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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十冊目 閉ざされた思い
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第七十面 あなたは誰……?

 とある昼、ぼくは骨董品店の前にやってきていた。外に出るのは久し振りで、ちょっと緊張したけれど学校ではないと思い続けてここまで歩いてきた。やはり問題なのは学校か。でもいいもん。もう知らないから。


 道を吹き抜けていく風は冷たい腕で頬を撫でていく。ジャンパーの前を閉め直して、ストールを巻き直す。今から室内に入るにしても、寒いのだから仕方がない。店内は暖かいといいのだけれど。


 ドアの横には蛙の置物が置かれていて、相変わらず背中に小銭を載せている。ドアを開けると、ベルがリロンリロンと音を立てた。


 どこかに暖房があるのか、店内にはゆるやかに温風が流れていた。ぼくはストールを少し緩める。


 いつもの場所に悪魔の形の足をしたテーブルが置かれていて、その上には白い兎のぬいぐるみが乗っかっていた。横に倒れていたので座らせてあげると、「ありがとう」という声が聞こえてきた。ぬいぐるみから声が発せられたのかと思って一瞬びっくりしたけれど、店の奥の方から人が出てきたのでおそらくこの人の声だろう。


 店主のおじいさんの姿は見えない。現れたのは白ずくめの女だった。暖かそうな生地の白いワンピース姿で、白いニット帽を被っている。


「いらっしゃい、アリス。今日は一人? ドロシーとチルチルは一緒じゃないのね」

「二人は学校です」


 白い女は真っ赤な瞳を見開く。そして、とても面白いものを見るように笑った。


「あら、じゃあアリスは学校お休みしてるのね」


 クラスのやつらと同じようにくすくす笑う。


「……今日は逃げないんですね」

「逃げる? 前に会った時に私逃げたかしら」

「逃げましたよ。だからこれを返しそびれて……」


 ぼくはショルダーバッグから白いハンカチを取り出す。いつどこで会ってもいいように、基本的に持ち歩いていた。もしかしたらまたここにいるのかもと思ったけれど、こうもあっさり再会できるとは。


 白い女はハンカチを見て小さく首を傾げた。まじまじと見て、ぽんと手を打つ。


「ああ、それ、私のね」

「落としたから拾ってあげたのに、呼んでも呼んでも振り返ってくれなくて」


 ぼくの手から奪い取るようにしてハンカチを手にし、愛おしそうに兎の刺繍を撫でる。


「あの、あなたは何者なんですか」

「どういう意味かしら」


 姿見のこと、ワンダーランドのこと、言ってしまってもいいんだろうか。いや、黙っていた方がいい気がする。この人が何者か分からないんだから、全てを言う必要はない。


「何でぼくのことアリスって」

「……だって貴方はアリスでしょう? それともちゃんとした名前で呼んでほしいの? 神山有主君」

「なっ、んで」


 何で本名を知っているんだ。もしかして、クラスの誰か、小学校の頃の誰かのお姉さんなんだろうか。仮にそうだとしたらぼくの本名とアリスというあだなを知っていてもおかしくはない。でも、本当にそうか? この人が誰かのお姉さんなら、もっと話題になっているはず。だってこんなに綺麗な白い髪の人なんて滅多にいないはずだから。


 それに、この女の人の声はぼくをワンダーランドへ誘ったものなんだ。


「あなたは誰……?」


 白い女は口元に薄く笑みを浮かべる。透き通るように白い肌。薄っすらとピンク色に色づいた唇が妖しく歪められる。


「私は私よ」

「それは答えになっていません」

「あら、じゃあ貴方は答えられるの。貴方はだあれ?」

「ぼくは……」


 ぼくは、何だろう。


 自分を表すのは名前だろうか。嫌いだって言い続けているこの名前だろうか。それとも、中学生だという社会的立場だろうか。それとも、日本人だという人種的な問題だろうか。それとも、ヒトであること?


「ぼくは……神山有主です」


 辿り着くのはやはり名前だ。ぼくという人間を記号的かつ的確に表現するものは名前しかない。


 白い女は破顔した。


「そうね、名前は大事ね。なくしちゃ駄目よ」


 そして、一歩ぼくに近付く。


「貴方は神山有主君。でも私は私なの。私は名前をなくしてしまったのよ」

「どういう……こと、ですか。記憶喪失、とか?」


 白い女は目を伏せた。髪と同じ白い睫毛が小さく震える。ハンカチを握る手も強張っているようだった。そして、目を開ける。血のように赤い瞳が真っ直ぐにぼくを見下ろす。


「覚えているのは、アリスという名と……。いいえ、詳しいことは言えないわ」


 ゆるゆると首を振ると、白い髪が静かに波打った。店内に挿し込む日差しを受けて、きらきらと光っている。宙を漂う埃さえも装飾品のようだった。白い女はハンカチを握りしめる。


「このハンカチ、これはとても大切な人に貰ったものよ。誰だったのか、思い出せないけれど。見付かってよかった」

「どうしてこのお店に」

「質問攻めは嫌いよ」


 ハンカチをワンピースのポケットにしまい、白い女はくるりと後ろを向いた。陳列された骨董品を撫でて、踊るような足取りで店の奥へ歩いて行く。ワンピースの裾と長い髪は、どこかへといざなう怪物の腕のようにうねっている。


 ぼくは彼女の後に付いて行った。奥にあるロッキングチェアは無人で、やはりおじいさんの姿は見えない。留守なんだろうか。ピエロの人形が持っていたプレートは『OPEN』になっていたんだけれどな。


 長針が無く、短針だけが二十七分を指し示している振り子時計の前で白い女は立ち止まった。時を刻む音は聞こえるけれど、これは入口の近くに置かれている時計のものだ。目の前にある時計は仕事を放棄して沈黙を保っている。


「歪な歯車……時の中……繋がれた古のうた……」


 壊れた時計を撫でながら白い女は呟いた。


「歌、ですか?」

「そうね、多分。あまり覚えていないけれど。……私は一体誰なのかしら」


 幾重にも重ねられた分厚いカーテンの向こうから「よっこいしょ」という声がした。おじいさんだ。奥がお家なのかな。


 白い女はハッとした様子で時計から手を離す。振り向いた時に広がった白い髪がベールのように煌めく。


「私行くわね」


 そう言ってぼくの横を通り過ぎ、入口へ向かう。開けられたドアの上でベルがリロンリロンと鳴った。


「またね、アリス」


 白い残像を残して彼女は去って行った。入れ違いになるように奥からおじいさんが出てくる。おじいさんはぼくを見て目を丸くした。


「やあ君か。準備中だったんだけどね」

「え、でも、ピエロは」


 おじいさんはピエロの人形が持つプレートを見て「おかしいねえ」と笑っている。もしかして、あの女の人がプレートをひっくり返したのだろうか。ぼくがやって来るのを分かっていて、店の中で話をするために。いや、考え過ぎか。


 ロッキングチェアに腰を下ろしたおじいさんは今日の新聞の朝刊を読み始めた。


「あの、白い服を着た女の人を見ませんでしたか」

「いやあ、奥に……家にいたからね」

「そう、ですよね」


 おじいさんは新聞に目を戻す。そういえば、あの白い女の人と店主のおじいさんが一緒にいるところを見たことがないな。物語の中であれば、実は二人は同一人物でしたなんてこともあり得るだろうけれど、そんなことが実際にあっても困る。そもそも、若いお姉さんと髭のおじいさんが同一人物なんて無理がありすぎる。我ながら酷い考察だな。帰ったらシャーロック・ホームズでも読んでおこう。


 店内には時計の音と暖炉で薪が燃える音だけが聞こえている。そして、おじいさんが新聞を捲る音。


 適当に骨董品を眺めて、ぼくはお店を後にした。外に出るとやはり風が冷たい。ストールを巻き直して晩秋の道を行く。


 私は私、と白い女は言った。名乗るべき名前を失ったのだと。


 それってどういうことなんだろう。忘れてしまったのではなくて、失ってしまった。取られたっていうことかな、誰かに。取られた、っていうのはちょっと変か。名乗ることを禁じられたってところだろうか。でも、どうして?


 やっぱり分からない。あなたは、誰。


 ストールの端っこが顔を覆うようにして風に捲れ上がった。払って歩き出す。道を行く人々は少し早足で、みんな寒さを誤魔化そうとしている。このくらいの寒さで震えていたら北海道の人に笑われるんだろうけれど、夏にも沖縄の人に笑われるくらい暑がっているから別にいいや。


 ぼくを誘う声。アリスをワンダーランドへ導く者。


 そう考えたら答えはあれしかないのだ。ずっとその考えが頭に引っ掛かっていた。だってあの女の人はこの町にいるじゃないか。あの人が……あの人が白兎なら、あっち側にいるはずなのに。それに、本人が自分のことを分かっていないのだから確認のしようがない。


「耳生えてなかったしな……」


 兎の耳ならあの程度の帽子なら絶対にはみ出るはずだ。ぼくの考察は間違っていて、彼女は普通の人間で不思議な人だというだけかもしれない。


 いや……。


 待て。


 耳の有無では分からない。いつも見てるじゃないか、獣耳のないドミノのことを。けれど、それだけであの人をワンダーランドの住人だと決めつけることはできない。もしそうなんだったら、どうしてここにいるんだってことになるし……。


「あああああああああっ、もうっ! わっかんないよぉっ!!」


 この間までオレンジ色だった商店街は赤と緑に染められている。そんな賑やかな場所を行く人々が一斉に振り向いた。吹き付ける風と同じくらい冷たい目だ。どうしてこんな時間に子供が、という怪訝そうな目だ。突然叫び出した少年を不審がる目だ。クラスのやつらと同じ目だ。


 やっぱり外に出るんじゃなかった。


 ここは路上であり、中学校の教室ではない。しかし、向けられる目が、突き刺さる視線がぼくを容赦なく抉っていく。それは見られたくない部分まで覗き込まれているような感覚で、纏わりつく嫌な感じが拭えない。


 駄目だ、思い出すな。


 頭の奥の方でクラスメイトの囁きが反響する。中学校のものだけではない。記憶の奥底に消し去ったはずの小学生の頃のものまで混ざっているようだった。まるで洗濯機の中に脳みそだけ放り込まれたように頭の中がぐしゃぐしゃと歪みだしたみたいだ。


 あれ、おかしい。焦点が定まらない。足が思うように動かない。頭が重い。気持ち……悪い……。


 幼稚園の時に間違えて江戸川乱歩と横溝正史を摂取した、あの日のようだった。


 やめろ、ぼくを見るな。ぼくのことをひそひそと話すな。やめろ。やめろ。


「嫌だっ……!」


 気持ち悪い。思考が、行動が安定しない。


「有主」


 視界に入ってきたのは青い羽根だった。


「街ん中で吐くなよ。さすがにそれはオレもしない」


 ウエストポーチに付けられた青い羽根の付いたタッセルが揺れる。


「大丈夫か」


 全然大丈夫じゃない。













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