第八十五面 ぼくにとって憧れです
北東の森、兎の庭、猫と帽子屋の家。ぼく達が帰ってくると、家の陰から黒いロングコートを纏ったジェラルドさんが姿を現した。
「無事に戻ったようだな」
「お、何か用か?」
「いや……」
ジェラルドさんはマフラーで口元を隠したまま、少しくぐもった声でそう言った。積もった雪を踏みしめながらぼく達の横を過ぎていく。街に何か用事があるのかな。長いポニーテールが木々の間に消えるのを見てから、ぼく達は家に入った。
リビングは暖炉によって暖められている。ぼくが出てきた時と比べると薪が燃えていたので、脇にあったものを追加で入れる。
「ありがとな、アリス」
「いえ。薪が燃え尽きちゃったら寒くなっちゃいますから」
ニールさんは暖炉の傍にアーサーさんを下ろして自分のコートをかけてあげると、寄り添うように近くに座った。
「アリス君」
ルルーさんに呼ばれ、ぼくは暖炉から離れた。ナザリオがティーポットを持っている。
「ニールのこと、しばらくそっとしておいてあげようよ。僕達は先にお茶飲もう、ね」
「そうですね」
家族を守らなければいけないという呪いを自らにかけたチェシャ猫は、弟をその手に取り戻してとても安心しているようだった。絶望と言っても過言じゃないくらい暗く塗り潰されていた表情も、今はすっかり元に戻っている。
お湯を沸かし、ぼく達は一足先にティータイムとする。今日のお供はクッキーだ。
「えっ、アリス、ナオユキじゃなくてアレクシスの方が本名になっちゃったの?」
王様とのやりとりを説明すると、ナザリオがそう言った。ねえナザリオ、今クッキーが口から落ちたよ。
「仕方ないかなって。まあ、ワンダーランドにいる間はその名前の方が楽かもしれないしね。有主は、わざわざ『親がイーハトヴかぶれで』って説明必要だし」
「うーん、確かに。じゃあ、おれもアレクシスって呼ぼうか?」
「アリスでいいよ」
ナザリオはテーブルに落ちたクッキーの破片を拾って口に入れる。
お湯が沸いたらしく、ルルーさんがカップを持ってキッチンから出てきた。ポットから注がれるお茶は赤茶色。仄かに柑橘系の香りが漂っている。
「アーサーの好きなアールグレイだよ! お帰り記念!」
ルルーさんのその声と紅茶の香りに、アーサーさんが深い眠りから呼び覚まされた。
「この香りはアールグレイっ! ぅわああああああっ! 馬鹿猫の顔がものすごく近いっ!」
「帽子屋ぁ! お帰りぃ!」
「離してください! 抱き付くな馬鹿猫!」
ニールさんを引き剥がし、アーサーさんは警戒するように睨みつける。けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ただいま戻りました、兄さん」
「お帰り、アーサー」
笑いあう二人のことをルルーさんが嬉しそうに眺めていた。クロヴィスさんと対峙した時がまるで嘘のように、いつも通りの何も考えていなさそうな笑顔だった。あの時のルルーさんは明らかに様子がおかしかった。ルルーさんとクロヴィスさんと、その間に何かあったのだろうか。
ルルーさんはソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。そして、白地に黄緑色のラインが入ったティーカップを持ってきた。アーサーさんのお気に入りのカップだ。アールグレイを注ぎ、暖炉の傍へ持って行く。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
アーサーさんは紅茶を一口飲む。そして、三千里も離れていた母親と再会したかのように歓喜した。
「ぁあ、美味しい……。やはり紅茶は素晴らしい……。飲める喜びに感謝……」
銀に近い水色が煌めき、ぽろぽろと雫が零れ始めた。
「あ、れ……私……。嫌だ、何で、泣いて……」
「どうした帽子屋、紅茶が飲めてそんなに嬉しいのか。さすが紅茶中毒末期患者。よく狂わないでいられたな」
「黙れ馬鹿ぁ……」
帽子屋の涙は、久し振りの紅茶への喜びからくるものだろうか。それとも、帰ってこられた安心感によるものだろうか。ぼろぼろのシャツの袖で涙を拭いながら、震える声で感謝の意を述べながら、カップ一杯の紅茶を時間をかけて飲んでいた。
お皿の中のクッキーがなくなった頃、リビングに深緑色のフロックコートを纏ったアーサーさんが姿を現した。金色の髪は整えられ、薄く汚れていた顔も綺麗になっている。
「えーと……。アーサー・クロックフォード、ただいま戻りました。ご心配をおかけしました!」
気を付けをして、深々と頭を下げる。
「お帰りっ!」
「お帰りぃ!」
「お帰りなさい!」
顔を上げて、アーサーさんは少しはにかんだ。
「ありがとうございます。アリス君、貴方のおかげです」
「勢いに任せただけです」
「ですが、そのおかげでこうして私はここにいるのですよ。さすがに国王も鏡のことを持ち出されて慌てているようでしたね」
ニールさんと同じようににやりと笑う。こういう顔をするといつも以上にそっくりだ。
「言ってよかったんですかね」
「構いませんよ。聴衆には何のことかさっぱりですからね」
ルルーさんが追加のクッキーをキッチンから持ってきたので、ぼく達はお茶会を再開する。三月ウサギ、眠り鼠、帽子屋に加えてチェシャ猫のいるお茶会だ。こころなしか、いつもよりもお茶もお菓子も美味しく感じた。
◆
裁判から数日、ワンダーランドでのぼくの周辺はおかしな日常を取り戻した。
「はい、返却期限は二週間後です」
司書さんから本を受け取り、鞄にしまう。
「元気そうでよかったわ」
「え?」
「最近顔見てなかったから」
そう言って司書さんは微笑んだ。そうか、図書館へ来るのも久し振りだな。
法廷で王様に食って掛かってから、何だか自信が付いたというか、ちょっと頑張ってみようかなと思うようになった。何かの理由を付けなくても本屋さんや図書館へ再び来られるようになったのは大きな一歩だと思う。新しい本を求めることさえできなくなっていたのだから。
「早く読んで、早く返して、また借りますね」
「はい、待ってるね」
図書館へ来る前に本屋さんでも同じような反応をされた。しばらく訪れていなくてもこうした反応をしてもらえるのは、ぼくがすっかり常連だからだろう。
マフラーを巻き直して外に出る。今日も風が冷たい。
中学校は冬休みが終わり、三学期が始まっている。あともう少しで一年生も終わりか。結局、再び登校することはなさそうだな。行きたくないし、あそこはぼくの居場所じゃないからどうでもいいんだけれど、璃紗と琉衣のことが気になる。ぼくなんかのために動こうとして、二人まで酷い目に遭わなきゃいいけれど。
ぼくは路地を抜けて骨董品店へやって来た。ドアの横に置かれた蛙の置物は相変わらず背中に小銭を載せている。ピエロの人形が持っているプレートは営業中であることを示していた。
リロンリロン。
ドアを開けると上部に取り付けられたベルが鳴る。
「アリス」
白ずくめの女が椅子に座っていた。白い兎のぬいぐるみを抱いている。テーブルの上に置かれていたやつかな。
「おや、二人は知り合いなのかい? じゃあやっぱり、有主君が探していたのは白ちゃんだったんだね」
奥からおじいさんが顔を出した。白ずくめの女とおじいさんが一緒にいるのを見たのは初めてだった。やはり二人が同一人物だなんてそんなふざけたことはなかったか。
「白ちゃん……?」
白ずくめの女は立ち上がると、ぬいぐるみを抱いたままぼくに歩み寄って来た。
「ついにおじいさんに見付かってしまったわ。気が付かれないようにお店に出入りするの楽しかったのに、残念」
「なんだか事情があるみたいだったから、ここにいていいよって言ってあげたんだ。白いから、白ちゃん」
動物に名前を付けるならまだしも、人間にそんな理由でそんな名前を付けていいのだろうか。この女の人が人間なのかどうかは分からないけれど。
白ずくめの女はくすくす笑う。
「アリス、私はここにいるわ。何か用事があったらいつでもここに来ればいいわ。ハンカチ拾ったらここに届けてちょうだい」
「また落とすんですか?」
「ふふふ」
ゆっくりしていってね、と言っておじいさんが奥へ消える。白ずくめの女は抱きかかえた兎のぬいぐるみを撫でていた。
「あの」
「なあに?」
「お姉さんは、白兎さん?」
白ずくめの女は笑っている。ぬいぐるみをテーブルに置き、空いた手でぼくの顔を包み込んだ。真っ赤な瞳がとても近い位置でぼくのことを見つめる。
「私は私よ。何も分からないって、前に言ったでしょう」
「ちょっと、顔、近い、です……」
「貴方にとって、その白兎さんってどんな人?」
「え」
「私はその人に似ているのかしら。貴方は、私が忘れてしまった私のことを知っているの?」
目を伏せ、悲しげな顔になる。白ずくめの女はぼくから離れると、兎のぬいぐるみの頭を撫でた。
白兎はぼくの大好きな物語の登場人物。主人公の女の子は彼を追い駆けたことで不思議な冒険を始めることになるのだ。小さい頃に絵本を読んで、いつかぼくの前にも白兎が現れて素敵な世界へ連れて行ってくれないものかと夢を見た。黄金の光に満ちた、素敵な昼下がりの夢を。
ぼくは白ずくめの女と向かい合う。
「白兎は、ぼくにとって憧れです。ぼくに夢を見せてくれる、ぼくを不思議などこかへ連れて行ってくれる、道しるべ」
「そう、大切な人なのね」
「あなたもぼくを連れて行ってくれた」
「あら、私何かしたかしら」
この人の落としたハンカチを拾ったから、ぼくはこのお店に辿り着いた。このお店に辿り着いたから、鏡を手にすることができた。鏡を手にしたから、ワンダーランドに行けた、みんなに出会えた。
「アリス、私は何も分からない。けれど、貴方がアリスだってことは分かるのよ。私にとって貴方って一体なんなのかしら。自分のことを思い出すことが、取り戻すことができたら、貴方のことも分かるのかしら」
「……きっといつか思い出せますよ」
「ふふふ。私にとっては貴方が白兎さんかもしれないわね。貴方と話しているととても楽しいもの」
並んでいる骨董品や店主のおじいさんの話などをしてから、ぼくは骨董品店を後にした。
「アリス、また来てね」
兎のぬいぐるみを抱きながら、白ずくめの女はにこりと笑った。
幼い日に見た夢は、少し形を変えてぼくの目の前に現れた。今日もまた、家に帰ったら姿見の向こう側へ行くとしよう。




