第七十五面 想いを伝えられたらいいな
夕暮れの商店街は色鮮やかな光で満ち満ちていた。風は冷たく頬を刺すけれど、駆けていく小学生達の表情は柔らかで温かい。明日の朝目覚めると、彼らはプレゼントを手に入れるのだろう。
「琉衣君は美千留ちゃんとケーキ作るんだって」
「へえ」
ぼくの頭に浮かんだのは仲睦まじく「ケーキを作ろうね」と約束する兄妹の姿ではなく、「お兄ちゃんとケーキ作ろう! な! な!」とレシピ本を手に妹へと迫る兄の姿だった。たぶん間違っていない。
十二月二十四日。ぼくは姫野と一緒に外へ出ていた。
赤と緑、そして電飾で彩られた商店街を人々が行きかう。ケーキの箱を持った仕事帰りの父親らしき人、おもちゃ屋さんの袋を抱えた小さな子と母親、サンタさんの格好をしてティッシュを配るお兄さん。いつにも増して賑やかに溢れかえる人の波に目を回しそうになってしまうけれど、どうにか堪えつつ足を動かす。
「有主君、無理してない? 大丈夫?」
「平気平気」
姫野の眼鏡のレンズに電飾が反射する。その光の影が彼女の顔に赤やピンクの色を落としていた。去年のクリスマスも姫野と出掛けた。とはいっても、ケーキ屋さんに一緒にお遣いに行っただけだけれど。今日の目的は何なんだろう。
考えているうちに、ケーキ屋さんの横を過ぎて商店街の外に出てしまった。姫野は歩みを止めない。ほどなくしてぼく達は空ヶ丘公園に辿り着いた。
星夜市でも有数の敷地を持つ空ヶ丘公園では、クリスマスイベントの真っ最中だった。木には電飾が取り付けられていて、他にも色々な形のイルミネーションが眩い光を散らしていた。雪が降っていればもっと幻想的なんだろうなと思うけれど、滑って転んだら嫌だな。雪国の人のようには歩けない。
もう少し時間が経って暗くなれば、公園にいる人の数も増えるのだろう。まだ夕方なので人はそれほど多くない。こういう光り物は暗い方が綺麗だよね。ぼく達は中学生だから暗くなりすぎる前に帰らなくてはいけないけれど。
「ねえ、有主君」
「何?」
やや前方を歩いていた姫野が振り向いた。ぼく達はクリスマスツリーの下で立ち止まる。姫野は三つ編みおさげをちょっといじりながら、窺うようにぼくを見た。
「いつからわたしのこと姫野って読んでる?」
「……今年の四月から」
理由は特にない。しいて言えばちょっと恥ずかしかった。新しい場所で、少し背伸びしたかったのかもしれない。今はもう、どうでもいい場所だけれど。
「昔みたいに、名前で呼んで」
「どうしたのいきなり」
「特に理由はないけど、なんか余所余所しいなって」
「今更?」
「改めて思ったというか……」
突然何を言い出すかと思ったら、姫野にしては何だか支離滅裂だ。おさげをいじりながら俯いてしまう。
「うん、そう。変わらなくていいってことだよ。有主君は有主君のままでいい。昔と変わらずに、本が好きな優しいきみでいてほしい。わたしだって変わってないんだから」
「……うん?」
「何て言えばいいのかな。つまり……自分を無理に変えるなってことだよ。琉衣君とちょっと色々あったって、うちのお母さんが琉衣君のお母さんから聞いたらしくて、わたし、琉衣君に確認したの。それで、ええと。うん、つまりね、無理しないでってこと」
男女七歳にして席を同じゅうせず。というのは古い言葉だけれど、もう小学生じゃないんだから女友達とべたべたするのはどうなんだろうと思った末の姫野呼びだ。結局一緒にいるんだけどね。
「お節介とか、綺麗事とか、そう言ってくれて構わない。でも、言わせて。わたしはあなたの味方だから。わたしと琉衣君がいるってこと、それは忘れないでいてほしい」
「そう言ってぼくを学校に連れてくつもり?」
「……そうだよ」
姫野はまっすぐにぼくを見る。眼鏡に反射するイルミネーションがちかちか揺れた。
「神山有主、学校に来い。三学期になってからでもいい。二年生になってからでもいい。卒業するまでに、学校に来い。わたし達のエゴだと言ってくれて構わない。わたし達の思い出におまえは必要なんだ。おまえのいない学校生活を過させるな」
「強引だ」
「わたしは昔から強情だからね」
ちらりと教室で見た姫野は、委員長として、学年二位として、みんなに期待され、頼りにされ、それに応えようと優等生然とした態度を保っていた。それが重圧であることは前に聞いたけれど、やっぱりこうやっていたずらっぽく笑っていたり、ノートに向かって妄想に入り浸っていたりしている方がよっぽど姫野らしい。
「周りを気にするなって言ったのは姫野じゃん」
「気にしろとは言ってないでしょ。もう少し友達のことも考えてって言ってるの。有主君が辛いのは分かってる。でも、会えないとこっちだって色々と思い悩んじゃうんだから。余計な心配させないで」
「学校にいるより今の方が璃紗らしいよ」
「トトに言い聞かせてるのとは違うって分かってる。でも、ああ、上手く伝えられない! 文字書きなのに! って、ああっ、今ナチュラルに『璃紗』って言った!」
璃紗は水色の手袋で包まれた手で顔を覆う。指の隙間からぼくを覗き見る。
「自分らしくありたかったら、ぼくがいるからって、有主君前に言ってたでしょ。でもそれって、一緒にいなかったら意味をなさないって分かってる?」
「分かってるよ」
「じゃあいてよ。三人で一緒にいたいの。離れているよりも、近くにいた方がずっといいに決まってる。有主君は変わらなくていい。わたしが、琉衣君と一緒に、あなたの居場所を作ってみせるから。待ってるから」
ああ、いつまででも待っていそうだ。それこそ、卒業式が終わるまで、ずっと。
「……もう行かないって決めたんだ」
「行きたいって思わせてあげる」
「せいぜい頑張って」
「頑張るよ、もちろん」
近くで歓声が上がった。つられて、ぼく達は声のする方を見る。するとそこには、ぼく達の横にあるものよりも大きなクリスマスツリーを見上げる外国人観光客の姿があった。暗くなってきたので、メインもようやく見せ場到来ということだろう。空は暗いけれど、公園の中は先程よりも眩しい。
璃紗は眼鏡の奥で目を細めてツリーを見た。
「あのメインのツリー、あるでしょ。あの下で告白したら永遠の愛で結ばれるんだって」
「よくあるよねそういうの」
「わたしもいつか、想いを伝えられたらいいな」
脳裏にクラウスの言葉がよぎった。違う違う、これはぼくのことじゃない。
「まあ、相手を見付けなきゃ駄目なんだけどね」
そう、そうだ。ぼく達はただの幼馴染なんだ。クラウスが変なこと言うから変なこと考えちゃったじゃないか。もう。
「……有主君」
「ん?」
「今日はね、話をしたかったの。イルミネーションを見たかったっていうのもあるけど」
「ああ、じゃあ、終わり? ぼくあまり人の多いところにいたくないんだけど……」
「ケーキでも買って帰ろうか」
日が暮れて人の多くなってきた公園を後にする。商店街のケーキ屋さんでクリスマス限定のケーキをそれぞれ家族の人数分買って、ぼく達は帰路に着いた。ちょっと暗かったので、璃紗を家まで送ってあげることにした。
玄関の前で璃紗が振り向く。おさげが揺れた。
「今日はありがとう。一緒にイルミネーション見られてよかった」
「綺麗だったね」
「……また、見に行こうね」
「うん、いいよ。外に出られれば、だけど」
「強引に引っ張り出すから大丈夫っ」
いたずらっこのように笑って、璃紗は家の中に入って行った。何だか『大きなカブ』のカブになった気分だ。引っ張り出されちゃうのか。
「……璃紗。璃紗。……うん」
こっちの方がしっくりくる。
あ、本買うの忘れちゃった。
◇
張り切った父が買って来たフライドチキンを筆頭に、神山家の晩御飯はいつもよりちょっぴりこだわったものとなった。ぼくが買って来たケーキをみんなで食べて一段落した後、ぼくは姿見の向こう側へ踏み込んだ。
リビングではパーティーの真っ最中だった。終わらないお茶会の面々に加え、公爵夫人の姿もある。テーブルには色とりどりのオードブルが並び、何種類ものお酒の瓶が置かれていた。キッチンの方ではアーサーさんとマミさんが追加の料理を作っているらしい。最初にぼくに気が付いたのはラミロさんで、眠っているピーターを抱きかかえながらこちらへ歩いてきた。
「小僧、来たか」
「夜なのに、来ちゃってよかったんですかね」
「家から出なければチェスに襲われることはない。さ、おまえも座れ」
明日の二十五日は北の国シャンニアで黄金の神の祭りがあるそうだ。周辺の国でも黄金の神を信仰する人は一定数いるらしく、祭りのことは世界中に広まっているらしい。そして、信仰していない人でもこうして前夜祭に便乗してパーティーを開くのだという。まさにクリスマスだ。
ナザリオはいつも通り眠っているけれど、「お腹いっぱいだよぉ」という寝言を漏らしているので眠る前に一通り楽しんだのだろう。キッチンから出てきたアーサーさんとマミさんがぼくの前にお肉と野菜を置いた。
「既にご家族と夕食は済ませていると思うので、少しですが」
「七面鳥です」
七面鳥なんて初めてだ。どんな味がするんだろうと思って口に運んでみると、ちょっと違うけれどあまり鶏と変わらない感じだった。つまり、鳥というものはこういう味なんだろう。
「味わって食えよ。オマエが食い終わったらプディングの登場だからな」
そう言うニールさんは片手にワインの瓶を持っていて、豪快にラッパ飲みしている。様子を見る限りは素面のようだけれど、どれくらい飲んでいるんだろう。そして、赤い顔をした公爵夫人がソファに横たわるようにしてニールさんに抱き付いていた。こちらは見るからに酔っている。食卓に着いているのはアーサーさんとマミさん、そしてルルーさんだ。先程まで料理をしていた二人はそんなに飲んでいないのだろうけれど、ルルーさんはどうなんだろう。手にしたグラスの中でワインが揺れている。見た感じだとまだ大丈夫そうかな。
「んぅ、ニールぅ……」
「どうした? 俺はここにいるぞ」
公爵夫人はとろんとした目でニールさんを見上げている。
「わたしぃ、のこと、好きぃ……?」
「オマエは俺の飼い主だからな、好きに決まってるだろ」
「んふふぅ、嬉しい……。だぁいしゅきぃ……」
身を起こした公爵夫人がニールさんの猫耳の辺りを撫でた。そしてそのまま顔を近付ける。
「ミレイユ」
唇と唇が触れようかという寸前で、ニールさんが公爵夫人の口にそっと指を当てた。
「それ以上は駄目だ」
「んー……」
なんかすごい大人だ。大人の雰囲気だ。ぼくは真正面でこのやり取りを見ていていいのだろうか。
公爵夫人は崩れるようにして再び横になった。
「……ん、ダイナ……」
乱れた銀髪をニールさんが撫でる。いつもと立場が逆転しているようだった。酔いつぶれているところに攻撃を仕掛ける気はないのか、アーサーさんも「この雌狐!」と声を荒げることはなかった。ラミロさんとマミさんは心配そうに女主人を見ている。
ぼくのお皿が空になったのを見て、アーサーさんがクリスマスプディングを持ってきた。ブランデーをかけ、火を点ける。すごい、初めて生で見た。これがフランベされるクリスマスプディング。
「作るときにアルコールは入れていませんし、このブランデーのものは飛んでしまいますので、ナザリオとアリス君も食べられますよ」
切り分けられて目の前に置かれたプディングを早速食べる。ナザリオも目を覚ましたようで、美味しそうに頬張っている。
グラスが空いてしまったのでサイダーを貰おうと思った時、キッチンの方から大きな音がした。グラス片手に立ち上がろうとしていたぼくは、そのままキッチンへ向かう。食卓の所にいたルルーさんとマミさんが先に駆け付けていた。ルルーさんのうさ耳がびくっと震える。
「あわわ、アーサー! 大丈夫!?」
「アーサー様っ」
キッチンでは鍋がひっくり返っていた。片付けをしていたんだろう、洗剤の泡が残っている。そして、アーサーさんが倒れていた。傍らにはグラスと共にウイスキーの瓶が転がって中身を零していた。作業中に飲んで倒れたということだろうか。調理台にはアルコール控えめのリキュールの瓶が置かれている。
離れようとしない公爵夫人を引き摺るようにしながらニールさんがようやくやって来て状況を確認する。
「あっ、馬鹿っ……! そんなもんオマエが飲めるわけないだろ! どうやったらリキュールとウイスキー間違えて飲むんだよ! 馬鹿っ!」
「くらくらする……」
「後で飲みやすいカクテル作ってやるって言ってあっただろ」
「兄さん……」
「動けるか?」
抱き起そうとしたニールさんだったけれど、公爵夫人にしがみ付かれているため思うように動けない。代わりにルルーさんがアーサーさんを引っ張り起こした。
「アーサー、しっかりして。ほら、僕に掴まって……」
「う、ん……。ルルー……」
ぐんにゃりとしたアーサーさんがルルーさんに身を預ける。そのまま押し倒すような形になり、二人は折り重なって絨毯に転がった。
「ほ、ほぎゃあああああああああっ!!」
ルルーさんが叫びながら目を回す。アーサーさんは眠ってしまったのか動く気配がない。
「あ、あばばばばばば! ニール! ニール助けて!」
「ったく、しっかりしろ。おい、寝てんのか?」
「うふふ、無様ねアーサー……。貴方のお兄さんは私がいただくわぁ……。ねぇ、ニール……」
公爵夫人に抱きしめられながら、ニールさんはアーサーさんをルルーさんから下ろす。
「くそっ、酔っ払いが増えた……。馬鹿兎、オマエはこれ以上飲むなよ」
「う、うん……」
リビングからナザリオの悲鳴が聞こえたのはその直後だった。ラミロさんが謝罪している声もする。
見に行ってみると、目を覚ましたらしいピーターがナザリオにオードブルの残りを投げ付けてしまったようだ。
「あうう、べとべとするよぉ……」
「ナザリオ、シャワー使わせてやるから早く洗って来い」
「はうう」
ニールさんは額に手を当てて溜息をついた。しっかりと腰に腕を回してしがみ付いている公爵夫人と、足元に倒れて眠っているアーサーさん。浴室へ走るナザリオ。ピーターをあやすラミロさん。キッチンを片付けるマミさん。
「後片付けは僕がちゃんと手伝うよ。えーと、これって割るために買って来たお水だったよね、飲んでもいい?」
「え? ああ……」
「これでちょっとは酔いが覚めるかなー」
「……あ、ちょっと待て!」
「あ、れ……。喉がひりひりする……。これ……お酒……」
ルルーさんの手に握られているのはウォッカの瓶だった。
「これ、は……駄目だ……」
よろめいたルルーさんがカウンターに手を着く。
「マジかよ……。ああもうっ! 次から次へと!」
「ぼく手伝います」
「悪いなアリス」
「いえ……」
ニールさんの悲痛な叫びと共に、宴の夜は更けていく。




