第六十六面 そいつの為に何ができるか
ワンダーランドの森を騒がせた、ジェラルドさん失踪事件は幕を下ろした。
イグナートさんが飛び去って行くのを見守っていたぼく達は、羽音が聞こえなくなったところでお茶に戻った。キャシーさんとジェラルドさんは顔を見合わせて、まだ「キノコ狩り……」と呟いていたけれど。程なくして、二人は帰って行った。今夜から再び二人でのパトロールに戻るそうだ。これでこの間の夜のように襲われる人間が減るといいんだけどな。
ぼくがワンダーランドの人間ではないということを知らない人達がいなくなったので、そのタイミングでぼくは帰ることにした。プラムケーキの残りを頬張り、紅茶を飲み干す。そして、一同に挨拶をしてから家の中に入った。アーサーさんの部屋に入り、姿見の前に立つ。
鏡面に映るぼくは、何だか不安げな顔をしていた。どうして自分がこんな顔になっているのかは分かる。バンダースナッチのことだ。ジェラルドさんはバンダースナッチと会っていた。この六日間、あのバンダースナッチを含む何人かと密会していたに違いない。「今日はオマエか」と言っていたから、他にもいるはずなんだ。
「アリス」
中途半端に開けられたドアが軋んだ。振り向くと、ニールさんが廊下からこちらを覗き込んでいた。頭頂部で猫耳が小さく動く。
「何か隠してるだろ」
「な、何のことですか」
部屋に入って来たニールさんがぼくの目の前に立つ。距離が近いため、ぼくは見上げる形になった。
「ミレイユとアイコンタクトしてただろ。何の合図だ。街に行った時に何かあったんじゃないのか」
「ん。え、えー? もしかして嫉妬ですかぁー?」
できうる限りのクソガキ感満載の口調でぼくは言った。咄嗟にこんなことを言ってしまったけれど、うまくはぐらかすことはできるだろうか。ぼくはニールさんの顔色を窺う。軽く伏せていた顔を恐る恐る上げた、その時だった。ぼくは頭を思い切り掴まれた。そしてそのまま乱暴に撫でまわされる。
ニールさんの表情はエドウィンやジェラルドさんのように無だ。
「俺は真面目な話をしているんだ。ふざけるんじゃない」
「あううふざけてないです」
「本当か」
「本当ですよ」
銀に近い水色の瞳がすうっと細められる。何か言おうとして口を開いたけれど、廊下からの声を聞いてニールさんは口籠った。「馬鹿猫」と呼びかけてきたのはアーサーさんだ。
「何をしているのですか」
「帽子屋」
「帰ろうとしているのを邪魔してはかわいそうですよ」
ニールさんはぼくの頭から手を離し、踵を返してアーサーさんに歩み寄る。そして、手を伸ばす。一瞬びっくりした様子のアーサーさんの頭から帽子が落ちた。そのままニールさんは弟の金髪を撫でている。
「ジェラルドが戻った。これで一安心だな」
「……兄さん」
兄弟の穏やかな時間が流れるのかと思いきや、アーサーさんはニールさんの手を思い切り振り払った。
「やめろ馬鹿猫! ……雌狐の相手をしたくないので早く戻ってきてくださいね」
帽子を拾い、廊下の向こうに消えていく。残されたニールさんは困った顔をしながらぼくを振り向いた。ジェラルドさんがいて一安心ってどういうことだろう。
「あの……」
「しばらく外に出られてなかったんだよ。夜にな。ほら、アイツ見た目だけだとトランプだろ。だから危ないんだ」
「ニールさんって、アーサーさんの事大切にしてますよね」
ぐりぐりと撫でまわされた。チェシャ猫よろしくにやりと歪められた口から笑い声が漏れる。
「当然だろ? 俺はアイツの兄貴だからな」
◆
兄弟ってそういうものなのかな。一人っ子のぼくにはよく分からないや。親とか、友達とか、そのどちらでもない不思議な存在だよね、兄弟って。
姿見を潜り抜けて家に戻ってきたぼくは、母に気が付かれないようにしながら靴を玄関へ置きに向かった。ドアを開閉させて、「ただいまー」と言う。すると、居間からちょっと急いだ様子で母が出てきた。
「有主、お帰り。琉衣君から電話来てたわよ。後でかけさせるって言ってあるからね」
それだけを伝えて、回覧板を手にした母は家を出て行った。
琉衣から電話? わざわざどうしたんだろう。そう思いながらぼくは居間の片隅に置いてある電話に手を伸ばし、登録してある番号から宮内家を選択する。数回の呼び出し音の後、女の子の声が応答する。まだ幼さの残る、ほんの少しだけ舌足らずな声。
「あー、ナオ君だ」
美千留ちゃんだ。
「ナオ君久し振りだね。元気?」
「うん。たぶん元気。……お兄ちゃんいるかな」
「ちょっと待ってね」
保留の仕方が分からないのか、通話状態は保たれたままだ。電話の向こうから美千留ちゃんの兄を呼ぶ声がする。それに答える琉衣の声はだらしないという感想を余裕で越える、このうえなく力の抜けたものだった。赤ちゃんや動物相手でもこれだけの声を出す人はなかなかいないのではないだろうか。聞いているこちらが恥ずかしくなりそうだ。
「はーいっ、お兄ちゃんですよぉー。美千留ぅ、何かなぁー?」
「ナオ君からお電話」
「有主から電話」
いきなり声のトーンが低くなる。違う、これが通常だ。受話器を持ち替える音がして、電話の向こうに立つのが美千留ちゃんから琉衣へ変わる。
「ぼくに何か用」
「今度の学校祭、見に来てくれないか。オレ主役やるんだよ」
琉衣は得意げに語る。
ぼくはカレンダーを確認した。もう十月が終わろうとしている。ハロウィンが終わればすぐ十一月で、十一月になれば学校祭はもうすぐだ。予定なんてないのだから、ワンダーランドへ行かなければ学校祭へ行くことは可能だ。けれど、それはつまり学校へ行くということだ。
ぼくが黙っていると、電話の向こうから琉衣の溜息が聞こえてきた。呆れられているんだろうか。それとも、憐れんでいるんだろうか。いいや、違うな。きっとどうしようか考えているんだ。しばらくの沈黙の後、琉衣が絞り出すように言った。
「客としてなら、来られるんじゃないか」
「分からない」
「無理にとは言わないよ。美千留が見てくれればオレはそれだけで何公演もできるからな。でも、オマエに見てもらいたいんだよ。璃紗ちゃんだって頑張るからさ。みんなで作ったものをオマエに見せたい。クラスのやつらだって、全員が敵ってわけじゃないんだし」
分かっている。あの中にぼくを奇異の目で見ない子がいることくらい。けれどそれも数人だけだ。それに、彼らは声を上げない。声の大きいやつらの後ろに隠れているだけで何もしないから、他のやつらと変わらない。思っているだけじゃなくて行動に移さないとどうにもならないのに。ぼくに手を出さないのなら、その代わりに何かしてくれたっていいじゃないか。
ぼくが再び黙ってしまったので、琉衣ももう一度溜息をついた。これは間をどうすればいいのか困っているんだ。お互いに沈黙を保ったまま時間が過ぎていく。
無言状態に耐えかねた琉衣が受話器を持ち替えたらしい音が聞こえた。右だろうか、左だろうか。
「来れたら来いよ。待ってるから」
「うん」
通話が切れる。不通を知らせる音が聞こえてくる受話器を持ったまま、ぼくは立ち尽くしていた。回覧板を届け終わった母が帰ってきて、漏れ聞こえる音に「切れてるんじゃない?」と言うまでずっと。
◇
ティーセットの脇に立ったエドウィンが小さく首を傾げた。手には緑のクラブが描かれたティーカップ。
「行きたければ行けばいいだろう。行きたくなければ行かなければいい」
抑揚のない声で告げ、紅茶を飲む。左手はフランベルジュの柄に添えられている。エドウィンは今日もお仕事だ。
盛り上がる近所の小学生を横目に、ぼくは『ハロウィーンがやってきた』を読みながら十月の末を過した。星夜中学校の学校祭は今週末に迫っている。それなのに、まだ決められない。
珍しく様子見ついでにティータイムを過しているエドウィンは、一同を見回しながらシュークリームを頬張る。柔らかなシュー生地から溢れるクリームを口にして一瞬無表情が崩れた。小さく「うっ」という声が聞こえた気がする。
「ああ、止めようと思ったのにもう食べてしまったのですか」
「馬鹿だなあ」
クロックフォード兄弟の嘲りに満ちた目がエドウィンを見る。
「あのねー、それいつものよりちょっと甘いんだよねー」
ルルーさんの言葉を聞いて、エドウィンはシュークリームを口から離した。口の中に残るクリームを流し込むように紅茶を一気に飲む。いつもの無表情はほんの少し辛そうに歪んでいる。甘いの苦手なのかな。けれど、ナザリオ以外の三人からの視線を受けてエドウィンはシュークリームを強引に咀嚼して紅茶をごくごく飲んだ。やり切った感のある顔は徐々にいつも通りの無表情に戻っていく。
わざとらしく咳ばらいをして王宮騎士の威厳を保とうと無理をしながら、エドウィンは無表情な緑をぼくに向けた。
「友人は大切なんだろう。ならばそいつの為に何ができるか考えろ」
「エドウィンは友達大事にする?」
「当たり前だろ」
「そういえば、クロンダイク公爵? がお友達だって言ってたよね。お屋敷に遊びに行ったこととかあるの?」
ぼくがそう訊ねると、エドウィンはそろそろと視線を逸らした。
「あまりアイザックの家へ行こうとは思わない」
「広くて迷う、とか?」
「……まあ、そうだな」
残りのお茶を飲み干して、手帳に何やら書き付ける。
「全く、またオレが来ていない間に騒ぎを起こして……」
「僕達は悪くないよう!」
「公爵夫人も連絡してくれればいいのに」
今度は何かあったら言うんだぞ。と言い捨ててエドウィンは去って行った。今回の事、もしかして上司に叱られたり先輩にいじられたりしたのかもしれない。ぼくの想像だから、実際はどうだったのかなんて分からないけれど。
友達の為に何ができるか、か。姫野と琉衣の頑張りを見に行ってあげてもいいのかな。




