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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十二冊目 セバストポリ
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第八十六面 落ち着きたまえ

あるドミノの話。

 目が覚めた時、辺り一面荒れ果てていた。家々は崩れ、石があちらこちらに散らばり、人々が倒れていた。


 口の中では血の味がしていた。自分も危ない状況なのかもしれない。しかし、その想像に反して自分の体は動いたのだった。それでもやはり体中に痛みがあるようだった。


「マーマ? パーパ?」


 返事はない。


 降りしきる灰色の粉の中、片足を引き摺って歩く。山から煙が立ち昇っているのが見えた。いつもより量が多く、黒い。


 肉の焼ける臭いがする。


 黒い羽根が飛び散って、地面にこびり付いていた。


 そして、瓦礫の中で焼け焦げている両親を見付けた。





          ○





 砂浜に冷たい潮風が吹き付ける。打付けられた波から飛沫が上がり、海水が顔にかかった。水滴を拭い、波打ち際から少し離れる。丁度いい岩があったのでその上に腰を下ろすことにした。


「オーナー」


 後ろから声をかけられた。背を向けたまま黙っていると、私の左隣に彼は腰を下ろした。眼鏡の奥の目が呆れたように歪められる。


「返事くらいしたまえよ、イグナート」

「……島を見ていた」

「プラーミスクか」


 海の向こう、対岸に島が見える。南東の国・プラーミスク。火山国家の名が示す通り、数多くの火山を抱え、常に煙を噴き出し続けている。


 小さく欠伸をしてから、ハワードはごまかすように眼鏡のブリッジを押し上げた。


「すまない、とても眠くて……」

「昨日も寝ていないのか」

「誰の所為だと思っているんだい?」

「誰だろうね」

「全く君も人使いが荒い」

「ははははは」


 頭を叩かれた。


「笑い事じゃないだろ。私の体を何だと思っているんだ」

「私は君を信頼しているんだよ、ハワード」

「たまには自分で書類整理をしたまえ」

「事務仕事は君の方が得意だろう。二徹お疲れ様」

「三徹だよ。気を抜いたら眠ってしまいそうだ。けれどどこかの誰かさんが仕事を任せてくるから気を抜けない」


 いらついた様子のハワードがこちらを睨んできた。彼を怒らせるのは良策ではない。普段穏やかで真面目な人物ほど、怒りに満ちた際の危険度は高いと聞く。


 私は爆発しそうな梟から目を逸らして海を向いた。プラーミスクの大地が見えている。ここからでも煙が見える。最も海側の山だろう。


「……君は事務所に残っていた方がよかったんじゃないか」


 怒りを消し去ったらしいハワードが心配そうに聞いてきた。


 ジャバウォックに似た謎の怪物が出現した場として、南東の浜辺の調査をすることになった。三人ずつで分担し、北東の森、南東の浜辺、南西の荒れ地を調べることになり、私はくじ引きで南東の担当になったのだ。最初は躊躇ったが、くじで決めようと言ったのは私なのだから後から文句を言うことなどできない。駄々をこねてはオーナーとしての沽券に関わる。


 運がよかったのは、同じく南東の浜辺の担当になったのがハワードとチャドじいさんであったということだ。ティリー、セリーナ、グスタフじいさんが北東の森。レベッカ、エルシー、ヘレンが南西の荒れ地。私はくじ運がないと同時に、巡り合わせに運があるらしい。


「平気だよ」

「そうか、それなら構わないけれど……。チャドじいさんがお茶にしようと言っていたよ」


 私は腕時計を確認する。午後三時半か。


 岩から飛び降り、チャドじいさんの待っている食堂を目指す。後からハワードが付いてくる。


『Sea turtle's Cafeteria』

『OPEN』


 ドアを開けると、取り付けられているベルがルラランと鳴った。店主が盆を手に出てくる。


「いらっしゃいま……。あー! お帰りなさい! おじいちゃん、奥で待ってますよ」


 パーヴァリ・ヒマネン。南東の浜辺で食堂を営むウミガメモドキ。コーカスレースの名前を出した途端、二階の部屋を使ってもいいと言い出したのでこの数日間世話になっている。


 パーヴァリに案内されて店の奥に進むと、チャドじいさんが席に着いてコーヒーを飲んでいた。私とハワードも席に着く。私がコーヒー、ハワードが紅茶を注文すると、パーヴァリは厨房の方へ引っ込んでいった。


 チャドじいさんは両手を温めるようにコーヒーカップを持っていた。店内では暖炉が燃えているが、何だか心許ない燃え方をしている。私も潮風を浴びて少し体が冷えているので早く温まりたいものだ。


「今日は晴れているから対岸がよく見えただろう」


 眉尻を下げてチャドじいさんは言う。


「ええ、噴煙が上がっていました」

「本当によかったのかい、ここの担当で」

「構いませんよ」


 パーヴァリがカップを二つと、シフォンケーキを運んで来た。南西と北に畑を持つグリフォンから食材が提供されているそうだが、怪物に南西の畑を荒らされたため今年の夏は危ないかもしれないとパーヴァリは語っていた。そうでなくとも毎年北の畑が土砂崩れで潰れているというが、今年は例年よりも食材不足になるだろう。


 私はコーヒーを飲む。やはり何も入れずにブラックで飲むと豆の味や香りが引き立つ。シフォンケーキも柔らかくて美味しい。


 顔を上げると心配そうな顔をしているチャドじいさんと目が合った。


「不安だったらいつでも儂にいいなさい」

「平気ですよ、父さん」

「この後はどうするんだい」

「ハワードと一緒にもう少し向こうの方まで歩いてみます」


 待機ばかりですまないね、とチャドじいさんは苦笑した。老体に無理はさせられない。ここまで一緒に来てくれただけで十分だ。





「ぅああああああああぁぁっ!」


 平気だと言った。嘘になった。


「イグナート!」


 寒い夜なのに汗だくになっていた。呼吸が乱れていて苦しい。


「ぁ、ああ、嫌だ、あ、熱い、熱い、怖い、熱い、熱いっ……!」

「イグナート、落ち着きたまえ!」

「ああああああああっ!」

「落ち着け!」


 肩を掴まれた。


「落ち着くんだ、イグナート。私を見ろ。私が分かるか」

「あ、う、は、ハワー、ド……」


 深呼吸をして息を整える。それでもまだ心臓が激しく脈打っていた。背中をさすろうとしてくれたのだろうか、ハワードの手が翼に触れた。


「触るな!」


 振り払おうとして出した手がハワードの眼鏡を飛ばした。眼鏡を拾おうとせず、ハワードは私の手を掴む。


「落ち着け、イグナート。チャドじいさんが目を覚ましてしまう」

「今何時だ……」

「午前二時、かな」

「……昔の夢を見た」


 最悪だ。荒れ果てた景色が目に焼き付いているだけでなく、焼け焦げた臭いがリアルに鼻に残っている。気持ち悪い。口の中に広がる血の味すらも思い出されている。不快だ。


「シャワー、浴びてくる……」

「大丈夫か」

「すぐ戻るさ。イーハトヴの諺に烏の行水というものがあるだろう?」


 足音でチャドじいさんを起こさないようにしながら私は廊下に出た。パーヴァリが客間はここしかないと言ったので三人で一部屋を使っているが、むしろそれでよかったかもしれない。一人だったら、どうなっていたのだろう。


 向こうに見えるホテルでもよかったのだが、「コーカスレースに協力できるなんて嬉しいです」と言うパーヴァリの善意を無碍にはできない。階段を下り、パーヴァリの部屋の前を過ぎ、地下の風呂場に下りる。スリッパを脱ぐと脱衣所の床からひんやりとした冷たさが伝わって来た。


 鏡に自分の姿が映っている。夏に負った傷の痕はもうほとんど残っていない。バンダースナッチに肉を持って行かれたが、今はもうすっかり元通りだ。街の医者が回復速度に恐れ戦いていたのを覚えている。普通ならば傷痕がくっきり残ってしまう。そもそも、命さえ危ういはずなのに、と。


 怪我をしても、通常より早く治る。例えそれが致命傷であっても。けれど、どうしてこれだけは消えないのだろう。この、焼け爛れた痕は。





 髪を拭きながら部屋に戻ると、ハワードが机に向かって座っていた。紙束が積み重なっている。おそらく私が悪夢にうなされていた間も彼は起きていたのだろう。四徹目か。


「お帰り」

「まだ寝ないのか」

「残念ながら今日も徹夜かな。どこかの誰かさんが書類を溜め込んでいるから」

「無理するなよ」

「君がそれを言うのか」


 ハワードが眼鏡のブリッジを押し上げてこちらを睨んできた。私は視線を逸らす。


 チャドじいさんが穏やかな顔で眠っていた。この人のおかげで自分は生きていられるのだ。この人が、私を救ってくれたから。私を、あの瓦礫の中から救い出してくれたから。


「おやすみなさい、父さん」





 仕事の成果というものは時間をかければ現れるものではない。結局我々は何も掴むことができなかった。依頼主は「まあそんな時もあるさ」と笑っていたが、こちらとしては依頼を十分に果たせないのは不満である。結果として、我々が得たのは疲労だけであった。主にハワードが。


「ちょっとイグナートさん、ハワードさんに無理させすぎなんじゃないの?」


 ヘレンが口を尖らせている。質の良さそうなコートを纏う姿からは気品が漂っており、育ちの良さを感じさせる。


「事務仕事は彼がやりたくてやっていることだよ。それに、ハワードに任せておけば間違いない」

「たまにはご自分でやったらどうかしらオーナーさん」

「私はああいう仕事は苦手でね。ほら、書類に指輪がひっかかるといけないし」


 私は両手を広げて見せる。


「……外せばいいんじゃないかしら」


 南東の浜辺から帰ってきて数日。ハワードは連日の徹夜の反動で見事に倒れている。まだ頼みたい仕事があったのだけれど、さすがに自宅に押しかけて書類をぶつけるのはよくないだろう。


 睨みつけてくるヘレンを適当にあしらっていると、グスタフじいさんが執務室に入って来た。


「イグナート、お客さんだよ」

「はーい。ほら、ヘレン。私にはこういう仕事があるんだよ」


 ヘレンは整った顔を不服そうに歪める。先程のやり取りを知らないグスタフじいさんは不思議そうに私達のことを見ていた。


 応接室へ入ると、女が一人ソファに座っていた。私の姿を見て勢いよく立ち上がる。頭のてっぺんに生えている兎の耳が揺れた。


「イグナート!」

「三月ウサギさん。コーカスレースに何か用事かな」


 三月ウサギは私の手を握った。手袋をしていなかったのか、彼女の手は冷えてしまっている。


「探してほしいの!」

「探す? 何を?」

「すっごい熱なんだよ!」


 質問に答えてくれ。











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