第八十面 呪詛だな、まるで
「王宮騎士が何の用かな」
「……管理を任されているエドウィン・カザハヤだ。マーリン・キングスレー……帽子屋の様子を見に来たのだが」
「ああ、あの獣か。あっちにいるよ」
「……帽子屋」
「……う。うぅ、ん……」
「ぼう……アーサーさん、エドウィンです。オレのこと分かりますか」
「エド、ウィン……。なぜ、ここに……」
「アナタが無事かどうか、確かめに来ました」
○
エドウィンは見て来たことを細かく説明する。アーサーさんは『怪物を操り国を恐怖に貶めた』罪で逮捕されたらしい。ジャバウォックのような姿をしたあの怪物は南西の荒れ地にも現れていて、その近くでもおしゃれな帽子を被った男の姿が目撃されているのだという。男はまるで怪物を従えているようだったと目撃者は語った。囚われた帽子屋は無実を訴えたが、目撃証言を覆す術はない。牢獄では片足を鎖で繋がれているものの、過剰な拘束や拷問は受けていないとのことだ。
「ただ、あそこでは紅茶が出されない」
若干思いつめた様子でエドウィンは言う。今日であれから三日。あんなにも紅茶をこよなく愛するアーサーさんが三日間も紅茶無しで平気でいられるとは思えない。昨日エドウィンが訪れた時には、まるで遠くへ行ってしまった恋人を思うような口ぶりで「紅茶が飲みたい」と呟いていたらしい。そんな状態だなんて言われたら、余計心配になってくる。早く助けてあげないと、という気持ちが強くなる。
家宅捜索とかは行われていないけど、とぼくが言うと、エドウィンは小さく溜息をついた。
「物的証拠は必要ないのだろうな。ドミノの罪人にそこまで労力を使うつもりはないということだろう」
「そんな……。本人が否定していて、物的証拠もないのに目撃証言だけで犯人だって決めつけるの?」
「……人間から見たドミノはそういう存在なんだよ。獣は、ヒトとは違う。昔と比べれば少しは優しくなったとも言われるが、未だに偏見は消えない。……間違っているんだ、こんなの。しかし、オレ一人が何か言って変わることではない。言っても、『花札が何か言っている』とオレが笑われるだけだしな」
ニールさんがテーブルを殴った。置かれていたティーカップやティーポットがかちゃりと音を立てる。そしてエドウィンを睨みつけた。殺気に満ちた目に浮かぶやり場のない怒りをぶつける対象としてロックオンされてしまったエドウィンは、無表情な目をほんの少し見開いて一瞬硬直した。
リビングに緊張が走り、流れる空気が凍り付く。暖炉で燃える火が意味をなさないくらいに、体の中から広がっていく冷たさを感じた。
テーブルから手を離したニールさんがゆっくりと息をついたのを合図に、再び空気が暖炉によって温められ始めた。エドウィンは強張っていた体を少し緩める。
「オレからは以上だ。次にジャンヌから聞いたことだが、父親のキャンフィールド公は会議続きで随分と疲れているそうだ。内容については教えてくれなかったそうだが、訊かれたくなさそうだったとジャンヌは言っていた。貴族達が秘密裏に動いているのは確かだな。おそらく一般国民への対応などについて検討しているのではないかとジャンヌは予想していたが、オレもそうだと思う。街に住む一般トランプはここ数日の怪物騒ぎにすら気が付いていないようだからな」
エドウィンは湯呑を手に取って緑茶を飲む。
「それで、ウミガメモドキはどうだったんだ」
クッキーを食べていたルルーさんが手を止めた。紅茶を一口飲んで流し込む。
「うん。黒くておどろおどろしい龍が砂浜の砂を巻き上げながら飛んでいたんだって。そして、近くに帽子を被った男の人がいたらしいよ。男の人は龍に手を伸ばしていて、答えるように龍が頭を下げていたって。それで、パーヴァリも『あれはどう見ても帽子屋さん』って言ってて」
「くそっ、どうなってやがるんだ! どうしろっていうんだよ!」
「やめてニール暴れないで! お皿割れるから!」
抱き付くようにしてルルーさんがニールさんを抑え込んだ。絨毯に転がっていたナザリオもニールさんの足を掴む。二人がかりで押さえ込んでいないと、弟を助けんとするチェシャ猫は今にも家を飛び出して警察に乗り込んでしまいそうだ。それでニールさんまで捕まったら元も子もない。
「くそっ!」
「あうぅ、落ち着いてよぉ」
ニールさんは紅茶を飲み乱暴にティーカップを置く。ソーサーとぶつかって大きな音を立てたけれど、割れてはいないようだ。
目撃者は揃ってアーサーさん、もしくは帽子の男を見たと言う。アーサーさんの黄金祭前夜のアリバイを証明できるのはぼく達だけど、身内の証言ではあまり意味がないんだろうな。
「来週……。年が明けてから、来週の水曜日に裁判が行われるらしい」
エドウィンの言葉を聞いて、頭のてっぺんまで上っていたニールさんの血の気が一瞬にして引いて行った。
「単なる事件なら普通の裁判所なんだが、国全体の安全に関わることだからな……。帽子屋の裁判が行われるのは王妃の裁判所だ」
「……助からねえ。……王妃の、前じゃ……ドミノなんて……」
ニールさんが頭を抱えて俯いてしまった。猫耳が力なく伏せられている。
「あの、王妃様ってそんなに力持ってるんですか」
「アリス君、前に僕言ったよね、王妃の前に立てば首なんて簡単に飛ぶって。普通の裁判所で決めるのは有罪か無罪かだけど、王妃の裁判所で決まるのは、首を刎ねるか刎ねないかなんだ。最も、王妃の裁判所で裁かれるのはそれ相応な凶悪犯罪を起こした重罪人だけなんだけどね」
「アイツは何もしてねえのに……」
エドウィンの無表情が僅かに崩れる。
「裁判でどうにかしないと……オレも……」
「エドウィン、俺達が法廷へ行くことは可能なのか」
「……オレは裁判所の役人ではない。悪いが分からないな」
顔を上げかけたニールさんは再び頭を抱えてしまう。そして、ゆっくりを顔を上げた。銀に近い水色の瞳は何だか怪しげな色を宿している。不気味に口角がつり上がり、鋭い牙が覗いた。
「あぁ、そうだ……。全部殺せばいいんだ……。アイツを貶めようとするやつ、全員、殺す……」
「落ち着いてニール! そんなことしてニールが犯罪者になったらアーサー悲しむよ!」
「王妃を殺せばっ……」
「ニール!」
ルルーさんとナザリオがニールさんを押さえ込む。しかし、今度は振り払われてしまった。ニールさんの腕が人間の物ではなくなっている。ぎらつく爪が相手では、しがみ付いていると危険極まりない。二人の手が離れたのを確認して、ニールさんがソファから立ち上がった。エドウィンが呼び止めるのも聞かずにリビングを出て行こうとする。
まさか本当に乗り込んで奪還するつもりだろうか。全部、殺して。
これがチェシャ猫が自らにかけてしまった呪いの結果か。家族を守るためならば手段は選ばない。自分の手を血に染めてでも取り戻す。家族を大切に思うのは分かるけれど、あまりにも行き過ぎている。
廊下へ出ようというところでニールさんの足が止まった。猫のままの右手を上げて、側頭部を触る。様子がおかしい、と思って見ている間にニールさんはその場にへたり込んでしまった。エドウィンが席を立って駆け寄る。
「チェシャ猫、どうした」
「いや、ちょっと、目眩が……」
「頭も痛むのか」
「へへっ、こんなのどうってことねえよ……」
肩に添えられたエドウィンの手を払ってニールさんは立ち上がろうとする。しかし、膝を着いてしまった。
「平気なようには見えないが」
「ニール! 一回ちゃんと寝た方がいいって! 昨日も寝てないんでしょ」
「寝られるかよ」
ルルーさんを振り向いた目はぎらぎらと危ない光を揺らしていた。俯いたり顔を覆ったりしていて気が付かなかったけれど、ニールさんの目の下にはくっきりと隈があった。こころなしかいつもよりちょっとだけやつれているようにも見える。
「アイツが酷い目に遭ってるのに寝られるかよ……」
「睡眠は大事だよぉ」
「オマエが言っても説得力ねえよ」
「はぅぅ」
もしかしてずっと眠っていないのだろうか。あれからずっとということは、三日間徹夜ってことか。ただでさえ心労が溜まっているというのに。もう限界なんじゃないかな。
頭を押さえながらニールさんはふらふらと立ち上がる。そして、腕が人の物に戻ると同時に上体が大きく傾いだ。咄嗟にエドウィンが手を伸ばすけれど支えきれない。
「うぐっ、お、重い……」
ルルーさんとぼくも加わって、ゆっくりと横たえる。どうやらエドウィンはぼくが思っていたよりも力がないらしい。
ニールさんは眠気に抗うようにゆっくりと瞬きを繰り返していたけれど、ほどなくして目は閉じられた。
「何年か前にアーサーが森で迷って帰ってこなかった時もずっと起きてて、イグナートが連れて来てくれたのを見て安心した瞬間に倒れてさ。逆にアーサーがすごく罪悪感を覚えちゃって……」
「呪詛だな、まるで」
「うん。呪いなんだよ。これは」
ルルーさんが目を伏せる。睫毛が震えていた。その様子を見てエドウィンも僅かに表情を動かす。深い眠りに落ちてしまったニールさんの猫耳の辺りに軽く触れて、小さく口を開く。
「オレがアーサーさんの様子をちゃんと見て来ますから、ニールさんは少し休んでいてください。アナタが体調を崩してしまっては元も子もないでしょう。弟を守るのなら、兄のアナタは元気でいなくては」
猫耳から手を離してエドウィンは立ち上がる。いつもと違う口調に驚愕を隠せないぼく達のことを見下ろして、「また来る」と呟くとコートを羽織って出て行った。
枕を抱きしめたナザリオが歩み寄ってくる。眠っているニールさんと、エドウィンの出て行った廊下の向こうを交互に見る。
「エドウィンもお兄ちゃんだから、ニールの考えとか思いとかが分かるのかなあ」
「……兄、か。……どうなんだろうね」
なぜだかルルーさんは浮かない表情をしていた。ぼくの視線に気が付いたのか、すぐにいつもの何も考えていなさそうな笑顔に切り替わる。
「よし、じゃあ三人でニールを部屋まで運んであげよう!」
何だろう、さっきの顔……。




