。幼稚園児かな、両手で頑張って袋を持っている。かわいいなあ。
あの時は女の人を追い駆けていたから、道順の確認なんてしていない。路地に入ってうろうろしていれば骨董品店に辿り着くだろうか。
うーん、さっき交番で道を聞けばよかったな。
――アリス。
またあの声だ。鏡から聞こえた声。この声に呼ばれてぼくはワンダーランドに飛び込んだ。
――こっちよ。
誰なの……。
声のする方へ歩き出す。
誰の声なのか分からない。けれど、この声に導かれるまま進めば、辿り着けるような、そんな気がした。
時計を見つめる白ウサギを追い駆けた時のアリスは、何を思っていたのだろう。物語に描かれていない裏側で、登場人物たちは何を思うのか。あの時、衣装箪笥を開けた四人兄弟は、あの時、本を手に入れた少年は、あの時、黄色いレンガの道に降り立った少女は……。
本ばかり読んでいるからか、時々そんなことを考える。本の奥には、きっと作者すら知らない世界があるんだろうな。
本はいいよ、とてもね。
――アリス。
呼ばれるまま誘われるまま、ぼくは路地に迷い込む。
絵本に出てくるような街並み。
ここだ。
今日は帰るときに道を確認していこう。
順々に建物を確認していく。パン屋さん。お花屋さん。お家。お家。靴屋さん。お家。
商店街か何かなんだろうか。「○○通り」という看板らしきものは見えないけれど……。後でお母さんに聞いてみようかな。
背中に小銭を背負ったカエルの置物が見えた。あそこだ。
ドアを開けると、上に付いたベルがリロンリロンと鳴った。相変わらずお店の中は薄暗い。仮面をしたピエロみたいな人形が「OPEN」と書かれたプレートを持っているけれど、これは中じゃなくて外に置くべきなのではないだろうか。
悪魔の形をした脚を持つテーブルの上に懐中時計が置いてある。
振り子式の置時計が時を刻む音が店内に響く。
「すみませーん」
返事はない。おじいさんはいないのか、この前のように突然現れるのか。
少し店内を見て回ろうかな。
お客さんはあまり来ないと言っていたけれど、前回と若干品揃えが異なる気がする。売れているというわけではなく、おじいさんが並べ替えているのかな。
水瓶を掲げる人魚の置物の影で何かが動いた。
「おや、お客さんかな」
ロッキングチェアがあったらしく、おじいさんが体を起こす。
「こんにちは」
「おやおや、この前の……」
おじいさんは老眼鏡をかけ直す。
「あの、先日頂いた手鏡なんですけど」
「何か不都合な点でもあったかな」
「いえ、そういうわけでは……」
何と言えばいいのかな。
「あの鏡って、どこで仕入れた物なんですか? 変わったデザインだなあって思って……」
おじいさんは顎鬚をわしわしと触る。板垣退助や大久保利通みたいと思ったけれど、伊藤博文もありかもしれない。
「あれはねえ……確か、頂き物なんだよ。買い取りですかって聞いたら、タダでいいから店に置いてくれと言われてね」
「誰が持って来たんですか」
おじいさんは髭の中に埋めた指をふるふる動かす。誘われて髭がふよふよ動いた。髭だけ別の生き物みたいだ。
「ごめんねえ、結構前だったからね、ちょっと覚えてないなあ」
「……そうですか」
「よかったら店の中でも見ていっておくれ。物達も喜ぶから」
帰りに声はかけなくていいよ。と言って、おじいさんはロッキングチェアに身を預ける。
ワンダーランドから失われた手鏡。誰の手に渡り、どうやってこのお店に辿り着いたのだろう。
壁からぶら下がる異国情緒溢れるタペストリー。そこに描かれたお面の目がこちらを見ている。凝視してくるタペストリーから目を逸らし、ぼくはお店の奥に進む。
入口の近くにあったものとは違う、古びた置時計があった。振り子は錆び付いているのか動いていない。文字盤は二十七分を示している。長針はないようだ。
近くにはヒビの入った額に入れられたよく分からない絵画もある。
片眼のとれた球体関節人形が床に転がっていた。拾って、近くにあった棚の上に置いてあげる。お礼をするかのように首ががくりと動いたけれど、怖いから感謝してるにしてもそういう動きはしないでほしい。
お店はどこまで続いているのか、分厚いカーテンがかかっていてこれ以上先の様子は分からない。このまま進んだら、それこそ不思議な国に辿り着いてしまいそうだ。
帰ろうと引き返し、おじいさんの横を過ぎる。
「さようなら」
声はかけなくていいとのことだったけれど、かけておこう。眠っているのか、返事はない。
悪魔の脚のテーブルには何も置かれていなかった。来た時には懐中時計があったような気がするけれど、気のせいだったのかな。
振り子時計が時を刻む音と、おじいさんの小さないびきが聞こえる。
ドアを開けると、上に付けられたベルがリロンリロンと鳴った。