第七十三面 随分酷い有様だね
紅茶を一口飲んで、ティリーは口を潤わせる。
「あの、本当は言っちゃ駄目ってヴィノさん……オーナーに言われてるんだけど、こんなことになっちゃったら非常事態だから許してくれるかなって……。コーカスレースは、極秘の依頼で伝承の龍について調査をしてたの。詳しいことは言えないんだけど。それで、今日、セリーナさんと一緒にぼくは色々と探し回ってて、ええと、これも詳しいことは言えないの、ごめん。でも、とにかく、そしたら、あれが現れて」
その時のことを思い出したのか、ティリーは身震いした。絞り出すように続きを語る。
「ぼ、ぼくは勇者だから立ち向かおうとしたんだけど、セリーナさんに止められて、二人で逃げた。兎の庭に入ったって気が付かないまま走ってて、この家を見てようやく分かったんだ。街の方へ向かってしまっているって。そしたら、帽子屋さんとチェシャ猫さんが出て来て、助けてくれたんだ。ぼくは家の中にいるようにって言われて、セリーナさんは街へ報告に……」
「俺と帽子屋というか、アイツはあの風に煽られて転んで足捻っただけだけどな」
「チェシャ猫さんかっこよかったです!」
「ありがとな」
ティリーはきらきらとした目をニールさんに向けた。それを受けてニールさんはにやにやと嬉しそうに笑っている。確かに、さっきのニールさんはとても格好良かった。
「ニールさんって銃使うんですね」
「あんな化け物相手に武器も持たずに挑めるわけないだろ。自分でいうのもなんだが、俺は射撃の腕がいいんだ。……昔親父に教えられてさ。獣だからといって、その能力にばかり頼っていたら駄目だって。役に立つ日が来るとはな、ちゃんと手入れしておいてよかったよかった。腕も鈍ってないみたいだしな。……ん?」
ふいに室内が暗くなった。窓を見ると、誰かの影が見える。誰かはこつんと窓ガラスを叩いた。ニールさんが立ち上がって窓辺に向かい窓を開ける。すると、「邪魔するよ」と言って漆黒のギルドオーナーが窓から入って来た。窓枠に腰を下ろし、ティリーを見下ろす。外の冷たい空気がリビングに流れ込んでくる。
イグナートさんはすらりとした足を持て余すように組んで薄く笑った。その笑顔にティリーが小さく震えた。ぼくの腕にそっと掴まる。
「あぅ、ご、ごめんなさい、ヴィノさん……」
「何が?」
「はううぅ……」
穏やかな微笑にティリーが怯えているのが分かった。ぼくの腕を掴む手に力が入る。優しい笑顔で相手を威圧するのはアーサーさんとイグナートさんの必殺技か何かなんだろうか。
ニールさんがイグナートさんの頭を叩いた。猫に叩かれて大烏は窓枠から室内に転がり落ちる。見るからに質のいいコートに付いた皺を軽く伸ばし、イグナートさんは不服そうにニールさんを見る。痛みよりもコートの方が重要なのか。
「チェシャ猫さんは酷いことをするな。高かったんだよこれ」
「子供を威圧してんじゃねえよ、大人げない」
ニールさんを無視してイグナートさんは窓を閉めた。まだ気になるのか、コートの裾の方をいじりながら振り向く。相変わらず指にはいくつも指輪を嵌めていて、手首には金ぴかの腕時計が見える。けれど、瞳や翼の漆黒は、そのきらびやかさを吸い込んでしまいそうなくらい深く暗い。
「あれは随分酷い有様だね。……帽子屋さんは?」
「アイツは具合悪くして倒れた」
「ああ、グロテスクなのは苦手だと言っていたね。いつだったかも拷問具の説明聞いただけで青くなっていたし」
「繊細なんだよ帽子屋は。アイツの前でああいう話はもうするな」
優しいお兄ちゃんだねえ、とイグナートさんが笑うとニールさんは「うるせえ」と言ってそっぽを向いた。あんなのは兄じゃない、あんなのは弟じゃないと言い合っているような二人だけれど、ニールさんの尻尾はまんざらでもなさそうに揺れていた。
ニールさんはわざとらしく咳払いをする。
「それで、オーナー様の見解はどうなんだよ」
「あれはジャバウォックではないね」
リビングにいたイグナートさん以外が揃って疑問と驚きの声を上げた。イグナートさんは右手の指輪を見せつけるように腕を組んで、小さく首を傾ける。瞳や翼ほどではないけれど、綺麗な黒髪がさらりと揺れた。日本人でもあれだけ真っ黒な髪の人はなかなかいないだろう。
漆黒の瞳の吸引対象に選択されたニールさんが少したじろぐ。烏とゴミ捨て場で対峙した猫のようだっだ。
「あれを殺ったのはチェシャ猫さんだよね。どうやって殺したの」
「銃で撃った」
「それで殺せるのならあれはジャバウォックではないよ」
イグナートさんは首を横に振る。ニールさんはそれを怪訝そうに見た。
そうはいっても、あれはジャバウォックだった。ぼくが本の中で見た黒い龍はあの姿だったのだから。
いや、待てよ。
ジャバウォックを倒すために必要なものは何だ?
ぼくは頭の中でジャバウォックの詩を暗唱する。
ジャバウォックと共に現れる不思議な存在、トーブ、ジャブジャブ、ボロコーヴ、ラース、そしてバンダースナッチ。詩の主人公の少年は、剣を手にジャバウォックと戦い勝利を収め、父親に褒められる。
「……ヴォ―パルの剣」
ぼくがそう呟くと、ティリーが小首を傾げた。ニールさんは不思議そうにぼくを見つめ、イグナートさんは面白いものを見るように目元を歪めた。
敵を知らないジャバウォックは、ヴォ―パルの剣でしか倒せない。このワンダーランドに現れるジャバウォックが本の中と同じ特性を持っているのなら、ニールさんの小銃では倒せないのだ。
「そう、ジャバウォックはヴォ―パルの剣でしか倒すことができない。忘れ去られた文献にそう記してあったよ。……詳しいんだね、ナオユキ君」
「あ、いえ、えーと、勘です」
けれど、あれがジャバウォックでないのなら何なんだ。
外から悲鳴が聞こえてきた。ざわめきが大きくなる。おそらく、警察と軍が到着したのだろう。仕事で色々なものを目にする人達にとっても衝撃が強いものであるということが喧騒からうかがえる。
ニールさんが玄関へ向かう。少しして、イグナートさんも外へ出て行った。ぼくはここに残っていた方がいいだろう。エドウィンやクラウスなら平気だけれど、知らない警察官や軍人の前に無闇に姿を晒すのはきっとよくない。
ティリーがちょこちょこと窓辺に行って鍵を外した。窓を開けると、外の会話が漏れ聞こえてきた。
「チェシャ猫、帽子屋は?」
「弟はグロいの見てダウンしてる」
「謎の生物をどのようにして撃退したのかね」
「撃ち殺した」
「この……この、遺体は?」
「変な奴から出てきた」
玄関のドアの開閉音がして、セリーナさんが入って来た。今日も伝書鳩よろしく提げたメッセンジャーバッグからは封筒が覗いていた。ぼくと並んで窓辺に立っていたティリーを見てほっとした顔になる。
「よかった、ティリー。無事だったのね」
「セリーナさん! あ、あの、どんな感じですか、外は」
「うーん、警察の人も困ってるみたい。あんなの初めてなんだと思うわ。わたしも遠くからちらっと見ただけだけど……。あれ? 帽子屋さんは?」
「帽子屋さんは近くで見ちゃったので倒れました」
「大丈夫なの?」
「たぶん」
外ではまだ事情聴取が行われているようだった。しかし、警察や軍の口から「ジャバウォック」という呼び名は出て来ない。
「例え軍人でも、下っ端にはジャバウォックのことは知らされていないみたいね」
もう一度様子を見ようと窓の外を覗いた時、勢いよく蒸気自動車が庭に飛び込んできた。赤いマントを羽織った青年が飛び降りてきて、群がっていた警察や軍を押し退ける。あの制服は見覚えのある王宮騎士の物に間違いない。軍帽には赤いハートがくっついていた。ということは、あの人は赤のハートのジャック。『不思議の国のアリス』でハートの女王のパイを食べて裁判の原因を作るハートのジャック。そして、たびたびエドウィンの話の中に登場するクロンダイク公爵。
クロンダイク公は大きな声で指示を飛ばした。ここからでも簡単に聞き取れる。どうやら今いる警察と軍を引き上げさせようとしているらしかった。みんなは困惑しながらも公爵の指示に従う。やがて、一団は街へ帰って行った。残ったのは公爵と、一緒に車に乗ってきた人。ようやくその人が降りてきたので見てみると、それは目を奪うような美しい金髪の若い男だった。ジェラルドさんよりは少し短いけれど、長い髪をポニーテールにしている。そして、脚や腕には装飾としてなのかいくつかのベルトが付けられており、工業系の人が使うようなゴーグルを首から下げていた。
ニールさんは黙ってその人を見ていたけれど、イグナートさんは恭しく頭を下げた。
「先にオレに通せって言ってあったよな、レイヴン」
「公爵が不在だったので、居合わせた軍人達が動いたそうです。うちの鳩はちゃんと止めたそうですが、軍部の方々は血気盛んですね」
「あはは、駄目じゃないかザック。下っ端が残骸を見てしまったよ」
「オレは殿下の狩りに付き合っていたんですけどねえ」
「俺の所為かあ」
殿下……?
金髪の男はジャバウォックの残骸に近付いて、何かを鞄から取り出した。カメラ、かな。どうやら写真を撮っているらしい。
「殿下、あまりそういうものに近付かないでください! 写真ならオレが撮りますから! ……うわっ! 気持ち悪っ!」
「ザック、これは我が国民だったものだよ。失礼だろう。ご冥福をお祈りしなくては……」
「いや、でもこれはさすがに……。あれ? チェシャ猫、帽子屋はいないのか?」
「何でみんなして同じこと聞いてくるんだよ。アイツは具合悪くして倒れた」
公爵とニールさんの会話を横目に、殿下と呼ばれた男は写真を撮り続けている。そして、一通り撮影を終えるとイグナートさんに歩み寄った。
「レイヴン、詳しいこと教えてくれるかな」
「……ここだと聴衆がいるので、後でいいですか、殿下」
漆黒の瞳がちらりとこちらを向いた。つられて殿下という人もこちらを向く。うわ、ヤバい。すぐに頭を引っ込めたけれど、見られてはいないよね……?
「あとで片付けに来させるよ。詳細は追々、ね」
殿下はそう言うと、公爵と共に去って行ったようだった。
ニールさんとイグナートさんがリビングに戻ってくる。
「あー、慣れねえな王族の相手は」
「チェシャ猫さん、頭くらいさげた方がよかったんじゃないかな。不敬じゃないかい?」
王族、殿下……。やっぱりあの人は王子様?
顔に考えが出ていたのか、ぼくを見てイグナートさんがくすくす笑った。
「彼はアルジャーノン・ストレート・ポーカー。次期国王、ワンダーランドの第一王子だよ。視察馬鹿のただのイーハトヴかぶれだけれどね」
「不敬なのはどっちだよ」
「……アレについてはそのうち話があると思うけど、とりあえずは国に任せておいた方がいいだろう。私達は岩の広場に戻ろうか」
イグナートさんの言葉にティリーとセリーナさんが頷く。そうして、鳥達は揃って飛び去って行った。ヴォ―パルの剣について濁された感じがするけれど、追い駆けても間に合わないだろう。
「マイペースだよなあ。有無を言わせずさっさと帰りやがった。……というか、訊かれたくなかったのかな、何かを」
窓の外を見るニールさんの視線は鋭い。床を這い回る鼠を見ている猫の目だった。実際は烏を見ているわけだけど。
北東の森、岩の広場を根城にするギルド。羽繕いの広場、鳥会議。イグナートさん達はジャバウォックについて何か調べている。興味深いことだから詳しく訊きたかったけれど、向こうにも依頼人との信頼関係があるだろうから細かくは教えてくれないだろうな。
「ジャバウォック……らしき龍ですけど、あいつ、ぼくのことアリスって呼んだんです。直前にアーサーさんが言っていたから知ったのかもしれないけれど、アリス、アリス……って」
キッチンの方へ行っていたニールさんがマグカップを手に戻ってきた。カップの中を満たすのはどうやらココアのようだ。そして、テーブルに置くとぼくに座るよう促した。ぼくはソファに座り、ココアを一口飲む。
銀に近い水色の瞳がぼくを見る。ニールさんもココアを一口飲んで、カップをテーブルに置く。なかなかお目にかかれないニールさんのマグカップには猫の肉球マークが付いている。ゆるやかなカーブを描く取っ手を撫でながら、いつになく真剣な声で言葉を紡ぐ。
「昔々の話をしてやろうか」
それは、眠れない子供に絵本を開く親の言葉。開いた表紙の向こう側、扉絵に描かれた笑い猫が絵本の中身を語りだす。




