第六十九面 悪夢ならいいのに
かわいそうなアリス。
ひとりぼっちのアリス。
泣いていたんだね。
悪いやつらなんて壊してしまえばいいのに。
でも大丈夫。キミには鏡があるだろう。
さあ、こちらへおいで。
お茶にする? それともお話?
そうだな、一緒に歌おうか。
回れ、回れ。
迷え、迷え。
踊れ、踊れ。
歌え、歌え。
ボクが木戸の脇に座ったままおじいさんになってしまう前に。
くるくるくるり、きらきらら。
♠
本棚から引っ張り出した本が床に散らばっている。無造作に開かれた本が文字だらけの腹を晒しながらベッドに乗っている。中途半端にカーテンの閉められた部屋は少し薄暗い。
本と一緒に横たわりながら、ぼくは掛け布団を抱きしめる。
棚にある本は全部読んでしまった。新しい本を買いに行くか、借りに行くかしなければならない。けれど、体が言うことを聞かなかった。玄関を開けることを拒む。ぼくは本を求めに行くことすらできなくなってしまったのか。
先生がやってきたと母が告げる。ぼくは答えなかった。部屋に鍵をかけるようになったため、母が執拗に訪ねてくることもない。
ぼくはいよいよ、本格的な引き籠り生活に突入しようとしていた。姫野にも琉衣にも会っていない。
嫌なことなんて全部悪夢ならいいのに。
布団から手を離して起き上がる。すると、足に絡みついたタオルケットに引き摺られて本が数冊ベッドから落ちた。積み上げられ、崩された本を踏まないようにしながら姿見の前に立つ。鏡面に触れると、映り込んでいるぼくの姿が静かに揺れた。そのまま指先から鏡の中に入って行く。
◇
外へ行こうと思って廊下を歩いていると、リビングから声が聞こえてきた。覗いてみると、いつもの四人がテーブルを挟んでソファに座っている。曰く、今日は気温が低いため外でのお茶会を断念したそうだ。ぼくはナザリオに詰めてもらってソファに座る。ルルーさんが押し返してきたのでナザリオは落ちそうになってしまったけれど、どうにか踏み留まった。
アーサーさんが立ち上がって、キッチンからぼくの分のティーカップとソーサー、お茶菓子を持ってきてくれた。ティーカップの中で揺れるお茶はほんのりピンク色の水色で、今日のお供は焼き菓子だ。クッキーとは少し違うようだけれど……。
「ブルボヌールのガレットというお菓子です」
なるほど、北西の国ブルボヌールはフランスに似ているのかな。ピンク色のお茶は一口含むと懐かしい味が口の中に広がった。昔飲んだことがある、というわけではなくて、本能的に感じる懐かしさだ。
「あのねー、それはイーハトヴの桜っていうお花を使ってるんだって。この間エドウィンが分けてくれたんだよ」
「アイツはアイザックに貰ったって言ってたな。アルジャーノンに貰い過ぎて困ってるんだとよ」
そうか、桜だからか。やっぱり日本人って桜が好きだよなあ。
うつらうつらと船を漕ぎながらカップを抱えていたナザリオがぼくの方を見た。眠たそうな目が、それでいて鋭い感じにぼくを見つめる。
「なんだか最近のアリス元気ないよね。何かあったの?」
向かいに座っていたクロックフォード兄弟が「コイツいきなり何言い出すんだ」という顔をした。その顔はとてもそっくりだった。
「おいナザリオ、それは……」
「んんー、おれ何か言っちゃ駄目なこと言ったかな」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
ぼくはピンク色のお茶を啜る。ナザリオからの視線が左頬に突き刺さってくる。
「何それー? 僕も知らないかも! 二人は知ってるの? ねえねえ!」
「何から何まで教えるわけねえだろ馬鹿兎!」
「ひんっ! 耳引っ張らないでー! もげちゃうよー!」
色々あってね、とぼくは答える。はぐらかしてしまったけれど、ナザリオもルルーさんも嫌な顔はしなかった。
「まあ悩めるお年頃だよねえ。僕もアリス君くらいの歳の頃はさあ……」
「ははは、何だよ。オマエに悩みなんか」
いつもの調子でルルーさんをからかおうとしたニールさんの言葉が途切れた。ハッとした様子で「十年前って……」と呟く。珍しくルルーさんから笑顔が消えていた。うさ耳が軽く伏せられ、思いつめたような顔をしている。十年前に何かあったのかな。
ナザリオはぼんやりとしたまま首をひねっている。どうやらぼくと同じで知らないみたいだ。気になるけれど、自分のことを言わなかったぼくが人のことを訊くのもちょっとな。
「もう、ナザリオとアリス君までそんな顔しないでよ。僕のことはどうだっていいんだってば。アリス君、困ってることとかあるんだったらいつでも僕達に言ってね。ここで待ってるよ」
「ああ、はい……」
「子供は元気が一番だよー」
「子供扱いしないでください」
ここにいるとぼくは笑っていられる。本を読み進めていくようにくるくる回りゆくこの場所がぼくは好きだ。ずっと……。
ずっとここにいられたらいいのに。
穏やかなティータイムはノッカーの音に破られる。その音は挨拶のように丁寧なものではなく、激しいものだった。来客は急ぎの用事があるらしい。
返事をしながらアーサーさんが玄関の方へ向かう。ばたばたとした足音と共に駆け込んで来たのは青いマントを翻すクラウスだ。走ってきたのか息が上がっている。ニールさんから受け取った水を飲み干して、呼吸を整える。
「どうしたんです、一体」
「あ、あのあの、三月ウサギさん」
「僕?」
クラウスは深呼吸をしてルルーさんを見つめる。
「街にヘイヤさんが現れました」
リビングの空気が一瞬にして凍り付いたようだった。ルルーさんの手からカップが落ちる。幸い割れるようなことはなかったけれど、ピンク色のお茶が絨毯に染み込んでいく。
「ヘイヤ……!」
ルルーさんが勢いよく立ち上がり、ナザリオがソファから転げ落ちた。そして、ルルーさんはぴょんこぴょんこと跳ねるようにしてリビングを駆け出していった。玄関のドアの開閉音が聞こえる。ぺこりと一礼をしてクラウスが後を追って行く。
見たことがないくらい驚いた顔をしていた。まるで喜びと恐怖が入り混じったかのような顔。
ソファに這い上がったナザリオがガレットを頬張りながら疑問を口にした。
「ヘイヤって誰?」
それはぼくも気になる所だ。けれど、アーサーさんもニールさんも何も答えない。やや曇った表情のまま、顔を見合わせている。ニールさんは「ねえねえ」と催促するナザリオの頭を荒っぽく掴んで耳をがしがし引っ張り始めた。
「さっきと同じだ! 何でもかんでも教えるわけねえだろ!」
「痛い痛い痛い!」
「私達の口からは言えません……」
ルルーさんとは別にヘイヤが存在しているのか、ここは。
三月ウサギは『不思議の国のアリス』に登場するキャラクターだ。続編でもある『鏡の国のアリス』に継続して登場しているのは帽子屋と三月ウサギ。それぞれハッタとヘイヤという名前に変わっているけれど、挿絵を見れば同じ人物であることが分かる。てっきり両方共を兼ね備えているのだと思っていたけれど、どうやら違うようだ。そうなると、アーサーさんとは別にハッタが存在するんだろうか。
おそらく、ルルーさんとヘイヤは見知った関係だ。多分ヘイヤも獣だろうから、街に現れた時にちょっとした話題になることは想像できる。でもクラウスが駆け込んできたのだから騒ぎになっていると考えた方がいいだろう。どうしてドミノが現れただけで大騒ぎになって、ルルーさんが血相変えて飛び出さなきゃいけないんだ?
「十年前に……何か……」
そう言って顔を上げた時、アーサーさんと目が合った。穏やかな微笑を湛える顔面の中で、銀に近い水色の瞳だけがとても冷たくぼくを射抜いていた。
「アリス君、詮索はやめた方がいいですよ。好奇心は猫をも殺してしまうのですから」
その諺に反応したのはニールさんだった。何か言おうとしたようだったけれど、そんな兄を見る弟が小首を傾げているのを見て、なぜかほっとした様子で口を閉じた。
最初から分かっていたことだけれど、ここに住む人々は何かを隠し続けている。それは外部からやって来たぼくに対してだけではなく、いつも仲良くしている友人、そして家族にさえ知られたくないことを抱えている。ぼくはこの国について知らないだけではなくて、みんなのこともよく知らないのだ。それでも、ここにいたいと思ってしまう。
◆
しかし、ぼくの願いは叶わない。
日が暮れればこちら側へ送り返されてしまう。家族が心配するだろう、と言ってあの兄弟はぼくを鏡へ押し込むのだ。
あの後ルルーさんは家へ直接帰ってしまったそうで、クラウスだけが報告にやって来た。曰く、着いた時にはもういなかった、と。クラウスも詳しいことは知らなくて、一緒にいた先輩に言われたからルルーさんを呼びに来たのだという。
夕暮れの空はオレンジと紫が混ざった不気味な色を浮かべている。こんな様子だから逢魔が時などと言われるのだろうな。ふと下を見ると、歩道に姫野の姿が見えた。ぼくの部屋の方を見上げている。聞こえないのは分かっているけれど、「ごめんね」と呟いてぼくはカーテンを閉めた。
暗い部屋の中、姿見だけがぼんやりと光を揺らしていた。それは本当に微かなもので、眩しいどころか、明るくもない。けれどきっと、ぼくはこの光に惹かれているのだろう。
――アリス、覗いてみて。
ぼくを呼ぶ声。
……あなたはだあれ?




