第六十七面 戻れるかもしれない
ぼくは自分を褒めようと思う。頑張ったね、有主。きみはすごい。やればできるんだ。
目の前にあるのは門だ。『星夜市立星夜中学校』と書かれている。そして、門にはアーチ状の飾りが付けられていて、『学校祭』とある。ぼくは学校へやって来たのだ。
もちろん制服ではない。ネイビーのパーカーにジャンパーを羽織った来場者の装いだ。生徒としてではなく、客としてなら大丈夫かもしれない。琉衣の言う通りだ。この格好ならば中学生だと思われても他校生の振りをできるだろう。そう思いながら門を過ぎた時、女子生徒数人がぼくのことを見て「小学生が来てる! かわいい!」と言った。名札の色からして三年生だろう。失礼しちゃうなあ。そんなにチビじゃないよ。
一年生に出くわすとばれる可能性があるため、パーカーのフードを少し深く被り直す。
星夜中学校は公立の平凡な中学校のため、学校祭といっても模擬店などはない。各クラスの出し物は、教室での企画展示と体育館でのステージ発表のいずれかだ。受付で貰ったパンフレットを見ながら、教室の展示をちらりと覗く。何やら実験をしたらしいクラスには模造紙で作った研究結果が貼られていた。調べものをしたらしいクラスも同様だ。そして、人気のゲームを取り上げたクラスもあった。ここではキャラクターの人気投票をしているらしい。他には、みんなで撮影した映像を延々とテレビに流し続けているクラスなどもあった。これはいわゆるばかっこいいとかいうやつだろうか。何回撮り直したんだろう。
ぼくのクラスのステージ発表が始まるまで、もう少し時間がある。バザーでおにぎりでも買おうかな。
「いた! 有主君!」
ぼくはパンフレットから顔を上げる。台本を手にした姫野が駆けてきた。通常の学校より人が多いんだから走ったら危ないよ。
「来てくれたんだね」
「一応ね」
姫野は何だか焦っているようだった。台本を持つ手が震えていて、汗が顔を伝っている。
「ねえ。台詞、覚えてる?」
「え?」
「この劇の台詞、覚えてる?」
何度か姫野の練習に付き合った。その時に貸してもらって他のページもちらりちらりと見ていたから、話の流れは頭に入っている。読んだのは数日前だ、まだ忘れていない台詞はある。
「どうしたの、そんなこと訊いてきて」
「主役の台詞、覚えてる?」
「だいたいは……」
姫野はぼくの腕を掴んで引っ張った。抵抗する間も与えずに引き摺る勢いだったので、一緒に廊下を駆け出すことになった。向かった先は第一理科室。ステージ発表クラスの控室の一つで、ぼくのクラスに割り当てられている。教室内に見えるいくつもの人影を見て、ぼくの心臓が激しく脈を打った。嫌だ、ここには入りたくない。嫌だ。やめて姫野。やめて。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
教室のドアが開け放たれ、一同の目がぎょろっとぼくを捉えた。息が止まるかと思った。心臓が止まるかもしれない。
ぼくは姫野の手を振り払う。
「あ、ごめん」
「何、これ。何。ねえ、姫野。何これ。ねえっ!」
姫野は申し訳なさそうにぼくを見る。
「琉衣……。琉衣は?」
その時、ぼく達を押し退けるようにして男子生徒が一人理科室に入って来た。
「宮内、落ち着いたみたい」
……え?
「ステージに立つって言って暴れて、また倒れてたけど……」
ぼくは姫野を見る。眼鏡の奥に見える瞳が少し潤んでいた。
「どういうこと」
「さっき、最後の通し練習をしてたんだけど、琉衣君が台詞詰まっちゃって……。どうしたのかなって思ったら、咳して、倒れちゃって……。頑張り過ぎだ、無理するなって、ずっとみんな言ってたのに『大丈夫大丈夫』って……。もっと自分のこと大事にしてよ……」
またやらかしたのか。懲りないな琉衣は。いつかそのうち取り返しのつかないことになったらどうするんだ。
「え、えーと、それってつまり……」
「有主君、琉衣君の代役頼めないかな。こんなこと頼むのはおかしいって分かってる。でも、他にできる人がいなくて……」
クラスメイト達の奇異の目がぼくをじろじろと見る。これではまるで怪しい事件の相次ぐ村に立ち寄った探偵のようだ。ひそひそと小声で話し合う。
「大丈夫なの?」
「神山君……」
「アリスちゃんにできるのかよ」
頭の中が渦を巻いて千切れながら爆発しそうだ。じっとりとした嫌な汗が体を伝っているのが分かった。嫌だ、ここにいたくない。帰りたい。帰ろう。帰る。帰る。帰る!
ぼくは踵を返して廊下に出た。ところが、そこで何かにぶつかってしまい前進することは叶わなかった。相手は力なくへたり込んでいる。長めの前髪に留められたヘアピンが光る。その姿を見てクラスメイト達がどよめいた。
「琉衣」
「あ、有主。来てくれたんだな。オレ頑張るからさ、美千留と一緒に見て……」
そこまで言って、琉衣は激しく咳き込んだ。ぼくは片膝をついて背中をさすって上げる。
「ははは、やっべー。体すげえだるい」
「どうしてこんな無茶したのっ」
「美千留に格好いいとこ見せたくてな」
「これじゃあ格好悪いよ」
先程の男子生徒が琉衣に肩を貸して立ち上がらせる。どうやら彼は保健委員らしい。保健室に連れ戻そうとするけれど、綺麗に殴り飛ばされてしまった。この喧嘩っ早さと攻撃力の高さは見た目詐欺と言われる原因の一つである。
「オレは美千留の為にステージに立たなきゃいけないんだ。アイツはオレの活躍を楽しみに待っている。倒れたっていい、妹の為なら死んだって構わない!」
「死なないで! 美千留ちゃんを悲しませていいの?」
騒ぎを聞きつけて、担任の先生がやって来た。保健室にいるはずの琉衣が理科室の前にいたため、びっくり仰天している。そして、保健委員の男子にさっさと連れて行くように言う。が、琉衣は先生にも食って掛かった。自分が出られなければ、ここまでのみんなの頑張りが無駄になってしまう。それに妹に見せたい、と。戸惑った様子の先生は理科室の中に目を向けて、その視界にぼくを捉えて更にびっくり仰天する。
そうだ。このまま琉衣がダウンしている状態では、このクラスはステージ発表を行えない。他のやつらはどうでもいいけれど、姫野と琉衣がここまでやって来たことがなくなってしまう。こんなになるまで頑張った琉衣の努力が、全て無駄になってしまう。
再び暴れようとした琉衣は数人の男子に取り押さえられたけれど、抵抗を続けている。
「嫌だぁっ、オレ、オレはっ……。うっ」
「琉衣」
床に落ちた琉衣の台本を拾う。
「ぼくがやるよ」
琉衣の目が見開かれる。クラスメイト達の視線がぐさぐさと自分に突き刺さるのを感じる。先生が「大丈夫?」と言ったのが聞こえた。
台本を握りしめ、ぼくは理科室を振り返る。これは好機なのかもしれない。
「アリスアリスって、馬鹿にするな! 見せてやるよぼくの力! この劇を成功させてみせる! 主役をやり切ってやる! 見てろよ、おまえ達は、ぼくに救われるんだ!」
そう、格好良くきめるつもりだった。しかし、ぼくの口から出たのは至極平凡な言葉だった。
「が、頑張りますっ!」
全然格好良くいかなかった。冷ややかな視線が向けられる。
「有主……」
「任せて!」
やや不安げな顔をしたまま、琉衣は保健室へ連行されていった。
これは好機だ。クラスのピンチを救って、ぼくのことをもう馬鹿にできないようにしてやる。ぼくは琉衣の台本を開いた。主役の台詞には丁寧に蛍光マーカーが引かれている。
クラスメイト達は自分の練習へそれぞれ戻っていく。理科室の入口に残されたのはぼくと姫野と先生だ。先生は何か言おうとしているらしいけれど、どうしようか悩んでいるようだった。それもそうだろう。不登校を極めようという生徒が突然登校し、友人の代わりに劇の主役をやると言いだしたのだから。
「神山君」
絞り出すようにして先生が言った。
「本当に大丈夫? こんなにいきなり……」
「これでみんなからのイメージが変われば、戻れるかもしれない……」
「……そう。分かった。でも無理はしないでね。少しずつ」
「少しずつでいいよ。ですか」
ぼくはいつから教師という者に強く当たるようになってしまったのだろう。先生だって頑張ってくれているのは分かっているのに。それでもどこかで、役に立たない大人だと思っているのかもしれない。だって、どんなに先生が頑張っても生徒は変わらないんだから。それで変わるのならいじめなんてものはなくなるはずなんだ。
無意識に強くなってしまった言葉を、ぼくは慌てて「すみません」で濁す。先生は困ったように小さく笑うだけだった。優しい先生なんだと思う。「教師にそんなこと言って!」と怒鳴り散らすようなタイプじゃなくてよかった。本当に。
先に体育館で準備をしているメンバーがいるらしく、その様子を見てくると言って先生は去って行った。
割り当てられた役の台詞を繰り返し練習しているクラスメイト達の喧騒から一歩引いたところで、ぼくは蛍光マーカーの引かれた部分を確認する。自分の台詞は覚えているから、と言って姫野が付き合ってくれた。
「ごめんね、こんなことになっちゃって」
「大丈夫だよ。たぶん。変な緊張とかは今のところないし」
「ごめんね、有主君」
こんなぼくを見守ってくれていた姫野が、ぼくを表舞台に引き摺り出した。姫野としては、味方であるはずの自分がぼくを敵地に放り込んでしまったという罪悪感があるのかもしれない。
「謝らないでよ。これで何か変わるかもしれないし」
「うん、そうだね」
体育館には多くの生徒がひしめいていた。当然だ、ステージ発表は半強制的にみんなが見ることになっているのだから。演目は人気ドラマをモチーフにして作ったものだそうだ。ぼくは元ネタ知らないけれど。
琉衣に合わせて仕立てた衣装は安全ピンで調整してもまだ少し大きい。本当はこの衣装で美千留ちゃんにいいところ見せるつもりだったんだよね。そりゃあ頑張るよね。その気持ちをちゃんと引き継いでやり切らなきゃな。
学校祭を取り仕切る文化委員のアナウンスが流れた。幕が上がるのはもうすぐだ。




