第七十六面 離してください
クリスマスイブの大騒ぎから数日。部屋の本を棚に戻したり箱にしまったりして大掃除を終えたぼくは、年末のワンダーランドへやって来た。
「馬鹿猫、掃除の仕方というものを一から教え直して差し上げましょうか。このっ、下手くそ!」
「くそっ、この間は夜もすがら『お兄ちゃんお兄ちゃん』って言って甘えてきたくせに!」
「そんなこと言ってません!」
「言ってましたよ」
ぼくの声にリビングで追いかけっこをしていた二人がこちらを向いた。雑巾を手にしていたアーサーさんがおそるおそるといった様子でぼくを見る。
「アリス君、それは本当ですか」
「公爵夫人達が帰った後、譫言みたいにずっと『お兄ちゃんお兄ちゃん』って言ってニールさんにべったりしてましたよ」
「そ、そんな……。な、何たる屈辱っ!」
アーサーさんは手にしていた雑巾をニールさんの顔面に投げ付けた。
「わぁっ! 何しやがるてめえ! 汚ねえだろ!」
「あああああもうっ! もう飲まないですっ! いつも同じ感じになってる気がします!」
「そうだな、いつも『もう飲まない』って言ってる」
「はぁ……」
深い溜息をつき、アーサーさんは別の雑巾で壁を拭き始めた。ニールさんも投げ付けられた雑巾で窓を拭く。ぼくも何か手伝おう。そのつもりで来たんだし。
テーブルの上に放置されていたはたきを手に取り、棚の埃を払う。
三人でリビングの掃除をしていると、玄関のノッカーが来客を知らせた。雑巾をバケツに放って、アーサーさんが応対する。しかし、聞こえてきたのはいつものように穏やかな「いらっしゃい」ではなく「な、何ですか……」という狼狽えたような声だった。ぼくとニールさんは顔を見合わせて頷き合うと、廊下へ顔を出して様子を窺うことにした。
男が数人外にいるようだ。ニールさんが「警察だ」と呟いた。警察が何の用だろう。この間の偽ジャバウォックについてかな。
「マーリン・キングスレーだな」
「一応そうですが」
アーサーさんが答えるや否や、警察官がその腕を掴んで外に引き摺りだした。
「一緒に来てもらおうか」
「え、は、はい!?」
「オマエが犯人だな」
「な、何ですって!?」
警察官は抵抗しようとするアーサーさんを引っ張る。
「おいおいおい、どうなってるんだこれ」
「ぼくに訊かないでください。心当たりとかはないんですよね」
「あるわけないだろ」
ニールさんは心配そうに様子を見ている。
警察官を振り払い、アーサーさんが家の中に引っ込んだ。助けを求めるようにしてこちらを振り向こうとしたけれど、再び警察官に腕を引っ張られる。
「無駄な抵抗はやめろ」
「私は何もしていませんっ。こんなこと、許されると思っているのですか」
「上からの命令だ」
「離してくださいっ! い、嫌だっ!」
数人の警察官に取り押さえられ、もがいてももがいても振り払うことができない。こんなの、こんなの無茶苦茶だ。
ついにニールさんが廊下に飛び出した。
「帽子屋」
警察官に抵抗を続けるアーサーさんが縋るような目でニールさんを見た。銀に近い水色はいつもの穏やかさを失い、兄の姿さえも捉えられているのか分からないくらい濡れていた。
「嫌だっ! 離してくださいっ。離せっ、私は何もっ……」
「来るんだ」
「嫌ぁっ……。助けてっ、兄さんっ……!」
「おとなしくしろ!」
鳩尾の辺りに攻撃を受け、アーサーさんから一瞬力が抜けた。こちらへ伸ばされていた左手が重力に従って下ろされる。
「兄……さ、ん……」
「アーサー!」
ニールさんの目から光が消えたように見えた。弟を心配する兄の目から、獲物を捕らえた野生の猫の目に変わる。そして、腕も人の形を失い、獣の物へと変わった。鋭い爪をぎらつかせながらチェシャ猫は駆け出した。警察官達は少し驚いたようだったけれど、よろめいてバランスを失ったアーサーさんのことを引き摺って行ってしまう。
「……弟を放せ。……殺してやる。オマエら全員、殺してやるっ」
飛び掛かろうとしたところを別の警察官数人に取り押さえられ、ニールさんは地面に押し付けられる。ぼくはリビングに戻って窓を開け、外を確認する。数台の車が停まっているのが見える。おそらくあれがパトカーなんだろう。一台の車にアーサーさんが強引に乗せられた。今まで見て来たオープン式の物とは違い、しっかり壁も屋根もある車なので車内の様子は分からない。玄関のドアが閉まる音がして、ひっかき傷を負った警察官達が別の車に乗り込んだ。そうして、警察は去って行く。
何が起こったのか分からなかった。アーサーさんはおかしな帽子屋さんだけれど、悪い人じゃない。警察に捕まるようなことをするはずがない。マーリンの名前であれやこれやしたのが何かに引っ掛かったのかもしれないけれど、そうだとしたらもっと早く警察に追い駆けられていたはずだ。
足音がしたので振り向くと、ニールさんが無言でリビングに入って来た。腕は人の物に戻っていたけれど、警察官のものだろうか、爪の先に血が付いていた。窓辺に佇むぼくのことなんて見えていないかのように、ぼんやりと虚空を見つめてソファに座る。猫耳は力なく伏せられ、尻尾もソファに落ちるように垂れていた。
「ニールさん」
返事はない。ただ一言、ぽつりと弟の名前を呟いただけだった。
「お、お茶淹れますね」
ニールさんは虚ろな目でどこか遠くを眺めているようだった。何の反応も示さずに、黙ってソファに座っている。電池の切れたおもちゃのように、動くことができないでいるようにも見えた。時折、思い出したかのように弟の名前を呟くだけ。壊れたラジカセのように。
ぼくはキッチンへ向かい、蛇口を捻ってやかんに水を入れた。コンロの下にある石炭にマッチで火を点け、やかんをコンロに乗せる。お湯を沸かしている間に茶葉を探しておこう。確か奥の棚にあったはずだ。
茶葉の缶を手に取った時、玄関のノッカーが鳴った。また警察だろうか。ぼくは缶を手にしたまま玄関へ向かう。
「おーい、僕だよー」
ルルーさんだ。
ぼくがドアを開けると、ルルーさんはちょっと驚いた様子だった。
「あれ? アリス君がお出迎えなんて珍しいね」
「こんにちは」
「お邪魔しまーす」
ルルーさんはぼくの横をすぎてリビングへ向かう。ドアを施錠して、ぼくも後に続いた。
「やっほー、ニール! あ、お湯沸いてるみたいだよ」
ニールさんは微動だにしない。コンロを止めたルルーさんがリビングに戻ってきて、首を傾げる。うさ耳が揺れた。
「アーサーは?」
その名前に反応してニールさんが顔を上げた。先程まで何の色も映していなかった顔がみるみるうちに苦悩に歪んでいく。様子がおかしいと察したらしいルルーさんがぼくに近付いてきた。「何かあった?」と訊いてきたところでニールさんが口を開く。
「何で、こんな、ことに……。アイツは、何も……」
両手で顔を覆ってニールさんは蹲ってしまった。ルルーさんが更に怪訝そうな顔になる。ぼくが事情を説明すると、ルルーさんは目を丸くした。
「な、何それ。どういうこと」
「ぼくに訊かれても」
ルルーさんは頬を膨らませて地団太を踏んだ。うさ耳が大きくしなる。いつもなら「馬鹿兎、暴れるな」と言い出しそうなところだけど、ニールさんは顔を覆ったまま動かない。小さく聞こえてくるのは、すすり泣き……? 突然弟が警察に連行されたらショックなのは分かるけれど、泣くかな。あの、ニールさんが。強くて格好いい、チェシャ猫が。
いや、それほど精神的なダメージを受けたということだろう。兄弟のいないぼくには想像がつかないけれど、もしも親が捕まったらすごくショックだと思う。きっとそれと同じなんだ。家族があんなことになるのは、とても驚くことだし、とても悲しいことだ。
「お茶、淹れますね」
「うん、ありがとう」
三人分の茶葉をポットに入れて、やかんのお湯を注ぐ。少し蒸らしてからカップに注いでいく。お盆に載せてリビングに戻ると、ルルーさんがニールさんの分を先に取ってテーブルに置いた。紅茶を飲めば少しは元気になってくれるかと思ったけれど、ニールさんは俯いたままだ。ぼく達は食卓に着いてお茶を飲む。
ルルーさんはカップの中で揺れるお茶を眺めながら溜息をついた。
「何でこんなことになったのか、調べないと……。本当にアーサーが何かしでかしてたんなら、どうしようもない。でも、何もしてないのなら、助けてあげないと」
「助けるって……」
あまりにも大袈裟だ。無実ならばすぐに釈放されるはずだ。待っていればきっと……。
「普通なら、そんな強引なことしないはずなんだよ。上からの命令って、国が関わってるのかもしれない」
「そ、そうですかね……」
「それなら尚のこと急がないと」
ティーカップを持つルルーさんの手が震えていた。目も潤んでいるように見える。
嫌な予感がした。ぼくの予想が当たりませんように。
「王妃に罪人だと思われれば、首なんて簡単に飛ぶんだから」
がちゃりと音がして、テーブルからカップとソーサーが落ちた。ニールさんが立ち上がる。どこを見ているのかも分からない目で、何かを見ている。
「無理だ、王妃には勝てない……」
「ニール」
「俺は、アイツを助けられない……。どうすればいいんだよっ……!」
その場にへたり込んで、ニールさんは頭を抱える。がしがしと髪を搔き乱しながら声にならない唸り声を上げる様は、混乱と疲弊を同時に伝えてくる。ルルーさんがカップを置いて立ち上がり、蹲っているニールさんに歩み寄った。震える背中にそっと左手を置き、右手でニールさんの手を取る。
「ニール、少し休もう? ね?」
「ぅぁ、あ……」
「落ち着いてから、どうするか考えよう?」
「……アー、サー……ごめ、ん……」
頭から手が離され、体が大きく傾ぐ。ルルーさんは倒れ込んでくるニールさんをなんとか受け止めたようだった。ぼくも手伝い、うんしょと引っ張り上げてニールさんをソファに横たえる。電源スイッチが切られたかのように、チェシャ猫は静かに眠っていた。
ぼくとルルーさんは食卓に着く。
ちらりとニールさんを見遣ってから、ルルーさんは口を開いた。
「前に本人が言ってたことなんだけど……。ニールは自分で自分に呪いをかけてしまったんだって」
「呪い、ですか」
「そう。お父さんが亡くなって、お母さんが相当参っちゃったらしくてね。その時はニールだってまだ子供だったんだけど、自分が家族を支えていかなきゃならないって思ってそれからずっと頑張って来たんだよ。お母さんのことも、アーサーのことも、自分が守ってあげなくちゃって。でも、だんだんその想いに憑りつかれて、おかしなくらい大切に思ってしまったんだって言ってたよ。失ったらきっと、自分は壊れてしまうから。だからちゃんと守らなきゃ。失わないように。っていう悪循環を繰り返してるらしい」
だからこんなにダメージを受けているのか。
「本人だって自覚はあるらしいんだ。だから、普段は仲の悪い兄弟を装っているんだと思う。少しでも呪いを和らげるために。……アーサーは素だと思うけどね」
「よく見てるんですね、二人のこと」
「……好きだからね」
そう言って笑うと、ルルーさんは紅茶を飲んだ。




