第六十四面 煩わせるわけにもいかない
獣の多いぶたのしっぽ商店街を抜け、街の中心へ一歩近付く。街とは言っても、国の本体のようなものだからぼくと公爵夫人の足で全体の捜索をすることは不可能だ。どうしていくつかの街に分けることをせずに一言で街と呼んでいるんだろう。どう考えても街という大きさではない。国全体が一つの街というところはぼくの世界にもあるけれど、そういう国よりも大きいのだからやっぱりおかしい。
人間が多くなってきた辺りで公爵夫人が手を上げて辻馬車を停めた。街の中の移動はやはり馬車か蒸気自動車を使うのが正しい選択のようだ。路肩には客待ちの馬車が停まっていて、御者さんが馬の背を撫でている。けれど、馬車や自動車を使っても一日で街全体を回るのは無理だろうな。それを考えると、いくらジェラルドさんの足が速いと言ってもそれほど遠くまでは行けないだろう。馬一匹と二頭立て馬車だとどちらの方が速いのかな。
どちらまで? と御者さんに訊ねられた公爵夫人がちょっと考え込んでいると、黒髪のポニーテールが目の前を過ぎて行った。後を追うライオンの姿は見えない。うまく撒いたらしい。
「あのドミノを追ってちょうだい」
「ようし、分かった。掴まってな!」
御者さんの威勢のいい声と共に馬が大きく嘶き、馬車が動き出した。後から乗り込んだぼくはまだ座っていなかったので、バランスを崩して公爵夫人に倒れ込んでしまった。ふわふわもこもこのフリルの塊に受け止められる。怪我の心配はないけれど、ふわふわに埋もれて一瞬窒息しそうになった。
馬車は車輪をごとごと言わせながら道路を走る。その速さに人々が振り向き、野良猫が逃げ出す。こんな速さで走っていたら捕まるんじゃないだろうか。大丈夫かな。
曲がり角にジェラルドさんのポニーテールが消えると、それを追って馬車も曲がる。そんなことを何回か繰り返した頃、公爵夫人が御者さんに合図して馬車を停めさせた。ここで停まってはジェラルドさんを見失ってしまうのではないだろうか。公爵夫人は「お釣りはいらないわ」と御者さんに紙幣を握らせ、降りるようぼくを促す。そして、降り立った後ろでは御者さんが大金におののいていた。
鞭の音が鳴り、馬車が走り去る。見てみるとそこは細い路地であり、馬車が入れるような場所ではなかった。これでは降りるしかないか。
「行きましょう。きっとこの先よ」
そこは公爵夫人の豪奢なドレス姿とは釣り合わない路地だった。所々にゴミが落ちていて、それを鼠がむさぼっている。と思ったら、その鼠は猫に咥えられてどこかへ連れて行かれてしまった。裾が汚れないように軽くたくし上げながら公爵夫人は歩いている。すらりとした細い脚がちらちら見えていて、よくこの脚でそんなドレス着て歩けますよね、と訊きたくなる。けれど笑って済まされるだろうから余計な質問はしないでおこう。細いけれど逞しいのかもしれない。
蹄の音が聞こえてきたのでぼく達はそちらへ向かう。ニールさんやキャシーさんは腕を獣に変えて戦うけれど、ジェラルドさんは脚を変えて速く走るそうだ。だから走っている時は裸足らしい。
この辺ですかね、と訊こうとして公爵夫人に口を押えられた。角からちょっとだけ覗き込むと、ジェラルドさんがいるのが見えた。息を殺してぼく達は様子を窺う。すると、路地の向こうから別の誰かがやってきて向かいに立った。黒と黒が向かい合っている。その姿を見てぼくは声が出そうになったけれど、公爵夫人に押さえつけられてどうにか我慢する。
それはドミノだった。頭の上に三角形の耳が立っていて、ふさふさの尻尾が揺れている。纏っているのはワンダーランドの雰囲気にはあまり似つかわしくないライダースジャケットだ。そして、脚にぴったりの黒いスキニーを履いている。首元にはパンクな首輪をつけており、外見の印象はロックミュージシャンのようだ。男の人、かな。問題はそのドミノの足下だ。昼間だから影が落ちているのは当たり前なのだけれど、石畳に落ちる彼の影が不自然にゆらゆら揺れているのだ。
あれはバンダースナッチだ。チェスに魅せられ、影に囚われた犬の末裔。どうしてジェラルドさんと……というより、何で街にいるんだ。
「やあユニコーン。何日も悪いな。お疲れ様」
「……今日はオマエか」
「いつもいつも坊ちゃんを煩わせるわけにもいかないからなあ」
「よくできた使用人だな」
挨拶を交わした後、何やら話し込んでいるようだけれどここからではよく聞こえない。ちらりと公爵夫人を見ると、彼女はバンダースナッチのことを凝視していた。琥珀色の瞳が鋭く相手を射抜く。何か特別気になることでもあるのかな。
会話が終われば出てくるだろう。通りの方で待っていようかな。ばたばたとした足音が路地裏に響いたのは、そう思った時だった。バンダースナッチの犬耳がびくっと動いて軽く前方に向けられる。ジェラルドさんが振り向くと長いポニーテールが体に遅れて動いた。
「いたー! ジェラルドー!」
キャシーさんの声だ。バンダースナッチの足下から影が沸くように出て来て姿が見えなくなる。そして、影が霧散するとそこに彼の姿はなかった。
「見付けた!」
地面を蹴って跳躍したキャシーさんがジェラルドさんに飛び付く。いや、飛び掛かった。まさに獲物を捕らえんとするライオンの姿だ。そして、二人は折り重なるようにして石畳に転がった。体を起こしたキャシーさんがやや紅潮した顔でジェラルドさんを見下ろす。走ってきたからか息が少し上がっているようだった。一方のジェラルドさんは無表情な顔を僅かに歪めて後頭部をさすっている。
交わる二人の視線。恋愛小説でも始まりそうだ。にやにやしている公爵夫人と共に様子を見ていると、キャシーさんが獣のままの腕を伸ばしてジェラルドさんの肩を掴み大きく揺さぶった。不意を突かれてジェラルドさんは再び後頭部を打つ。
「もう! どこ行ってたのよ!」
「痛い」
「探したのよ!」
「痛い」
そろそろかしら。そう言って公爵夫人が動いたので、ぼくも一緒に二人の前に姿を現す。揉み合っていた二人が揃ってこちらを見る。キャシーさんはちょっと驚いた様子で、ジェラルドさんはやや睨みつけるように。キャシーさんはともかく、もしかしたらジェラルドさんには気が付かれていたかもしれない。だからバンダースナッチとこそこそしていたのかも。
キャシーさんを押し退けて起き上がり、ジェラルドさんはジャケットに付いた土を払う。キャシーさんはぺたんと座り込んでいる。
「心配かけたみたいだな」
「コーカスレースまで動いたのよ。私だってわざわざ……」
「ご苦労様です、ブリッジ公爵夫人」
嫌味な感じに言っているけれど顔は無表情のままだ。公爵夫人が微妙に眉をひくつかせる。
「森を騒がせた二人には、ちゃあんと説明してもらうわよ。いいわね」
「アタシも!?」
「当たり前でしょ。来なさい」
人のものに戻ったキャシーさんの腕を取り、立ち上がらせる。そしてそのまま公爵夫人はキャシーさんを引き摺るようにして路地を出て行く。帰りも適当なところで辻馬車を拾っていくんだろうな。公爵夫人に引っ張られるキャシーさんがちらりと振り返ってジェラルドさんを睨んだ。ジェラルドさんもちょっとだけ表情を変える。やっぱり喧嘩でもしているんだろうか。
公爵夫人がぼく達を促す。ぼくはジェラルドさんの手を取って、空いてる左手を軽く振る。
「先に行っててください。ぼく達、ちょっと寄る所があるんで」
「何を言っているんだオマエ」
ジェラルドさんが切れ長な目を丸くする。公爵夫人とキャシーさんは首を傾げていたけれど、「分かったわ」と言って去って行った。ジェラルドさんはぼくの手を振り払う。
「何のつもりだ」
「キャシーさんと喧嘩してるんですよね」
「……そのことか」
そのことじゃなかったらどのことなんだろう。やっぱりバンダースナッチとの密会を見ていたのがバレているんだろうか。けれど、ここでそれを訊いてしまっては墓穴を掘るだけな気がする。やめておこう。
ジェラルドさんは溜息をついて歩き出した。ぼくに背を向けたまま「どこに寄るんだ」と訊いてきたので、ぼくは早足で横に並ぶ。
「何があったのかは後で公爵夫人が訊くと思うのでぼくは何も言いませんが、仲直りのお手伝いをさせてください」
「余計なお世話だ」
「友達が妹との仲直りにケーキを買っていたんです。キャシーさん、ケーキ好きですか?」
「嫌いではないんじゃないか」
「じゃあケーキ買って帰りましょう!」
呆れた様子でジェラルドさんは再び溜息をついた。通りに出たところで辻馬車を停め、ぶたのしっぽ商店街まで乗せてもらう。ぼくはワンダーランドの通貨を持っていないので、お金はもちろんジェラルドさんが払う。がたころと車輪の回る馬車に揺られながら、ぼくの頭の中ではマザーグースの一曲が流れ始めていた。街で追いかけっこをしたライオンとユニコーンにはやはりあのケーキだろう。
頬杖を突いたジェラルドさんが探るようにこちらを見て来た。
「オマエ、公爵夫人の親戚だったな」
「あ、はい」
「それで、王宮騎士を目指していると」
改めて考えるとやっぱりぼくの設定盛り過ぎだよな。
「名前は、ナオユキ君?」
「そうです」
「ふーん」
濃い紫色の瞳が宵闇のように揺らぐ。この人と接するときは緊張感を持っていないといけないかもしれない。何でか分からないけれど、気を許しすぎると危ない気がする。




