第七十七面 笑わない猫
どたんっ、という音と共にニールさんがソファから落ちたのは、ぼくとルルーさんがカップやポットを片付けている時だった。
「痛ぇ……」
テーブルに足をぶつけたらしく、脛の辺りをさすっている。
「ニールさん」
「おお、アリス。ん? ルルーが来てるのか」
ぐるりとリビングを見回し、ニールさんは不思議そうにぼくを見る。
「帽子屋は……?」
「え?」
「……あ、あぁ、そうか、そうだったな」
「あの、大丈夫ですか。具合悪いとか、ないですか」
ニールさんはにやりと笑うと立ち上がり、ぼくの頭を雑に撫で回した。そうしているといつも通りで、先程までの混乱した様子とは大違いだ。ルルーさんもほっとした顔をしている。
「何か心配かけたみたいだな。俺は大丈夫だ。……さてと、どうしたものかな。警察署に乗り込んで奪還するか……」
「こっちが犯罪者になっちゃいますよ!」
「なぁに、安心しろ。オマエは巻き込まねえよ」
「そういう問題じゃないと思います」
ルルーさんが洗ったポットを拭きながら、「ニールの分淹れ直すね」と言ってキッチンへ戻って行った。揺れるうさ耳を眺めるニールさんの目は、ルルーさんを通り越してどこか遠くを見つめているようだった。ぼくの視線に気が付き、はっとしたような顔をしてからにやりと笑う。
これは作られた笑いだ。チェシャ猫だからって無理して笑わなくてもいいのに。そんなぎこちない笑顔、ニールさんらしくない。猫のない笑いになんてなれなくても、笑わない猫になってもいいんじゃないですか、こういう時くらい。辛いのなら、そういう顔でいてくれた方がこちらとしても接しやすい。
玄関のノッカーが激しく打ち鳴らされた。今度は誰だろう。もしかして、ニールさんが公務執行妨害になったとかじゃないよね。
「ナザリオですかね」
「俺が見てくる」
玄関へ向かったニールさんが次に発した言葉は「おい、どうしたんだ」だった。声色から慌てている様子が窺える。そして、ぼろぼろの騎士に肩を貸しながらリビングへ戻ってきた。いつも軍帽に光っている緑色のクラブが取れかかっている。ニールさんがゆっくりと肩から腕を離すと、エドウィンは崩れ落ちるようにソファに倒れ込んだ。騎士団の制服は土に汚れ、所々血が滲んでいた。痛みがあるらしく、無表情な顔が僅かに歪められている。
コンロの火を止め、ルルーさんが救急箱を手に駆け寄って来た。
「早く手当てしなきゃ!」
「エドウィン、傷を見せてくれるか」
ふらふらと起き上がり、エドウィンは上着のボタンを外していく。が、非常に遅い。腕の傷が痛むらしく、なかなか思うようにボタンを外せない。
「くそっ、じれったいな! さっさと脱げ!」
「触るな……」
「うるせえ!」
ニールさんがエドウィンの制服に手を掛けた。ぼくは次々と外されて放り投げられる飾りやベルトを拾い、一つに纏めて置く。フランベルジュの柄に巻き付けられていたペンダントが落ちていたので、巻き直してあげた。青緑色の宝石が光る高級そうな代物だ。いつも大事そうにしているよね。
最後に放り投げられたのは破れたワイシャツだった。血と土と砂で汚れていて、靴の跡も見える。
「足は?」
「左足を捻っただけだ……」
エドウィンの体にはいくつもの痣があった。ぼくが思っていたより出血も多そうだ。顔も殴られたのだろうか、口の端から血が垂れている。
「よーし! お薬塗るね!」
体に付いた砂を払ってあげると、ルルーさんはどす黒い軟膏を手にエドウィンに向き直った。
「それは人間に塗って大丈夫なものなのか」
「たぶん!」
「え、あ、ま、待て、待て三月ウサギ」
「ニール、エドウィンを押さえて!」
「任せろ!」
「あぅ、あ……。んぁあっ、うっぐ……!?」
「ちょっと染みるかもしれないけど」
「ちょっとじゃない、全然ちょっとじゃなっ、ぐぁっ、あ……!」
襲われているようにしか見えない。暴れている間に薬を塗り、撃沈して倒れている間に包帯を巻く。見事な早業だった。夜道で町人を襲うと言われる鎌鼬という妖怪はこういう速さなのかもしれない。ルルーさんとニールさんは一仕事終えて満足といった様子だったけれど、エドウィンは手当てをされたのにものすごく痛そうだった。
「じんじんする……」
「すっげえ染みるけど、よく効くんだぜ、それ。ほら、足も見せろ」
ニールさんが手を伸ばすと、エドウィンは避けるように足を動かした。
「……触るな」
「怪我人なんだから黙って治療されてればいいんだよ」
ブーツと靴下を脱ぐと、左の足首が腫れているのが見えた。先程の物とは別の薬を濡れタオルに塗って湿布にする。「こんなもんかな」と言ってニールさんが笑う。
「……寒い」
エドウィンは自分の肩を抱いて腕をさする。暖炉が燃えているとはいえ、上半身は包帯だけだ。かと言ってぼろぼろのシャツを着させるわけにもいかないだろう。「ちょっと待ってろ」と言ってニールさんがリビングを出て行った。その間にルルーさんがテーブルにお茶を置く。ティーカップではなく、湯呑の中で緑色のお茶が揺れていた。両手で包み込むように湯呑を持ち、エドウィンは一口緑茶を飲む。
程なくしてニールさんが毛布を手に戻ってきた。柔らかく暖かそうな毛布をエドウィンの肩に掛ける。
「しばらくはそれで我慢してくれ」
「暖かい……」
「それで?」
「それで、とは」
ニールさんの目が鋭くなった。
「誰にやられたんだ」
「こ、これは……階段から落ちて……」
ぼくは脇に置いてある騎士団の制服を見た。そこにはくっきりと足跡が残っている。つまり、蹴られるか踏まれるか、いずれにせよ誰かから攻撃を受けたのだ。
「傷を見れば人為的なものだって分かるんだ。誰にやられた、答えろ」
「相手は一人じゃないよね、ニール」
「ああ。色んな方向から、複数人に暴行されたと見て間違いねえだろうな」
エドウィンは自分の肩を抱いた。今度は寒そうにしているというより、何かに怯えているように見えた。無表情な緑色の瞳が微かに震える。
「せ、先輩、達に……」
「何か失礼なことしたんじゃねえのか? いっつも不愛想だしよ」
「帽子屋のことで……」
「詳しく話せっ!」
ニールさんが荒っぽくエドウィンの肩を掴んで揺さぶった。怪我人に対してやることじゃない。小さな悲鳴を聞いてニールさんは手を止めたけれど、エドウィンは毛布に顔を埋めてしまった。
「わ、悪ぃ、痛かったよな……」
「……黄金祭の前夜、南東の浜辺に謎の怪物が現れたらしい」
毛布にくるまったまま、ややくぐもった声でエドウィンが話し始めた。
黄金祭? 小声でルルーさんに訊いてみると、二十五日のお祭りのことだと教えてくれた。北の国の黄金の神を祀る黄金祭。その前夜ということは二十四日か。
「海岸のホテルの従業員や客が目撃していて、幸いにも死傷者はいなかったらしいんだが、その……。怪物の近くに、帽子を被った男がいたそうだ。従業員達が言うには、あれは夏に来ていたマーリン・キングスレーに違いない、と。宿泊者のリストから住所を調べて、ここへ警察が向かったのだと……」
エドウィンは毛布の隙間からちらりとこちらを見る。ニールさんが膝から崩れ落ちた。ぼくからは表情が見えないけれど、後ろ姿だけでもその動揺っぷりは伝わってくる。
「アイツはあの夜俺とずっと一緒にいたんだ、そんなわけねえだろ。それに、アイツは死体見て吐くくらい繊細なんだぞ、あんな怪物と一緒にいられるわけねえだろ。なあ、そうだろ、そうだろエドウィン」
「ねえ、エドウィンには何も知らされてなかったの? 管理を任されているのは君なんだから、アーサーに何かあるのなら連絡があるはずじゃないの? 何も、言われなかったの?」
ルルーさんに訊ねられて、エドウィンは小さく頷いた。
「オレは黄金祭の見学のためにシャンニアを訪れていた王女に付き従っていたから、ここ数日はワンダーランドにはいなかったんだ。つい数時間前に帰国したばかりで……。王女と別れて、騎士団の本部を歩いている時に帽子屋のことを聞いて、それで、『管理不行き届き』だと先輩達に……。王女の警護は仕事だ。管理をサボっていたわけではない。しかし、常日頃から目を光らせていないためにこのようなことが起こったのだと言われた。親の七光りでエリートコースを走る、腐れ花札が、と……」
エドウィンは自分の体をいたわるように撫でた。
「嫉妬されるのはいつものことだ。問題ない……」
「でも、こんなのやりすぎだよ。外からじゃ分からないように、わざわざ上着を脱がせてから攻撃して……」
「大丈夫だ、ナオユキ。オマエが気にすることではない。ただのじゃれあいだ」
違うよ、エドウィン。それは明らかないじめだ。都合のいい理由を出して暴力を振るっているだけだ。血筋まで馬鹿にするなんて、悪質極まりない。
エドウィンは毛布を下げて顔を出す。膝を着いているニールさんのことを軽く見下ろしながら、小さく口を開いた。
「帽子屋が無実ならば、それを証明しなくてはならない。アイツが有罪になればオレの立場も危ういからな」
「じゃあ、僕達がアーサーを助けたいって言ったらエドウィンは協力してくれるの?」
「あぁ……。何が起こっているのか、オレが街で調べておく」
ブーツを履こうとしたエドウィンのことをニールさんが制止する。
「安静にしていた方がいい。治りが悪くなる」
「もう少し休んでいきなよ! ね!」
少し躊躇うような素振りを見せたけれど、エドウィンはおとなしくソファに座り直した。毛布にくるまって背凭れに身を預ける。
ルルーさんは救急箱を片付け、ニールさんは後回しになっていた自分のお茶を淹れにキッチンへ向かった。ぼくはエドウィンの上着をはたいて汚れを落としてあげる。こんなもんかな、と本人に確認しようとして顔を上げると、エドウィンはやや俯きながら目を閉じていた。北の国に行っていたというし、疲れているのかもしれない。怪我のこともあるし、ゆっくり休んでほしい。でも、アーサーさんを救い出すのならばそんな悠長なことも言っていられないか。
玄関のノッカーが打ち鳴らされた。今日はよく鳴るな。今度こそナザリオかな。キッチンから出てきたニールさんとルルーさんが顔を見合わせ、ルルーさんがジェスチャーで自分が行くということを伝えた。声を出さないのはエドウィンを起こさないためだろう。
玄関へ向かったルルーさんが「うおぅっ」という声を漏らした。そして、直後に「誰!?」と。
「エドウィンっ! ……寝てる、の? よかった、無事で……。あ、無事じゃないか」
駆け込んできたのは、王宮騎士の制服を纏った女の人だった。




