第八十二面 開廷
判決が先、評決はその後で。
絵本に登場するハートの女王は、パイを盗んだハートのジャックを裁判にかける。おかしな国の、おかしな裁判。
はちゃめちゃな物語の中だからこそ行われる理不尽な裁判だ。
現実でそんなことをしたら、国の信用が大いに傾く。けれど、その場にいる者が全て権力に従う者達で、裁かれるのが偏見の対象であったなら。
♥
銀暦二五四五年、一月八日、水曜日。ワンダーランドの空は青い。吹き抜ける風は冷たく、積もっている雪を時々巻き上げている。為す術のないまま、ぼく達は裁判の日を迎えた。王妃の裁判所で行われるのは、首を刎ねるか刎ねないかを決める裁判。有罪となれば容赦なく首が飛ぶ。
獣でも傍聴席には入れるかもしれない。そう言ってニールさんは出かけて行った。法廷で暴れないといいけれど、大丈夫かな。
街の中心部へぼくが行くのは危ない。だから留守番だ。そう言われたけれど、ここでただ待っているというのも何だか嫌な感じだな。ぼくがこうしてお茶を飲んでいる間に大惨事が起こっているかもしれない。
暖炉の中で薪がぱちぱちと燃えていた。揺らめく炎が周囲を照らす。じっと眺めていると、その炎が自分に燃え移ったようだった。
行かなきゃ。
家で燻ってなんかいられない。燃えねば。
普段部屋に引き籠っているぼくがこんなことを考えるのはおかしなことだけれど、ぼくは大切な友人のピンチに黙って座っているような、そんなやつにはなりたくない。
開け、この表紙を。ページを捲らなければ世界はそこにはないのだから。
ぼくはソファから立ち上がるとアーサーさんの部屋へ向かった。姿見を潜り、一度自分の部屋に戻る。クローゼットを開けて奥から引っ張り出したのは水色のロングジャケットだ。生成のスラックスとベージュのベスト、黒いリボンも引き摺り出し、ワイシャツを手に取る。公爵夫人に買って貰った服に着替え、ジャージに付けていた黄色いダイヤを襟に付け直す。
姿見の前に立ち、服の皺を伸ばす。よし、大丈夫だ。
コートを手に姿見を潜りワンダーランドへ向かう。アーサーさんの部屋を見回し、壁にかけられているコートへ歩み寄る。内ポケットに手を突っ込んでみると鍵が出てきた。紫色のお花のキーホルダーが付けられている。スターチスかな。
コートを羽織り、鍵を手にぼくは猫と帽子屋の家を出た。しっかりと鍵をかけて、森へ踏み込む。
積もった雪を踏みしめながら街を目指す。一人で街へ行くのは初めてだ。でも大丈夫。堂々としていれば怪しまれないだろう。
マフラーを巻き直して木々の間を行く。葉を散らした木々はすっかり雪を被っている。時折、ばさばさと枝から雪が落ちているのが見えた。
やがて視界が開けて来て、石壁が姿を現す。街だ。
北東の森から街に入ってすぐの通りはぶたのしっぽ商店街という名前で、ドミノの出入りが多く、ドミノが開いているお店もある。もちろん人間のお客さんもいて、ロブスターのカドリーユさんという人が営む踊る魚屋さんはマミさんもよく利用しているそうだ。
鍵と一緒にくすねてきたアーサーさんの財布を開く。革製の群青色の長財布。中には紙幣と硬貨がそれなりに入っていた。すみません、勝手に使っちゃいますね。
手を上げて辻馬車を停め、ぼくは御者さんに行先を告げた。王妃の裁判所と聞いて御者さんはちょっと驚いた顔になる。それもそうだろう、こんな子供が裁判所に、それも王妃の裁判所に行きたいだなんて。けれど御者さんはぼくの身形を見て頷いた。馬が歩き始める。もしかして、貴族の子にでも見えたのかな。
ぼくは腕時計を確認する。おそらく開廷にはぎりぎり間に合うはずだ。
しばし馬車に揺られていると、人だかりが見えてきた。どうやらあそこが王妃の裁判所らしい。この裁判所が使われるだなんて、どんな極悪人が裁かれるのだろうかと野次馬達が話していた。人ごみから少し離れたところで馬車が停まる。ぼくはアーサーさんの財布からお金を払って下車した。
深呼吸をして裁判所の門を潜ると、警備のおじさんに呼び止められた。やはり子供が一人でこんな所へ来るなんて怪しまれてしまうか。変に慌てて余計不審がられないように注意しなければならない。傍聴に来たのだと答えると、おじさんは感心した様子で通してくれた。御者さんと同じようにぼくの格好をじろじろと見ていたから、この服装のおかげかもしれない。ありがとう公爵夫人。
腕時計を見ると、もう時間が迫っていた。ぼくは走って法廷へ駆けこむ。
傍聴席には高貴な格好のトランプがたくさんいた。ドミノも何人かいるようだった。あの中にニールさんもいるのかな。
トランプ達はひそひそと何やら話をしている。聞いていて辛くなるような、ドミノへの差別・偏見たっぷりの話ばかりだった。耳に入ってくるのも嫌なので、ぼくは法廷の中を見回して気を紛らわす。
陪審員席がある。日本の裁判所にはないから、テレビでも中々見ることのないものだ。座っているのは十人のトランプと二人のドミノだ。トランプはドミノと少し距離を置いて座っている。そして、ちらちらと軽蔑の目をドミノに向けているのが見えた。陪審員達は手にした紙に何やらメモをしているようだけれど、何を書いているのだろう。まだ何も始まっていないのに。
奥に見えるのが裁判官の席。手前が検事と弁護士の席で、弁護士の席の近くにあるのが被告人の席だろう。その傍に一瞬猫耳が見えた気がした。もしかしてニールさんかな。
にわかに法廷がざわめきだした。騎士団の制服を着た人が法廷に入って来て、周囲を見回す。そして一同に静粛を求めた。貫禄のありそうな壮年の男の人だ。騎士のおじさんは紫色のマントを翻し、奥へ引っ込む。
場が静まると、検事さんと弁護士さんが入って来た。どちらもトランプだ。あの弁護士さんはちゃんと弁護してくれるのかな。形式的にいるだけのように見える。両者が席に着くと、続いて警察官が入って来た。再び法廷がざわめきに包まれる。警察官に伴われて被告人が姿を現したからだ。
帽子を被っていない帽子屋は、ややふらつきながら歩いていた。綺麗な金髪は鮮やかさを失い、ぼさぼさに乱れている。警察官に席に座らされる。けれど、すぐに俯いてしまった。真っ直ぐに座っているのも辛いくらい疲弊しているのだろう。
そして、ついに裁判官が姿を現した。法廷が静まり返り、一同が深々と頭を下げる。ぼくも慌てて周りに従う。
顔を上げると、裁判官の席に座る二人の人物の姿が確認できた。壮年の男女で、どちらも優雅で気品あふれる高貴な格好をしている。頭には冠を被っていた。男の人も女の人も、赤いハートの飾りを身に着けている。もしかしなくても、彼らがハートの王様と王妃様だろうか。先程の騎士のおじさんが再びやって来て、二人の後ろに控えて座る。
裁判官席の横にいた人が羊皮紙を掲げた。罪状を読み上げる。ぼくの近くに座っていたトランプがひそひそと何か話していた。ドミノも何か話している。みんな気になっているんだろう。けれど、ここにいるということは怪物の事件のことを知っても問題ない人達なんだろうな。ぼくもこの格好のおかげで入ることができたのだし。
王様と思われる男の人は威厳たっぷりというよりも、どちらかというと優しい印象を受ける。慈悲深ささえ感じてしまうような目で被告人のことを見下ろしていた。それは本心から来るものなのか、それとも国民からの支持を受けるために作り出したものなのか。
対して、王妃様と思われる女の人は特に関心を持っていない様子で被告人を見下ろしている。いや、見下している。見るからにお高くとまっているような感じで、扇で隠された口元には嘲笑が浮かんでいそうだった。
開廷が告げられる。
王妃様が立ち上がり、閉じた扇で空を切って被告人を指した。
「その者の首を刎ねよ」




