第六十八面 落丁していたページ
ステージに立った時、美千留ちゃんの姿が見えた。前から二列目に陣取って、きらきらした目でこちらを見ていた。けれど、立っているのがぼくであることに気が付いてちょっとだけ怪訝そうな顔になった。美千留ちゃんも楽しみにしていたんだろうな、きっと。
途中で台詞が飛びそうになったけれど、公演は無事に終わった。そして、ぼくと姫野は保健室へ直行したのだった。
保健室の戸を開けると、保健の先生が「静かに」とジェスチャーをした。ぼく達はそろそろとベッドの方へ向かう。ゆっくりカーテンを開けると、不機嫌極まりない顔の琉衣が膝を抱えて座っていた。ものすごい形相でぼくを睨みつける。
「有主」
「は、はいぃっ!」
確実に怒気が含まれているであろう低い声で琉衣は言った。
「オマエ、美千留の前で格好いところ見せたんだろう」
「か、格好良かったかどうかは分からないけど、無事に終わったよ」
「本当ならオレがっ、オレが美千留に格好いいところ見せて『お兄ちゃん大好き』って言われるはずだったんだぞ!」
「そんなこと言われても」
いきなり胸倉を掴まれた。姫野が琉衣の手を掴んでぼくから離そうとする。けれど姫野の力で引き離せるはずがない。ぼくはがくがくと揺さぶられた。
「美千留と目が合ったか、美千留に手を振ったか、美千留はオマエを見て何か言っていたか、美千留はっ、う、ぐっ……」
言い切らないうちに琉衣は咳き込んで蹲ってしまった。保健の先生の「こらっ、宮内君!」という声が静かな保健室に響く。若干涙目になりながらも、ぼくを睨みつける鋭い眼光は変わらない。こういう風に睨まれることには慣れているといっても過言じゃない。出会った当初から美千留ちゃんに関しておかしな警戒をされているからだ。これはぼくに限ったことではなくて、多くの男子がその警戒対象に入っている。美千留ちゃんと一言でも交わせば、それだけで危険だと判断されるのだからたまったもんじゃない。
呆れた様子の姫野がやれやれといった様子で首を振った。
「琉衣君。美千留ちゃん怒ってたよ」
「え」
「『そんな無理するなんてお兄ちゃんの馬鹿』って言ってたよ。もう少ししたらおばさん迎えに来るんじゃないかな。美千留ちゃん、呼びに帰ったよ」
「あら、先生が連絡するまでもなかったわね。おとなしく帰りなさい」
カーテンの向こうから保健の先生の声がする。
「そんな……美千留にそんなこと言われたら、オレはこれからどうやって生きて行けばいいんだ……。生きる希望を失った。このまま咳が止まらなくなって死ねばいいのに……。薬なんていらねえ……」
美千留ちゃんにいいところ見せられなくて落ち込んでいるところにこの追い打ちはやばいよ姫野。そう思いながらぼくが姫野の方を見ると、眼鏡の奥の目が「やってしまった」という表情を浮かべていた。そうだね、やらかしたね。
けれど、それは事実だ。ステージが終わった後、美千留ちゃんは慌てた様子でぼく達の所へやって来て琉衣のことを訊ねた。そこでぼく達が降板の理由を伝えると、美千留ちゃんは先程の言葉を言って憤慨した。そして、その後に「死んじゃったらどうするの!」と続けたのだ。かわいらしい大きな瞳は潤んでいた。兄が思っている以上に、とは言えないかもしれないけれど、妹も兄のことを思っているのだ。
最後まで言った方がよかったのかな。と姫野がぼくに訊いてきた。いや、言わない方がいいんじゃないかな。言ったらきっと「美千留はそんなにオレのことを心配して!」と歓喜乱舞して倒れるのが簡単に想像できる。おかしな判断だけれど、倒れるよりは落ち込んでいる方が体にもいいと思う。
程なくして美千留ちゃんがおばさんを連れて保健室へやって来た。おだいじに、と言ってぼくと姫野は退室する。去り際、ぼくは琉衣に一言告げた。
「またケーキでも買ってあげればいいんじゃないの」
琉衣は「そうだな……」と小さく呟いた。
その後はバザーで買ったおにぎりを食べたり、他のクラスの展示やステージ発表を眺めたりして過ごした。終了時刻になったので、一応教室へ向かう。最初は客として来たけれど、こんなことになってしまったんだからとりあえず行った方がいいだろう。
姫野に心を支えてもらいながら教室へ踏み込む。
さあ、ここに広がるのは恐れることのない空間だ。主役をやり切りクラスを救ったぼくのことをみんなが認めてくれるはず!
「おー、アリスちゃんじゃーん」
「ここは不思議の国じゃないですよー?」
……はず、だったんだが。
「おまえよお、調子に乗るんじゃねーぞ」
「『これでぼくはヒーローだ』とか考えてたんじゃねーの?」
「ばっかじゃねえ?」
あれ、おかしいな。
「神山君、いきなり来て主役やっちゃうって、ちょっとね……」
「できてたからいいけど、失敗したらどうするつもりだったんだろう」
どうして、こんな……。
「すぐ台詞覚えるの、ちょっと気持ち悪いよね」
「アリスちゃんは本ばっかり読んでるからだろー」
違う。こんなはずじゃ……。何で……。
肩に触れた姫野の手を振り払ってしまった。びくっと身を縮めた姫野が不安そうにぼくを見つめる。
「有主君」
「ご、ごめん……」
丁度そこへ担任の先生がやって来た。「みんなそろってるかなー?」と教室の中を覗き込む。ぼくはその脇をすり抜けて廊下に走り出た。姫野と先生の声がぼくを呼んだけれど、戻ることなんてできなかった。
ぼくが何をしたっていうんだ。アリスだからか。アリスだからなのか。全てはこの有主という名前の所為か。やっぱりぼくは自分の名前が嫌いだ。
何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ……。
じんわりと目元が熱くなって、液体が流れ始めた。拭っても拭っても止まらない。歩いているうちに嗚咽まで漏れ始めた。
商店街に差しかかった辺りで、親子連れとすれ違った。幼稚園児くらいの女の子が「ママー、あのお兄ちゃん泣いてるー」と指差してきた。おいクソガキぶっ飛ばすぞ。
ああ、惨めだ。小さい子に指差されて。通行人に振り向かれて。
ぼくは外に出ない方がいいんだ。外は怖い。外は恐ろしい。部屋でただひたすら本を読んで暮らしたい。本さえあれば、ぼくは幸せだ。本の中には世界が広がっている。こんな腐りきった外の世界なんかとは違う、とても広くて、とても楽しい世界が。ページを捲れば、ぼくはどこにだって行ける。
「有主君っ」
走ってくる足音と姫野の声。ぼくは立ち止まって振り返る。
「ごめんなさい。わたしが主役やってなんて言わなきゃこんなことには……。……え、泣いてる、の?」
「姫野は悪くないよ。頼まれなくても、あんな琉衣見たらきっと代役やったはずだよ」
「わたし、有主君に何もしてあげられないっ……」
「いつもノートありがとね。これからもよろしく」
そう言って、ぼくはその場を離れた。これ以上姫野に泣き顔なんて見せられない。同じじゃないか、あの頃と。変わらない、ぼくは。何も成長していない。
小学校低学年の頃、いじめられたって言って姫野に泣きついた。女の子に泣きついてるって余計からかわれた。でも、ぼくはもう子供じゃない。電車だって大人料金だ。いつまでも姫野に頼ってばっかりじゃ、泣きついてばっかりじゃいられない。姫野はよくできた子なんだ。だから、こんなぼくなんかに寄り添ってるようじゃ駄目なんだ。
どこか、どこかここではない所に行ければいいのに。
ああ、あるじゃないか。ぼくには、ワンダーランドが。
◇
ただいまだけを言ってすぐに部屋へ向かったため、両親に特に何かを言われることはなかった。違う、何かを言わせる隙を与えなかった。
姿見を潜り抜けた時、アーサーさんが自室にいた。目を腫らして泣きじゃくるぼくを見てぎょっとする。手にしていた分厚い本を机に置いて駆け寄ってくる。いつものように白い手袋で覆われた手は、困ったように宙を彷徨っているだけでぼくに触れることはない。
「ど、どうなさったのですか、アリス君」
ぼくは泣きじゃくっているだけで何も言わない。自分でも自分がどうなっているのかよく分からなくて、何を言えばいいのか分からないのだ。分からなくて、ただただ涙だけが溢れてくる。
「アリス君……。……ナオユキ君、大丈夫ですか」
記録的豪雨の後の川が決壊するかのように、ぼろぼろと大粒の涙が零れだした。本当に訳が分からない。ぼくはどうしてしまったんだろう。アーサーさんはおろおろと困った様子だ。するとそこへニールさんがやって来た。
「おいおい、どうしたんだ一体。帽子屋、オマエまさかアリスのこと泣かせたのか」
「まさか! もう既にぐしゃぐしゃの状態で姿見から出てきたんですよ」
ニールさんの大きな手がぼくの頭を撫でる。いつもとは違う、優しい撫で方だった。
「止まるまで泣けばいいさ。何があったのか訊くのはそれからだ」
もうどうしようもなくなってしまって、ぼくはニールさんに飛び付いた。
「おー、よしよし。泣け泣け」
「……なんか、手慣れてますね馬鹿猫のくせに」
「びーびー泣きまくってる弟の世話してきたんだから当然だろ。転んだだけですぐ泣くんだからよー」
「なっ、わ、私そんな泣き虫なんかじゃないですよ!」
「覚えてねえだけだよ。大変だったんだぞ。おにーちゃん、おにーちゃんって」
「し、知りませんそんなの! 兄さんの馬鹿!」
全てが流れていってしまった川が涸れてしまうように、流れる涙が止まるまで、ぼくは声を上げて泣き続けた。
気が付いた時ぼくはベッドに横になっていた。カーテンは閉められていて、隙間から見える外は薄暗い。
「お目覚めか?」
声のした方を見るとニールさんが椅子に座っていた。
「泣きつかれて眠っちまうなんて、オマエもまだまだお子様だな」
「ぼく……。……あ、あぁっ、す、すみません! 服に鼻水とか付いてないですか」
「大丈夫だよ」
姿見が置いてあるのでここはアーサーさんの部屋だ。けれど主の姿は見えない。ぼくがきょろきょろしていると、ニールさんがにやにや笑った。
「帽子屋は飯作ってるよ。話なら俺が聞く。あ、もう暗くなってきてるから、話し終わったら帰るんだぞ」
腰かけた椅子がぎぎっと音を立てた。にやにや笑いはなりを潜め、優し気な兄の顔をする。きっとこうしてアーサーさんのことも支えてきたんだろう。
「好機だった。上手くいけば全部なくなるはずだったのに。でも、失敗した。悪くなってしまった。……もう、戻れるかもしれないなんて考えない方がいいんだ。きっと」
ぼくは学校であったことを話した。
「もう、外に出たくない」
全て、話した。
ニールさんは黙ってぼくの頭を撫でるだけだった。けれど、なぜか落ち着いた。落丁していたページはこれじゃないですか、と差し出されたような、そんな感じだった。




