第七十四面 古い言い伝え
「ワンダーランドは大陸の中央に位置している」
そう言ってニールさんはテーブルに地図を広げた。
大陸と、南東と南に位置する二つの大きな島。それらが六芒星に似た形を作っている。国名を記した文字は赤、黄、緑で、向かい合う国々が一組になっているようだ。国に住んでいるのがトランプや花札なのだから、この形はただの六芒星ではなくダイヤモンドゲームと表現した方が適切だろうか。中央に位置する六角形の国がワンダーランド。青で国名が記されている。
ニールさんは緑色で国名が書かれている北の国を指差す。
「北の国、神話国家シャンニア」
そして時計回りに国々を指し示していく。
「北東の国、超機械国家イーハトヴ。南東の国、火山国家プラーミスク。南の国、魔法国家エメラルドキングダム。南西の国、要塞国家ネルケジエ。北西の国、管理国家ブルボヌール。そして、中の国、中央国家ワンダーランド。このキャロリング大陸地方の七つの国には古い言い伝えがあるんだ。伝承の勇者のな」
「伝承の勇者……?」
「本当に彼らが存在したのか、ただの伝説に過ぎないのか、今となっては分からない。人から人へと伝わって行くうちに、物語は付け足され、抜け落ち、改変され、集約され、今に至る。だから今伝えられていることが本当なのかどうかも分からない。それくらい昔のことだ」
そう言って、ニールさんはココアを飲んだ。
「伝承の勇者の一人、ワンダーランドに伝わる物語に登場するのがアリスだ。男なのか、女なのか、子供なのか、大人なのかも分からない。そして、人間なのか、獣なのか、それとも、それ以外なのかもな。ただ、名前だけは間違いないんだ。それだけは変わっていない。アリスはワンダーランドに現れた恐ろしい化け物を退治したと言われている」
「それが、ジャバウォックですか?」
「いや、俺がお袋に聞かされた話にその名前は出て来ない。……ほら、オマエの国にもあるんじゃないか? 同じ名前の登場人物が異なる物語で主役になることって」
正確には同じ人ではないけれど、○○太郎とかかな。御伽話ってだいたい主人公が太郎だよね。
「色々な物語で、様々なアリス像が作られている。だから、何が正しいとか、何が間違っているとかじゃない。アリスはワンダーランドの英雄、それだけが事実だ。ただ、平凡な女性名の一つでもある」
確かに、御伽話の中で色々な太郎が鬼を退治したり出世したりした。けれど、その名前は特別なものではなく、現代の世の中にも様々な太郎さんが普通に暮らしている。
ぼくはココアを飲んだ。少しぬるくなっちゃったかな。
「……たぶんだけど、それだけじゃねえんだよな、きっと。俺は全部の物語を知っているわけじゃない。どれかにはジャバウォックが登場しているのかもしれねえし、だからさっきのやつが『アリス』の名に反応したとも考えられる。オマエがどうこうじゃねえよ。伝承の勇者に反応したのさ」
「ぼく、夢を……」
言っていいのか、あの夢のこと。
ニールさんは小さく首を傾げる。頭頂部で猫耳がぴくぴく動いていた。
ジャバウォックはアリスを探している。そして、殺すのだと言った。変に心配させたくない。でも、いつまで秘密にしていればいい? 言った方がいいのかな……。
「いや、何でもないです……」
「……そうか? 何かあったら言ってくれよな」
「はい……」
もう少し、自分の中で整理がついてからにしよう。すっかり冷めてしまったココアを飲み干して、ぼくは席を立つ。
「帰ります、ね」
「オマエも酷いもん見ちまったんだから、忘れた方がいいぜ」
「ありがとうございます。それじゃあ」
リビングを後にしてアーサーさんの部屋へ向かう。一応ノックをすると、小さく返事が聞こえた。そっとドアを開ける。
アーサーさんはベッドに横になっていた。そっとしておいてあげたいけれど、姿見を潜るためには近付くしかない。歩み寄ると、ぼんやりとした銀に近い水色の瞳がぼくを見た。やや乱れた金髪が青白い顔にかかっている。
「お帰りですか……」
「はい」
「すみません、こんな、状態で……。おぞましいものは、苦手なのです……」
「好きな人はいないと思いますけど」
姿見に右足を入れようとして、ぼくはあることを思い出した。そうだ、あのことを確認しなくてはいけない。振り向いたぼくのことをアーサーさんは不思議そうに見ている。
「あのぅ、白兎って人を知ってますか」
「しろ、うさ、ぎ……?」
「ドミノだと思うんですけど」
「……国中のドミノと知り合いなわけではないので」
「あ、そ、そうですよね! 変なこと訊いちゃってごめんなさい」
掛け布団が渇いた音を立てる。アーサーさんが軽く身を起こして小首を傾げていた。傾げているというより、力なく傾いていると言った方が正しいかもしれない。
「その人物が、何か……?」
「い、いえ、ちょっと、この間森をぶらぶらしてる時に名前を聞いて、気になっただけ、です」
「そうですか……」
ずるずるとアーサーさんが布団の中に落ちて行った。「まだ調子が……」と苦笑いを浮かべる顔は先程よりは幾分か色を取り戻しているけれど、まだまだ青い。
「ゆっくり休んでください。それじゃあ」
返事はなく、聞こえてきたのは少しだけ苦しそうな寝息だった。
◆
あの白ずくめの女の人がそうなのかは置いておいて、白兎という人はいると思うんだけどな。終わらないお茶会に訊くより、王宮騎士に訊いた方がいいんだろうか。『不思議の国のアリス』で白兎はハートの女王に仕えていたから。
靴を手に玄関へ向かうと、居間から電話の着信音が聞こえてきた。母は回覧板でも届けに行っているのか、電話には誰も出ない。靴を置き、居間に向かう。
「はい、神山です」
受話器を取ってから改めてディスプレイを見ると、そこには『姫野さん』と表示されていた。
「有主君」
「姫野」
ぼくは壁に掛けられた時計を確認する。午後四時、学校はもう終わった時間か。
「あ、あの、ちょっといいかな」
「何?」
「と、突然なんだけど、来週の火曜日の夕方って暇かな」
火曜の夕方? 不思議なことを訊いてくるんだな。
もちろん暇なんだけれど、ぼくは一応カレンダーに目を向ける。二〇一九年の十二月。来週の火曜日は二十四日だ。保険会社から貰ったメルヘンな絵柄のカレンダー。二十四日には小さなリースのイラストが添えられている。
クリスマスイブだ。
「ぼくを外に出そうってこと?」
「無理はしなくていいけど……」
「予定なんてないから構わないよ」
「……え?」
そんなに驚くことないじゃん。
外には出たくないけれど、読む本もなくなってしまったし、家にいたって特にすることはない。姫野との外出を理由に強引に自分の足を動かして本を買おう。
「あ、じゃあ、学校終わったら迎えに行くね」
「うん」
通話が切られる。直前に小さく「やった!」という声が入っていた気がした。
何買おうかなあ。
◇
「へー、それってデートのお誘いなんじゃない?」
「えっ、買い物じゃないの? ケーキとか買いに行くのかなって」
「アリス君って馬鹿?」
口の端にがっつりクリームの付いているクラウスに言われたくないのだけれど。
「クラウス、付いてるぞ」
「んえ、何? どこどこ?」
「クリームが」
エドウィンがハンカチを取り出してクラウスの口を拭う。
「むぐぅむぐっ」
「後輩の前でそういう恥ずかしい姿を晒してないだろうな」
「むぎゅむぎゅ」
「いつまでも餓鬼じゃないんだからな」
姫野との約束の日を二日後に控えた今日、ぼくはクラウスから衝撃的なことを言われた。デート……? いやぁ、それはないでしょ。
庭は薄っすらと白くなっており、もう外でのお茶会は開けない。暖炉で薪の燃える暖かなリビングにて、ぼく達はテーブルを挟んでソファに座っていた。ぼく達の前に追加のお茶を置いたアーサーさんが食卓の方へ戻る。食卓側ではアーサーさんとニールさんがお茶を飲んでいる。ルルーさんとナザリオの姿はない。
目の前のお皿に置かれたチョコレートケーキを一つ小皿に取って、クラウスは美味しそうに頬張る。今度は鼻先にクリームがくっ付いた。
「クラウス……」
「ふええ、睨まないでよ兄貴」
エドウィンがやや乱暴にクラウスの鼻にハンカチを押し付けた。
「痛い痛い痛い!」
「おい、エドウィン、クラウス。じゃれあってないで早く教えてくれねえか」
ニールさんに言われ、エドウィンはクラウスにハンカチを放り投げるとテーブルに置いていたバインダーを手に取った。一瞬捲れ上がった紙の下に写真が挟んであるのが見えた。何が写っているのかは分からなかったけれど、すごく赤かった気がする。
チョコレートケーキを食べていたクラウスがバインダーから目を逸らす。一方でエドウィンはいつも通りの全くぶれない無表情のまま書類を眺めていた。
「あれは普通の生き物ではなかった。肉体はチェスが攻撃手段として発生させるものと同じ、質量のある影。調査中に霧散したそうだからな。おそらく、内部から発見されたトランプの死体、あれを核として作られたものだ。何を目的として行動したのかは分からないが、チェスが関わっていると考えて間違いないだろうな」
紙を捲る。ちらりと覗き込んだクラウスが小さな悲鳴を上げて下を向いた。しかしエドウィンの表情は変わらない。
「今回の謎の怪物に襲われての死傷者はトランプ、ドミノ共になし。しかし、核にされたトランプ二人の身元は不明。顔も分からないし、もちろん服装も持ち物もな。もはやただの肉塊でしかなく、骨格から男女の判断をすることもできないそうだ」
写真が挟まれているのだろう。少し引き気味に眺めながらエドウィンは言う。それでも淡々とした口調のままだ。
「チェスの纏う影については謎が多い。今回の件で国はバン……」
そこでエドウィンの言葉が途切れた。無表情な緑色の瞳が小さく震えている。
「……ば、バンダー、スナッチ、の、こと……も、もっと調べる……らし、い……」
コーカスレースにバンダースナッチが現れた時にも取り乱した様子だったけれど、何か嫌なことでもあったのだろうか。大きい犬に追い駆けられるとすごく怖いんだろうな。ぼくもトトに嫌われてるからよく吠えられるけれど、あれがケアーンテリアではなくセントバーナードとかだったら嫌だなあ。
心配そうにエドウィンを見遣ったクラウスが書類に目を留めて青くなる。すぐに目を逸らし、誤魔化すようにチョコレートケーキを頬張った。
「……報告は以上だ。オマエ達兄弟にも迷惑をかけたな」
「いえいえ。その代わりとしてこうして貴方から機密情報を得ているのですから」
ティーカップを手にしたアーサーさんが薄く笑う。ニールさんはフォーク片手ににやにや笑っている。エドウィンはこの兄弟に何か弱みでも握られているんだろうか……。それとも脅されているのかな。仮にも「管理をしている」という者がこんなにもいいように扱われるなんて、普通ありえない。
エドウィンはバインダーを閉じて鞄にしまう。クロックフォード兄弟には見向きもせずに席を立った。その様子を見て二人は笑みを浮かべている。……もしかしてエドウィンはからかわれているのかな。悪趣味な大人達だ。
残っていたお茶を飲み干すと、エドウィンとクラウスは連れ立って帰って行った。バンダースナッチという言葉にまだ狼狽えている様子の兄を見る弟の目は、どこか疑いを含んでいるようだった。
暖炉で薪がぱちんと爆ぜた。
「アリス、デートなんだったらちゃんとエスコートしてやるんだぞ」
「だ、だから違いますって!」
「どのような方がお相手なのかは存じ上げませんが、喜んでいただけるといいですね」
「そんな関係じゃないし、誘って来たのは向こうなんですってば!」
チェシャ猫と帽子屋はぼくの言葉になんて聞く耳を持たずに、優雅にお茶を飲んでいる。誤解されてるというより、からかわれている。たぶん。全く酷い大人達だ。




