第七十一面 分かる訳ないだろ
ライオンはとても臆病だった。
だから勇気がほしくて、魔法使いに会いに行った。
本当に魔法使いがいるのなら、ぼくには耐性を与えてほしい。
♥
小さな公園のベンチに座っていた。遊んでいる子供を見守る親達が、少し不思議そうにぼく達のことを見る。こんな昼間に中学生が外にいるなんておかしいからだ。
「今日学校休んだんだよ。病院の帰り」
隣に座った琉衣はそう言って自動販売機で買った温かいココアを飲んだ。
「いやあ、醜態晒さないで済んでよかったな」
「琉衣じゃあるまいし……」
「……だから倒れることはあっても」
「分かってるよ」
温かい緑茶の入ったペットボトルを弄ぶ。また助けられてしまった。
「ごめんな。学校祭のこと璃紗ちゃんから聞いたよ。オレが帰った後色々あったんだってな。オレの所為だ。オレが倒れなければ……」
「琉衣は悪くないよ。ぼくが弱いだけだ」
いいなあ、琉衣は。体は弱いけれど、心はとっても強いんだから。
そんなぼくの心の声が届くはずもなく、琉衣はココアの缶を手に空を仰いでいた。寒風に揺れる茶色い髪が顔にかかっているけれど、気にならないんだろうか。首元には緑のチェック柄のマフラーを巻いている。さすがというか、寒さへの対策はばっちりなようだった。
「先生さ、頑張ってくれてるよ」
「え?」
「ようやく他の先生とかも巻き込んで動かせるようになってきたみたいなんだ。やっぱり、みんな自分のクラスで手いっぱいだろ? でも、学校そのものがどうにかしなきゃいけない問題なんだ。きっと」
学校が変われば、ぼくは変わらなくていいのか?
星夜中学校は特別荒れているわけではない。いじめやいやがらせなんて数えてもなかなか見つからないくらいだから、先生達の平和ボケがあるとも言えるだろう。ぼくのことももしかすると、他の先生からすればどこかのクラスの小さな諍い程度なのかもしれない。ぼくの長期不登校が学校全体の問題に変われば、どうにかなる、のかな。
いいや、関係ない。どうなろうと、どう変わろうと、もう学校になんて……。
「もういいよ……」
「有主?」
「もう、いいんだ。ぼくはもう学校にはいかない。外に出ることそのものが怖いんだ。今日だって、結構無理してる。琉衣が隣にいるからどうにか持ちこたえてるけど、早く帰りたい」
ぼくはベンチの上で膝を抱える。自分自身の体温だけが、落ち着きを取り戻すことのできるもの。身を縮めた時に手から滑り落ちてしまった緑茶のペットボトルが地面に転がる。このペットボトルみたいにぼくは外の世界から離れていくんだ。
ライオンが求めた勇気も、ラプンツェルが外に夢見たものも、何もない、何もいらない。本さえ、本さえあれば。外から開くことのできない閉ざされた場所で、本だけ読んでいられたら……。
ベンチが軋む音と、砂を踏む音。頭に押し付けられるペットボトルの底。
「う」
「落ちたよ」
「知ってる」
琉衣はしばらくペットボトルでぼくの頭をぐりぐりしていたけれど、飽きたのか諦めたのか、ベンチに座り直した。
「頑固者め」
「怖いんだよ」
「逃げてるだけだ」
「逃げなきゃ駄目だ」
「いつまでそうしてるつもりなんだ」
「五月蠅い」
「本当はどうにかしたいくせに」
「五月蠅い」
「このままじゃ駄目だって思ってるくせに」
「五月蠅いっ!」
ぼくは顔を上げた。
「分かったように言うな! ぼくの気持ちなんて、琉衣なんかには分からないよ! スポーツができて、友達がたくさんいて、顔もそこそこいい琉衣に分かる訳ないだろ!」
「そこそこ……」
琉衣は両手にそれぞれ緑茶とココアを持っていた。緑茶のペットボトルをぼくに差し出す。叩いたら崩れてしまいそうなくらい白くて細い腕がこちらへ伸びてくる。殴り合いなんてしようものなら、拳が相手に触れると同時に自分の腕も破壊されてしまいそうだ。けれど、そんなことはなく見事に相手を吹き飛ばしてしまう。ぼくなんかとは違う、強い腕だ。
ぼくが緑茶を受け取ると、琉衣は困ったように笑った。見た目詐欺の被害者を生み出す儚げで薄幸そうな笑顔だ。
「それが分かっちゃうんだよなあ」
そう言ってココアを飲む。少し薄い色の瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「分かるんだ、いじめられる側の気持ち」
「……え」
「そんな深刻な顔するなよ。幼稚園の時だ。いじめなんて言えないかもしれないけど、ちょっと心無いこと言われたりとか、嫌なことされたりとかしたんだよ。『るいくんにちかづくとびょうきがうつる』とか、そういうさ」
初耳だった。今までそんな話聞いたことがない。
「今思えば、向こうはオレのこと怖かったんだろうなって。よくげほげほしてたし、みんなの前で発作起こして倒れたこともあったしさ。でもあの頃のオレは何でみんなにそんなこと言われるんだろうって、分からなかったんだ。辛くて苦しいのはこっちなのに、どうしてそっちがそんな顔をするんだろう。ガキなんて遊ぶのが仕事みたいなもんなのに、なかなかみんなと一緒に遊べなくてさ、何で仲間外れにされるんだろうって。あれなんだよなあ、遊んでる最中に倒れたらどうしようって向こうは思ってたんだよなあ、きっと。だからさ、オマエの……」
「全然違うでしょ」
琉衣にもそんな過去があったのか。いつも朗らかにしているから、そういう影は全く感じさせないよね。
「幼稚園児と中学生じゃ、言うこともやることも全然違う」
体が弱いことなんて生まれつきで、自分ではどうにもできないことなのに。小さな当時の琉衣には、とても寂しいことだったんだろう。
「分かったみたいに言わないでよ……」
今まで言わなかったんだから、本当は言いたくないことなんだ。そんなことまで言って、ぼくに寄り添ってくれるなんて……。
「分かんないよ、琉衣には……」
馬鹿みたいに優しいんだから、琉衣は。
「優しくしないで……自分が惨めになる……」
言いたいのはこんな言葉じゃないのに。
「放っておいてよ、もう」
せめて、姫野と琉衣だけでも傍にいてほしい。
「一人に……させて……」
琉衣が手を上げた。それを視認した次の瞬間、ぼくの左頬に衝撃が走った。空が足元に見えた。緑茶のペットボトルが宙に舞う。そして、ぼくはベンチから転がり落ちた。口の中に砂が入った気がする。じゃりじゃりとした感触の他に、血の味がした。おそらく口の中を歯で切ってしまったんだろう。じわじわと痛みが広がっていく。
右で拳を握った琉衣が立っていた。その手は微かに震えている。
公園で遊んでいた親子連れにざわめきが広がった。母親は子供をぼく達から遠ざけ、不審げな目付きでこちらの様子を窺っている。
「なっ、な、何するんだよ!」
「むしゃくしゃしたからやった」
「は!?」
琉衣は馬乗りになるようにしてぼくの胸倉を掴んだ。
「全部一人で背負い込むのやめろよ」
「離して」
「いい加減にしろよ」
「どっちがだよ!」
「本当は戻りたいんじゃないのか!」
「やめて!」
ぼくは琉衣の手を引き剥がして突き飛ばす。ぼくの力なんて強くないから、琉衣は少しよろめいただけだった。
「嫌だって言うのを無理に引きずり出すことはしないよ。でも、オマエ楽しそうだった」
「違っ」
「学校祭の日、楽しそうだったよ、オマエ」
一瞬、呼吸が止まったような気がした。
「どうするのか決めるのはオマエだけどな」
そう言うと、琉衣はココアを手に公園を出て行ってしまった。残されたぼくは痛む左頬をさする。
「何なんだよ……もう……」
あの日、教室に入るあの時まで、ぼくはどうだっただろうか。ステージに立った時、どうだっただろうか。台本を手にした時、何を思った。
しかし、淡く抱いた希望は脆くも儚く消えてしまった。ようやく見つけた青い鳥が、連れ帰ろうとした時に死んでしまったように。
戻れればいいとは思った。けれど、そこにぼくの居場所はなかった。
ペットボトルを拾ってぼくは公園を後にした。
「どうしたの有主、怪我してるじゃない!」
「……とりあえず冷やしておくよ」
「ようやく外に出たと思ったら、どこで何して来たの!」
詰め寄ってくる母に「手、洗うから」と言ってその場を退散する。洗面所の鏡に映るぼくは左頬を赤くして、こちらを睨みつけていた。手洗いうがいのついでに顔も洗う。雫を滴らせるぼくは、変わらずにこちらを睨み続けていた。
冷蔵庫から引っ張り出した冷却シートを左頬に貼り、自室に向かう。すると、階段の前に母が立ちふさがっていた。
「有主、何があったの」
「……琉衣に殴られた」
母が小さく驚きの声を漏らした。ぼくは驚愕している母を押し退けて階段を上った。
無言でぼくを出迎える本達を踏まないようにしながら、ベッドに倒れ込む。
本当に、本当にぼくの居場所ができたのならば。ぼくが平和に暮らせる場所になったのなら。そうなれば、様子を見に行ってもいい。けれど、どうせ変わらないだろうな。もうあそこにぼくの居場所なんてない。
眠ってしまったらしく、気が付くと外は暗くなっていた。冷却シートはまだちょっとだけ冷たい。母から声がかかったので、夕食の為に部屋から出た。父は冷却シートを見て何か言おうとしたが口を閉じてしまった。
夕食の後、真っ直ぐ部屋に戻ろうとして父に呼び止められた。
「座りなさい」
先程まで座っていた椅子に座り直す。父は厳格で古風な人というわけではなく、今どきの草食系男子がそのまま大人になった感じの人だ。しかし、時としてこのような大黒柱としての威厳を放つ。
「そろそろ半年だ。有主はどうしたいんだ?」
「学校なら行かないよ」
「無理にとは言わないけど」
「じゃあ行かなくていいんでしょ」
席を立とうとしたら「待ちなさい」と再び呼び止められた。
「璃紗ちゃんや琉衣君は待ってるんじゃないのか、有主のこと」
「……知らない」
「よく考えた方がいいんじゃないか」
「考えたじゃん。行ってもいいかなって思って学校祭行ったでしょ。でも、駄目だった。もう嫌だ。学校の話なんてしないで」
ぼくは居間を飛び出して部屋に戻った。駆け込んだために本に躓き見事にスライディングをしたので、ぼくは本の山に衝突し、本達は崩れ落ちた。本棚にちゃんと収めておけばこのようなことにはならないのだけれど、最近は読んでそのまま積み上げてしまっていた。
一冊の本が目の前に転がる。それは有名な作家が記したものなのに、あまり知られていないものだった。その作家が書いた別の作品があまりにも有名過ぎて、隠れてしまうのだ。この物語に登場する小さな妖精達のように、姿を見ることはあまりない。探して探してようやく手に入れた本なんだ。
ぼくはうつぶせのまま『シルヴィーとブルーノ』の表紙を捲る。今夜はこのまま妖精の世界へ行くこととしよう。




