第八十四面 閉廷
ぼくは何の権力も持たないただの子供だ。部屋に引き籠って本を読んでばっかりで、学校にも行っていない。それなのに、今はこうして王妃様と向かい合っている。
「坊やが何の御用かしら」
「エドウィンはサボってません! 王女様の警護をしていたって、本人が言ってました!」
王様が騎士団長さんを見る。
「ウィリアム、それは本当かい」
「はい。ファリーネ様に同行した騎士の中に彼の名もあります。気になるのでしたら、王女様本人に確認した方がよいかと」
「カザハヤ君、それならちゃんと言ってくれないと困るだろう」
「……す、すみません」
これでエドウィンが職務怠慢のけしからん騎士ではないと王様と王妃様に示すことができた。
後はアーサーさんだ。これははっきり言って賭けだ。ぱっと思いついた方法に過ぎないし、それによって王様と王妃様がぼくの思った通りの反応をしてくれるかどうかは全く分からない。上手くいけばアーサーさんを解放してもらえるかもしれないけれど、失敗すればアーサーさんと、暴れたニールさんと、王様と王妃様にたてついたぼくの首がまとめて吹っ飛ぶ可能性がある。
「坊やはまだ何かあるのかしら?」
「……アーサーさんは犯人ではありません。公爵夫人達が帰った後もぼくはその場にいましたが、とてもあれから海へ行って怪物と戯れようなんて、そんなことはできないように見えました」
「けれど貴方もずっと見ていたわけではないでしょう? 結局はチェシャ猫の証言に戻るのよ?」
「物的証拠がありません! 証言だけで決めつけるのは間違っています! こんな裁判間違ってる!」
けれど、やるしかない。
「そもそも、証言だけで『なるほどこいつか』ってなるような人なんですか、アーサーさんは。違いますよね。そんなに危ない人なら、もっと早く対処すべきじゃないんですか。マーリン・キングスレーなんて名前使って色々やってるの、知っていたんじゃないんですか! 調べれば分かるはずですよね、そんな人間がこの国に存在していないって」
大富豪で次々と手札を投げ捨てていく感覚だった。ババ抜きで取る札取る札どんどんペアになっていくようでもあった。
「それでも放っておいたのは、危なくないって思っていたからですよね。それとも、陛下はそんな危険な獣に大事な鏡を預けたままにしておくような人なんですか!?」
鏡のことを持ち出した途端、王様の表情が一変した。
「こんなの見せしめだ! トランプの圧力でドミノを屈服させる、そんな酷い国なんですか、ここは!!」
言い切った。息が上がっていた。ぼくは呼吸を整えてから、改めて王様を見る。王様は怒ったような悲しいような、今にも噴火しそうな、泣き出しそうな、苦しそうな、複雑な顔をしていた。青い瞳がぼくを見つめる。
「そんなこと言われて黙っているわけにもいかないね。そう、ここはそんな酷い国ではない。おかしな怪物が現れて、ちょっと焦ってしまったんだよ。そうだね、彼は……」
王様はちらりとアーサーさんのことを見てから、法廷を見回した。
「証拠不十分だ。この裁判は成り立たない」
「エリック」
「アリアも罪人かどうか分からない者の首を飛ばすわけにはいかないだろう?」
「帽子屋でないのなら、誰が……」
「それは分からないね」
ざわついている法廷に役人の「静粛に」という声が響く。王様が居住まいをただし、王妃様も綺麗に座り直した。
「我々は想定外の事態に焦り、十分な証拠もないまま善良なる国民をこのような目に遭わせてしまった。大変申し訳ない。これは王家の恥じるべきことである。この裁判は不成立。被告人アーサー・クロックフォードを無罪とする。ただし、不審な動きがあるものならばすぐに呼び出すので心得ておくように」
「は、はい……」
「お兄さんと帰りなさい。……これにて閉廷とする」
王様と王妃様が席を立った。王様は何か役人さんに耳打ちをしてから去って行った。それに続いて騎士団長さんも法廷を後にする。傍聴席には声が溢れだし、次々と人々が帰って行く。陪審員も出て行った。検事さんも弁護士さんも撤退して、警察官と共にアーサーさんも一旦下がって行った。
残ったのは、公爵夫人達とニールさんとエドウィン、ぼく、そして役人だ。役人はぼく達の方へ歩いてくると、ぼくの目の前に立った。
「君、ちょっといいかな。陛下がお呼びだ」
「えっ」
「おい、俺も同席していいか」
「構わない。こっちだ」
ぼくはニールさんと一緒に役人に付いて行った。
通されたのは、裁判所の奥にある一室だった。王様が立派な椅子に座っている。その後ろに騎士団長さんが立っていた。ぼくもニールさんも一礼してから部屋に入った。
「まあ、座ってくれ」
言われるまま席に着く。先程法廷で向き合った時よりもはるかに距離が近い。こんなにも近くで王様という存在を見る時が来るだなんて思ってもいなかった。王様なんて時々テレビで見るもの、物語の中に見るものでしかなかったのだから。それが今、目の前にいる。
さっきは言いたいことを言ったけれど、今はすごく緊張していた。ニールさんが軽く頭を撫でてくる。ぼくの緊張を和らげようとしてくれているのかもしれないけれど、ニールさん自身も落ち着かないのかもしれない。
「私にあんなことを言う子供は初めてだ。君、アレクシス・ハーグリーヴズ君?」
「そうです」
「チェシャ猫と帽子屋と交流があるのかい」
「……はい」
「子供が森へ行くのは危ないよ。それに、ここにも一人で来ているみたいだね。……鏡のことも知っているのかい」
「……前に、二人に聞きました」
アーサーさんのことは救い出せたけれど、今度はぼくが危ない状況になっているんじゃないだろうか。ここで変なこと言ったら終わりだぞ。
「君、綺麗な身形だけどどこの御子息だい。あの鏡のことを知っていて大丈夫なのかな?」
「あ、え……」
「ふむ、黄色のダイヤか。番号は?」
「ば……」
ニールさんの手がぼくの頭を撫で繰り回した。
「こ、コイツ、番号ないんですよ、陛下。ダイヤだってうちにあったやつをくっ付けただけで……。えーと、その、コイツ、孤児なんです! 俺達兄弟で面倒見てやってて。な、な? そうだよな? アレクシス」
「あー、はい! そうなんです、王様! お二人にはお世話になっています!」
「そんな話聞いたことないけれど」
「だってかわいそうじゃないですか! この子孤児なんですよーって言いふらさないでしょう! 表向きにはブリッジ公爵夫人の遠い親戚で、イーハトヴかぶれの両親が共働きで忙しくてってことにしてるんですが、本当は親の名前も分からない子なんです! 服も公爵夫人が買ってくれました!」
王様は不思議そうにぼくを見て首を傾げた。ぼくとニールさんは激しく頷く。
「では、君は戸籍がないのかな。それなら、新しくスートと番号を与えるけれど」
「い、いえ! ぼくなんかのために陛下のお手を煩わせるだなんて! このままでいいです! ぼくは、ドミノと一緒に暮らしているので。街へ出るつもりもありませんし……」
「……いいのかい?」
「はい」
王様は静かに頷いた。
「分かったよ、アレクシス君。特別に認めてあげよう」
「ありがとうございます!」
かくしてぼくは、アレクシス・ハーグリーヴズという名前の孤児で、クロックフォード兄弟の世話になっているのだということになった。今まで名乗っていた本名の有主の方が偽名ということになってしまったけれど、王様も納得してくれたからこれでいいだろう。
騎士団長と王様が先に部屋を出て行き、その後でぼく達は廊下に出た。すると、警察官と一緒にアーサーさんが待っていた。
「……兄さん」
疲れ切った様子のアーサーさんが、警察官に促されて一歩前に出る。
「クロックフォードさん、今回は大変申し訳ありませんでした。では」
そう言って警察官達は去って行った。アーサーさんはふらつく足で進み、ニールさんに倒れ込むようにして抱き付いた。
「兄さん……会いたかった……」
「よく頑張ったな。帰ったら紅茶飲ませてやるからな」
「ありがとう……お兄……ちゃん……」
ニールさんの背中に回していた腕から力が抜け、そのままアーサーさんは崩れ落ちてしまった。ニールさんはそれを抱き留め、優しく頭を撫でる。
「アーサー、帰ろう。俺達の家に」
気を失っているのか、それとも眠っているだけなのか。前にマタタビを盛られた時が比じゃないくらいに完全に深い眠りについているアーサーさんのことを、ニールさんはおんぶしている。マタタビの時もそうだったけれど、よく百八十センチを背負って歩けるよなあ。あまり身長は変わらないのに、ニールさんが力持ちなのか、アーサーさんが軽いのか。……両方かな。
裁判所の外に出ると、ルルーさんとナザリオが待っていた。公爵夫人達とエドウィンの姿はない。嬉しそうにルルーさんが飛び跳ねている。
「よかったですねえ、帽子屋さん」
しかし、最初に聞こえてきたのはぼくの知らない声だった。男の人の声。それを聞いてルルーさんが青褪める。
「アナタの首が飛ばなくて一安心です。よかったよかった、ルルーの悲しむ顔を見ずに済んで」
門の陰から現れたのは若い男だった。パッと見た感じ、二十代半ばくらいだろうか。顔に影を落としているコートのフードから、少し長めの栗毛が覗いている。青い瞳が笑う。
ニールさんはその男に対して敵対心丸出しの顔をしていた。鋭い牙が口元に覗いている。
「……クロヴィス」
「チェシャ猫さん、そんな怖い顔しないでくださいよ」
クロヴィスと呼ばれた男はぼく達に歩み寄ってくると、手を伸ばしてアーサーさんの髪に触れた。
「お帰り、帽子屋さん。牢獄の居心地はどうでした?」
「やめろ、弟に触るな」
体の向きを変えてニールさんはクロヴィスさんからアーサーさんを離す。伸ばしたままの手で虚空を掴み、クロヴィスさんは声を出して笑った。
「あはははははっ! 結構結構。チェシャ猫さんはそうでなくては。それではワタシは、帽子屋さんの無事も確認したので、サンドウィッチでも買って帰るとしようかな。何の間違いか、バッグに草が入っていてね。これは食べられないもの」
ひらりと手を振り、クロヴィスさんは足早に去って行った。ぴょんこぴょんこと跳ねるようにして。その後ろ姿を青い顔をしたルルーさんが見送っている。コートとブーツの隙間に見える足が震えていた。ピンク色の手袋に覆われた手も同じように震えているようだった。「寒いの?」と言ってナザリオが自分のマフラーを解いてルルーさんの首にかけてあげる。
クロヴィスさんの姿が通りの向こうに見えなくなるまで、ニールさんは睨み続けていた。ずり落ちそうになったアーサーさんを背負い直して、表情が緩められる。
「馬鹿兎、大丈夫そうか」
「う、うん。ちょっとびっくりしただけ……」
「あの、さっきの人は?」
「ねえ! あの人知り合いなの?」
ぼくとナザリオの質問に、ニールさんはちょっぴり渋い顔をする。
「アイツはクロヴィス。まあ、ちょっと、色々あってな。オマエ達は知らなくていいんだよ」
「そうなんですか……」
「んえー、教えてくれないの?」
駄目だ駄目だ、と言ってニールさんはもう一度アーサーさんを背負い直した。軽く後ろの方に視線を遣って、愛おしそうに微笑む。
「帰るぞ。コイツに紅茶飲ませてやらないといけねえからな」
もう二度と手放してなるものか、と言うように、チェシャ猫は帽子屋を大事に大事に背負って歩き始めた。ぼく達もそれに続く。
こうして、帽子屋は茶会の席に戻ってきたのだった。




