第八十七面 落とすんじゃねえぞ
あるドミノの話。
紅茶を飲みながら過ごす穏やかな時間こそ生きる喜びだ。この嗜好飲料ならぬ至高飲料があれば私の心も穏やかでいられる。その大切さを、改めて知った。
もう二度と、あのような場所であのような生活を送りたくはない。体罰があるわけではない。拷問が行われるわけでもない。食事はまあまあだった。しかし、一番の問題は紅茶がないことだ。あれほど長い期間紅茶無しの生活を送っていると、いつか紅茶不足で死んでしまうのではないだろうかと思った。
さあ、今日もティータイムだ。
「おや?」
棚に入れてあったはずの茶葉が見当たらない。私が不在の間、皆が触ってどこかへ動かしてしまったのかもしれない。
「ジンジャーティーを知りませんか?」
リビングへ行って訊ねると、ソファで本を読んでいた兄さんの耳がぴくりと動いた。顔を上げてこちらを見る。
「今日は一段と冷えるので、ジンジャーティーでも淹れて暖まろうと思うのです」
「おう、いいんじゃねえか」
「しかし茶葉が見当たらないのです」
「使い切っちまったかもしれねえなぁ。オマエがいない間に」
残りは少なかったから、使い切ってしまっていてもおかしくはない。しかし、追加を買っていなかったということか。仕方ない別のお茶にしよう。
キッチンへ戻り戸棚に手を伸ばす。
「……私がいない間に買い物へ行きましたか?」
紅茶も緑茶もコーヒーもココアも、何から何まで在庫がほとんどない。嫌な予感がして菓子類の入っている棚を開けると、そこもほとんど空に等しかった。そして追い打ちをかけるかのように、小麦粉や砂糖、卵も減っていることが発覚した。
知っています。ええ、知っていますとも。兄さんは家事が苦手なんですよね。ですが買い物くらい行けますよねえ?
「馬鹿猫っ! 食材がありませんっ!」
リビングへ駆け込み、読んでいた本を取り上げる。
「何ですか! あれは!」
「うわ! 悪い悪い! それどころじゃなかったんだって!」
「言い訳なんて聞きたくありません!」
「オマエのことが心配で心配で、買い物に行っている余裕なんてなかったんだよ!」
「兄さんっ……そんなに私を……。って、違うだろう! このっ、馬鹿猫っ! 買い物くらい行きなさい!」
本を振り上げて殴り掛かると、腕を掴まれてしまった。ぶつかる直前で本が止まる。振り払おうとしたが私の腕は動かない。やはり兄さんの力には勝てないか。
「離してください。買い物に行ってきます。ルルーやナザリオが来る前に準備を整えておかなくては」
「俺も行こうか」
兄さんは私の腕を離してくれない。
「まだ体力が戻っていないだろうし、買ってくる物も多いだろう」
「誰の所為ですかね」
足りないものを全て買った場合、私一人で持てる量でないのは想像に難くない。兄さんと分担すれば私の持つ量が減る。確かにそれが最善策か。
「分かりました。ではまず、何が足りないのか確認しましょう」
そこでようやく兄さんが手を離してくれた。本をテーブルに置き、キッチンへ向かう。
紅茶はひとまず五種ほどあればいいだろう。ジンジャーティーを忘れないようにしなければ。緑茶は二種。ココア。コーヒー。後は茶菓子を数種類。それと、小麦粉、砂糖、卵。どうやら塩や胡椒も随分と減っているらしい。確認をしてみると野菜もない。
家に帰ってきてから数日は兄さんが食事を用意してくれていた。不可解な味のする兄さんの料理を食べていると調味料が少ないことにも気が付かなかった。こうしてキッチンに立ってようやくクロックフォード家の胃袋の危機に気が付いたのだ。もっと早く調子を戻すことができればよかった。いや、これでももっと遅くなるよりはよかったか。
確認を終え、私は部屋に行き身支度を整える。コートを羽織り、箪笥の上に置いてある箱を手に取る。久々に外に出るのだ。折角だからこれを被って行こう。兄さんにも見せてあげたいし。
廊下に出ると帽子を被った兄さんが待っていた。鍔に手をやり、少し深く被り直す。
「結構街の中歩くだろ。まあ、たまにはこうしてさ。どうだ? 耳、隠れてるか?」
「……尻尾はみ出てますよ」
「え、マジか」
兄さんはコートの裾を整える。母上が愛用していたものと同じデザインの帽子は、猫耳を違和感なく隠すことのできるものだ。父上の遺した型紙を利用して私が作ったものだが、我ながらいい出来だと思う。
「この間はそのまま来ていましたよね、裁判所に」
「そんなの気にしてる場合じゃなかったんだって。……その箱は?」
「ふふふ。見てください! 馬鹿猫、括目せよ!」
私は箱を開ける。中に入っているのは黒いボーラーハットだ。小さな時計のモチーフがくっ付いている。
「年末に大掃除をしていて見付けたのです」
箱から帽子を取り出し、兄さんに手渡す。兄さんは興味深そうに帽子の内側を覗き込んだ。作成者のサインの刺繍を探しているのだろう。
「ユーサリウス・クロックフォード……。親父のか!」
「ええ。物置の奥に残っていたようです」
父上が作った帽子の中で家に残っているものは少ない。ほとんどオーダーメイドで作るため、在庫というものがあまりないのだ。残っていたものも、その多くが光る蝙蝠を探す資金に変えられ、また、父上を失い途方に暮れた母上が「あの人のことは忘れる」などと言って売りさばいたことにより数を減らした。今は型紙しか残っていないものも多く、見本がないので私には立体構造がよく分からず再現できないものもある。
懐かしそうに兄さんは帽子を見ている。
「あの、兄さん。私、その帽子被ってみてもいいですか?」
「親父の作った帽子はなるべく外に出さないで保存しておきたいんだがな」
「分かっています。ですが……」
「いいよ。一度も被られねえんじゃあ、帽子がかわいそうだもんな」
そう言って兄さんは私の頭に帽子を載せた。
「ちょっとでかいか?」
見付けたボーラーハットは私の頭には少々大きいようだった。
「深く被れば大丈夫かと」
「落とすんじゃねえぞ」
箱をリビングに置き、私達は家を出た。
必要なものを買い揃え帰路に着く。釈放されてから外に出るのは初めてで、知らないうちに積雪が増えていた。滑らないように気を付けないといけないな。まだ感覚が完全に戻ったわけではないのだから。
前方を行く兄さんの後ろ姿を見ていると幼き日のことを思い出した。
まだ父上が健在だった頃、兄さんと二人でこっそり街へ遊びに行ったことがあった。あれも雪が深く積もった冬の日だった。確か、兄さんが人間向けの店に入ってしまい追い出された。あの頃は今よりも獣への偏見が強かったので、大人達に追い掛け回されたのだ。その時私は凍った水溜りで足を滑らせて転び、大泣きした。もう歩けないと泣き喚く私のことを、兄さんがおぶって家まで連れて行ってくれたのだったっけ。
その後父上にこっぴどく叱られた。「オレが無理やり連れて行ったんだ」と兄さんは私のことを庇ってくれたけれど、私も興味があって付いて行ったのだ。正直に申し出ると、父上は私の頭をぽかりと叩いた。後にも先にも、父上が私に手を上げたのはあの時だけだった。いつもいつも、兄さんが庇ってくれていたから。それが申し訳なくて、あの時は正直に言ったのだ。けれどそれが、最後に見る父上の怒った顔になるとは当時は思いもしなかった。もう一度怒る前に、あの人は私達の前から姿を消した。
「風が出てきたな」
そう言った兄さんが立ち止まって振り向く。
「帽子、でかいんだから飛ばされねえように……」
一陣の風が吹き抜けた。買って来た食材がたっぷり入った袋を両手で抱えていた私は動くことができなかった。押さえる間もなく、帽子が吹き飛ばされる。
「あ」
「何やってんだオマエ」
「父上の作品が!」
私は袋を放り投げ、帽子が飛ばされた方へ駆け出した。
「卵が割れた! おい、待て帽子屋!」
しばらく高いところを飛んでいた帽子は、ふわふわと漂いながら徐々に落下してくる。手を伸ばせば届きそうだ。失うわけにはいかない。父上の作品を、この手に……。
「取った! 兄さん! 取れましたぁ!」
振り向いた時、足元の雪が崩れた。自分の体が後方へ引っ張られるのを感じる。
「えっ……」
雪が積もっていたために境目が分からなくなっていたようだ。私の足は湖に張った氷を踏み抜いている。
「帽子屋!」
兄さんが走って来て手を伸ばしたが、間に合いそうにない。父上のボーラーハットを手にしたまま、私は凍てつく湖の中に落ちた。
水を含んだコートが重い。体が沈んでいく。吐き出した空気が上って行くのが見えた。落ちる。感覚が失われていく。冷たさも苦しさも感じない。
視界の端で何かが光った。底の方に何かがあるのだろうか。しかし、それを確認することはできない。何だろうと思っているうちに、私は意識を手放した。その直前、誰かに抱きかかえられたような気がした。
「帽子屋、しっかりしろ」
「んぐっ、げほっ……うえ……」
「大丈夫か」
苦しい。感覚が戻っている。私は助かったのか。
「よかった。驚かせるんじゃねえよ、死んだかと思っただろ」
「……兄さん」
湖の岸辺に横たわっていた。ほっとした様子で私を見下ろす兄さんのワイシャツはぐっしょりと濡れていて、髪からは雫が滴っている。
「コート脱げよ、そんな濡れたの着てると余計冷えちまうぞ」
代わりに兄さんのジャケットとコートを重ねて羽織ることにした。自分は平気だからと兄さんは笑っている。
「早く帰るぞ」
「帽子は」
「ちゃんとあるよ。オマエ、ぎゅっと掴んで手放さなかったみたいだからな」
濡れた私のコートと共に、兄さんはボーラーハットを持っている。型崩れしないように気を付けながら乾かせば問題はなさそうだ。放り出されていた袋を抱え、家へと続く道へ戻る。
家に着くと、玄関の前でルルーとナザリオが待っていた。びしょ濡れの私達を見て仰天する。二人にはリビングで待ってもらい、水気を取って着替えてからお茶にすることとしよう。
私がリビングへ戻ると、既に兄さんとルルーが準備をしていた。ナザリオは枕を抱えてソファで横になっている。その様子をぼんやり見ていると後ろから声をかけられた。アリス君だ。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
アリス君は不思議そうに私のことを見上げる。
「アーサーさん、ちょっと顔赤くないですか?」
「ああ、買い物から戻ったばかりなのです。外は寒かったので」
温まろう。私は暖炉の傍に向かう。しばらく暖をとっていると、だんだん体が熱くなってきた。これでようやく温まったか。しかし、なぜか寒気がする。
「帽子屋、紅茶淹れたけどこっちで飲むだろ?」
熱いのに寒い。
「……帽子屋?」
体から力が抜けた。兄さんに受け止められる。
「おい、どうした」
「体が……」
「ニールさん。もしかしてアーサーさん、熱があるんじゃないですか? 顔赤かったし」
アリス君に言われ、兄さんが私の額に手を当てた。
「うわ、結構熱いな」
まだ体力が戻り切っていないのに張り切って買い物へ行ったからだろうか。それとも、湖に落ちたからだろうか。
皆の声が、徐々に遠くなっていく。




