第七十二面 その辺でもういいです
白ずくめの女に会って、琉衣に殴られた日から、ぼくは引き籠りを再開している。父のものも母のものも引っ張り出して、いよいよ読む本がなくなってしまった。読書ができないということは、世界を見ることができないということだ。今のぼくには、もうこの部屋とワンダーランドしかない。
外はクリスマスを目前にして盛り上がっているけれど、ぼくには関係ないことだ。関係、ない……。
気にしてなんか、ないんだから……。
……姫野と琉衣はクリスマスには予定あるのかな。
いやいや、何を考えてるんだぼくは。誘われたって外には出ないぞ。
積み上げられた本を横目にベッドに横たわる。枕を抱きしめていると、ナザリオのように瞼が重くなってきた。
――アリス……。
誰かが呼んでいる。聞こえてくるのは声だけで、辺りは真っ暗だ。
――アリス……!
白ずくめの女じゃない。この声は女ではなく、男だ。
ねっとりと、舐め回すように聞こえてくる。その音に体が震えているのではないだろうかと思わせる、嫌なくらい低く響く声だった。声を聞いているだけで気分が悪くなりそうだ。
――アリス。
――かわいそうなアリス。
そこでようやく視界が開けた。目の前に広がるのは鬱蒼とした森だ。
――私に殺されてしまう、かわいそうな子。
強い風が吹いて木々が大きくしなる。そして、羽音と共に黒い影が姿を現した。龍だ、そう思った。頭から生える角、揺れる髭、蝙蝠に似た翼、鋭い爪、太く長い尾。そして、ぼろぼろのベストを着ていた。
血のように赤い瞳がぼくを捉える。
「……ジャバウォック!」
地獄の奥底から聞こえてくるかのようなおどろおどろしい咆哮と共に、黒い龍は大きな口を開けて飛び掛かって来た。
気が付くとぼくはベッドから落ちていた。
あれは夢。けれど、顔を撫でていく風の感覚や、迫りくる龍の威圧感はとてもリアルだった。本当に目の前にいたように感じる。
ぼくは起き上がると、積み上げられた本の中から一冊を手に取った。『鏡の国のアリス』を捲り、ジャバウォックの詩が載っているページを開く。本文の横には先程夢に現れたものとそっくりな黒い龍の姿が描かれていた。
何だろう。嫌な予感がする。確証なんてないけれど、胸がざわざわした。
『鏡の国のアリス』を本の山に戻し、姿見の前に立つ。
◇
リビングに人はいない。寒いと思うけれど、外だろうか。そう思って玄関のドアに手を掛けた時、後ろから抱き付かれた。背中に受けた衝撃は小さなものだった。ぼくのお腹の方に回された小さな手がパーカーを掴む。
「ナオユキぃ……」
ぼくが言うのもちょっと変だけれど、声変わりしていない男の子の声だった。
「ティリー? どうしたの。何でこの家に……」
コーカスレースに所属する鷲の男の子、ティリー。いつもゲームに登場する勇者のように軽装の鎧を身に着け、マントを羽織り、鉢巻を巻いている。コーカスレースの仕事もヒーローごっこだと思っているようだけれど、一生懸命取り組む頑張り屋さんのいい子だ。そんなティリーが弱々しい声を出している。
とりあえず手を引き剥がし、ぼくは振り返る。ティリーは俯いて小さく震えていた。それこそ雛鳥のように。泣いていたのか目の周りが赤い。
「あうぅ……。じゃ、じゃば……」
その時、外から何かが弾けたような音がした。テレビで聞いたことのある音だ。刑事ドラマなどでしばしば聞こえてくる、あの音。
「……銃声?」
ぼくは玄関のドアを開けた。「駄目!」とティリーがしがみ付いてきたがもう遅い。途端、ものすごく強い風が家の中に吹き込んできた。落葉を舞い上げ、枝を吹き飛ばす。
その強風の真ん中にいるのは、黒い龍だった。夢に出てきたジャバウォック。そんな龍と対峙しているのはアーサーさんとニールさんだ。ジャバウォックは見下すように猫の兄弟を見下ろして笑っている。実に愉快そうな笑い声だけれど、聞いていると非常に不愉快になる声だ。アーサーさんは蹲っていて、ニールさんだけがジャバウォックを見上げて睨みつけていた。戦闘時だというのに手は人の物のままだったけれど、代わりに拳銃を持っていた。先程の音はこれだろうか。
ニールさんはアーサーさんを背中に守るようにして立ち、銃口をジャバウォックに向ける。
「ギャアアアアース!」
「うるせえ、黙ってろ」
暴風吹き荒れる中、照準を合わせる。
「フハハハハハハァ!」
「失せろ」
そう言うと同時に引き金を引いた。銃弾はジャバウォックの額に直撃したが、当たっただけだった。血の一滴も出せないままぽとりと地面に落ちる。
「くそっ、コイツじゃ弱いか……」
風に吹かれ続けた家がみしみしと軋み始める。その音に気が付いて顔を上げたアーサーさんがぼくとティリーに気が付く。「アリス君」と呟いた声に反応して、ジャバウォックが長い首をぎゅるんと捻ってこちらを見た。血のように真っ赤な瞳が真っ直ぐにぼくを見つめる。鋭い牙の並んだ口が大きく歪められた。
「アァ、アリ、ス……」
ジャバウォックは縋るようにぼくに手を伸ばしてきた。トカゲに似た外見の皮膚で、黒くて大きな爪がくっ付いている。幸せそうに笑う顔は実に不愉快である。背中にティリーがしがみ付いているのが分かった。戦うすべなんてないけれど、年上なんだからぼくがティリーを守ってあげなくちゃ。でも、どうやって。
ジャバウォックの口が目の前に迫る――。
「……狙い撃つ!」
ニールさんの声と共に銃声がしてジャバウォックの長い首から血飛沫が飛んだ。不気味に響き渡る呻き声が聞こえた。そして、首に大きな穴を開けた黒い龍がゆっくりと地面に落ち、砂埃と落葉を巻き上げる。その周辺には赤が少しずつ広がって行った。
「大丈夫か、アリス、ティリー」
ニールさんは先程の拳銃ではなく、細身で少し大きめの銃を持っていた。ぼくは武器に詳しくないのでよく分からないけれど、おそらく小銃だろう。銃身にはいくつかの歯車が取り付けられているのが見える。ぼくが頷くと、ニールさんはにししと笑った。
横たわっているジャバウォックは動かない。死んだんだろうか。
ぼくと同じことを思ったらしく、よろめきながら立ち上がったアーサーさんがニールさんに訊ねた。銃を持ち替え、ニールさんはアーサーさんの体を支える。
「いや、たぶん死んではいねえな」
その声に反応するかのようにジャバウォックの首が小さく持ち上がった。首から、口から血を流しながら、ぼくを見る。
「ア、リ……ス……」
伸ばされた腕がぼくの目の前で力尽き地面に下ろされる。そして、黒い皮膚が膨れ上がるようにして体が弾け飛んだ。あらゆるものが飛び散り、辺りを赤く染める。
ぼくの顔にも何かがびちゃりと当たった。パーカーの背中を掴むティリーの手が震えていた。いつもは勇者だなんだと言っているけれど、普通の子なんだよな。目の前に広がる景色に、ぼくも動けない。あの巨体から噴き出された夥しい血液と肉片とが散らばっている。けれど、あるべきものがなかった。骨が、ないのだ。代わりに何かが見えたけれど、直視できないくらいの有様だ。……これ以上の情報をぼくは得られない。顔に付いた血を拭い、ティリーを振り向く。
「あれは何です?」
「ん? 無闇に近付くなよ」
「しかし、一応確認……。……ぅぐ」
「どうしたー? うわ、こりゃひでえな」
「うぅ……ぐっ……。げほっ……。う……ぇ……っ!」
「帽子屋っ!」
後ろからアーサーさんの苦しそうな呻き声とニールさんの慌てた声が聞こえてきた。
ぼくの腕に掴まったまま離れようとしないティリーと並んでソファに座る。リビングに戻ってきたニールさんがぼく達の前にティーカップを並べた。
「帽子屋さん、大丈夫そうですか」
「ちょっと具合悪くなっただけだ。心配してくれてありがとな」
ティリーの頭を雑に撫でて、ニールさんはぼく達の向かいに座った。アーサーさんは体調を崩してダウンしている。ぼくはすぐに目を逸らしたけれど、状況を確認するためにジャバウォックの残骸に近付いたアーサーさんはぼくには見えなかったもっと酷いものを見てしまったんだろう。
「アリスは平気なのか、あんなの見て」
「ちらっとしか見てないので……。そんなに酷かったんですか?」
ニールさんは溜息をつく。
「俺は多少グロくても平気だけどよ、さすがにあれはな……。ジャバウォックの後に残ったのは人間の死体だった。けど、もう、かろうじてトランプだったってのが分かる程度で、人の形がほとんどなくなっていた。皮膚がないから肉が見えてて、骨も飛び出てたし、内臓も……」
「あうう、その辺でもういいです」
「何だよ自分から訊いたくせに」
「聞いてるだけで具合悪くなりそうです……」
頭の中に浮かんで来たイメージ図を振り払いながら紅茶を飲む。ティリーもようやくぼくから手を離してカップを手に取った。家の外にはまだ血痕と破片とトランプだったものが放置されている。ジャバウォックが現れた時点でセリーナさんが街に向かったらしいので、もうしばらくしたら警察や軍の人が来るだろうとのことだ。
カップを持つティリーの手が震えていた。目はまだ少し潤んでいる。
「ニールさん、ぼくが来る前に何があったんですか」
「ぼ、ぼくが話すよ、ナオユキ。ぼくのせい、だから」




